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狼の生贄 -伊豆高原殺人事件-  作者: 青木 地平
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エピローグ(狼の生贄)

小林玄太郎と小林佳子両容疑者の身柄は逮捕後すぐに捜査本部がある伊東市内の伊豆東警察署に移送された。警察での拘留期間は48時間である。その間に証拠と供述を揃え静岡地検に送致しなければならない。署に移送後少し休憩を入れてすぐに取り調べが始まった。

逮捕された二人はどう見ても憔悴しきっている様子だったが両人とも取調官の質問には意外と素直に応じた。玄太郎が『ある一部』の供述を拒んだ他は…。ただ、それを除けばほぼ『完落ち』と言っていいほどのものであった。それから、到着後すぐに小林夫妻の指紋が採取され、伊勢丸の船体から検出された指紋と照合された。結果は両者の指紋がその船体から検出されたうちのいくつかの指紋と一致し、小林夫妻の伊勢丸への乗船が改めて確認された。


「事件のことを話そう…」と小林玄太郎は観念したように言って供述を始めた。

取調室で玄太郎が口を開く。

「私は義弟の一郎とはウマが合わないこともあって以前から警戒していた。彼の会社が潰れ、妹から泣きつかれて仕方なくうちの会社で引き取ったが、正直、私の気持ちの休まる時はなかった。彼の性格とうちの社風とではだいぶ違いがあるように感じられたし、前の会社を経営していた時に胡散臭い政治家やそれに連なる暴力団とも付き合いがあったことも大きな不安だった。それでも彼は、初めのうちは傷心の身であったせいかおとなしく仕事をしていた。それで少し安心しかけたところだったが、すぐに東京支店から一郎をめぐる不穏な動きがあることが私のもとにもたらされた。

東京支店の社員らが私の経営方針に理解を示さず反発していることが大きな理由だという。その時は何でみんな分かってくれないのかという大きな怒りがこみ上げてきたものだ。会社が大きくなれば、儲かればそれでいいという考えではとても茶舗として長続きできるものではない。先代は拡大路線で一応の成功を収めたが、それは時代の恩恵によるところが大きかったと私は感じている。戦後の高度成長の波に乗りそれまで扱っていなかった清涼飲料水、いわゆるジュースと言われるものがバカ売れした。その後の低成長時代を経てバブル期にかけてもお茶の売上よりもその清涼飲料水の売り上げの方が大きかった。しかし、バブルは崩壊。我が小林園もバブル期にかけて増やした清涼飲料水向けの設備投資が仇となり一時期赤字に陥った。その責任を取って先代は辞任。長男である私が跡を継いだ。もっとも私もそれまで専務として小林園の経営に携わっていたのだからバブル期の責任が全くないわけではない。それでも、バトンを受け継いだからにはこれまでとは違う経営方針を打ち出さなければならないと考えた私は本業回帰を訴え、本業であるお茶による経営再建を図った。幸か不幸か私は社長になる前はお茶部門の責任者で社長になるまで基本的にお茶以外の事業に携わったことはなかった。だから当時はお茶のことは社内で一番よく分かっていると自負していた。もっともその思いは今でも変わらんが…な。それで徐々にこれまでの過剰設備を整理し、人員もなるべくお茶の部門に集中させた。しばらくするとお茶の売り上げが伸び始める。特にお茶の成分に『カテキン』というポリフェノールがあると世間で知られ始めると爆発的に緑茶飲料が売れ始めた。そしていくつかの商品が国からトクホ(特定保健用食品)に指定されたことも大きく売り上げに貢献した。危機は脱しつつあった。しかし社内に緩みが出始めたのもこの頃からだ。過去のいきさつを知らない入社したての若い社員や売り上げが急速に伸びていた首都圏を担当する東京支店の社員らは私の冒険しない堅実な経営姿勢を保守的だ、消極的だと言って批判し不満と反感を募らせていった。

 そんな時に元アパレル会社社長でかねてより拡大志向が強かった義弟の水谷一郎が東京支店を中心に小林園社内で台頭してきた。私は正直そんな彼を脅威に思った。やがて彼が次期社長の座を狙っているという報が私のもとに入ってきた。しかも彼の旧友である大物政治家、村田孝一も支援に乗り出しているというではないか。現に村田の差し金で水谷のサポート役として暴力団からの紹介だという得体の知れない女もやって来ていた。村田孝一は政界のモンスターとも言われる超実力者で暴力団とも繋がりのある危険人物だ。うん…、他の人ならいざ知らず少なくとも私はそういう認識でいた。だからその時は何をされるか分からない恐ろしさを感じたものだった。そして、もし一郎が社長になればまたかつて先代がとったような拡大路線に走るだろう。しかも今度は素人に近い人物が経営者なのだ。無謀な経営がされるのではないかと私は心底危惧した。実際彼は一度は隆盛を誇ったとはいえバブル崩壊に対応できず、自分の会社を潰した人間だ。やはり信用がおけない…。それでも、拡大志向でもなんでもとにかく売上げが取れればいいんだろうがリーマンショックなどの例があるように経済の動きも早くなかなか先を見通すのは難しい…。拡大志向の中でひとたび大きな経済ショックに見舞われれば過剰設備や過剰人員などの大きな経営問題を抱え、それを処理するには膨大なコストとエネルギーを必要とする。しかも彼は先程も触れたようにお茶については全くと言っていいほどの素人だ。小林園の経営にもタッチしておらず私から言わせればあいつは東京支店という狭い井戸の中でちょっとちやほやされているだけのただのかわずだ。『井の中の蛙、大海を知らず』この諺通りの彼が社長になればこの会社は必ずダメになる。私はそう確信するに至ったのだ。

 私はこの約300年続いた老舗の暖簾を守るため、なんとかしなければならないと強く思った。私は副社長でもある妻の佳子に相談した。佳子は一郎を排除できないかと言ってきた。しかし彼は私の実の妹の夫で彼を排除すれば妹との仲も険悪になってしまうのは明らかだ。妹の香は経営にこそタッチしていなかったが、社長辞任の翌年に死んだ先代である親父の遺産の一部を相続していて小林園の株式も一定数保有している。まあ、その株で会社をどうこうできるというものではないのだが、ひとたび兄妹で争いが起きれば往々にしてそれは長引き泥沼にはまる。そしてマスコミには面白おかしく書かれて…。まあ、これまでの例からも分かるように大企業での同族間の争いは大きく企業価値を毀損する。

 私は創業家の子孫として、そして現経営者として決断と行動を迫られていた。そして私はある恐ろしい結論に辿り着く。そう…、あなた方が推察する通り水谷一郎を殺害するということをな。しかし、この道しかないと思い定めた後も苦悩は続いた。その苦悩に耐え切れず私は妻に相談した。私は妻から反対されればこの計画の実行はやめようとどこかで思っていた。しかし、彼女はやめようとは言わなかった。むしろ『私も協力するからその計画、必ず成功させましょう』と言ってきたのだ。佳子もそれしかないと思い定めたのだろう…。息子への後継ということも頭にあったかもしれない。まあ、そこは親だからね。今の私の地位を穏当に長男の祐太郎に引き継いでもらいたいと妻が思ったとしても何ら不思議はない。現に私もそう思ったしな…。

 ともかくこうして私たちの計画は動き出した。まずは自分らに捜査の手が及ばないよう一郎の前の会社での怨恨が原因で事件が起きたと見せかけることにした。私は用心深い性格でね。一郎の前の会社、ダイヤスタイルにも何人かのスパイを潜り込ませていた。だから彼の会社の内部事情は大方把握していた。そう、彼の愛人のことも社内での確執のこともね。

 私はまず、殺人事件が起きたらまず真っ先に疑われるであろう妹、香のアリバイづくりを行なった。京都の香の友人を事件当日にまたがるように行かせ、特に事件当日はどこかに遊びに行くように仕向けた。具体的には歌舞伎座だ。歌舞伎座のチケットを贈っておいた。

 そして次に一郎の元愛人の一条幸恵に接触を試みた。実は彼女とはちょっとした知り合いでね。彼女自身多少お茶に興味があったようで時々京都のうちの店にも遊びに来ていたんだ。

 うん…、で、その一条幸恵を使ってトリックを仕掛けた。事件前々日の2月4日の朝、彼女にこれまで住んでいた埼玉県戸田市内のアパートから出て行ってもらい、その後その手の業者に頼んで丹念に清掃させた。

それこそ塵一つない完璧な状態にだ。そして翌2月5日の夜そこへ私にも接近してきた一郎のサポート役の女、水嶋麗子と言ったかな。そいつを招き入れる。といっても私はそこにはいない。詳しく話すと、まずその女、水嶋麗子とJR戸田駅で夜の8時に待ち合わせた。そして私は遅れると言って電話を入れ、そのアパートの部屋を案内し、そこで待ってもらうように言った。部屋のカギは開けてある。しばらくして急用で今日は来れなくなったと電話を入れた。私は『よかったら今日はそこで一晩、泊まっていってくれ』と言った。『その代わり明日の夜、深夜になってしまうが一郎君と一緒に再起を誓うべく、彼がかつて絶頂を極めた頃に建てた伊豆高原の保養所があったあの場所で会おうじゃないか』と提案した。『こちらとしては社長の座を画期的な経営ビジョンがある一郎君に譲り渡す用意がある。一郎君にはこちらから連絡しておく』と言い添えてね。そして彼らは何も知らずに伊豆高原へやってきた。こちらの計画通りだった。妻の佳子は釣り船に乗って伊東に一足先に着き車と証拠隠滅用の灯油を現地で調達して待っていた。灯油については釣り船の船長から分けてもらったと聞いている。車については佳子が盗んで調達した。その車の盗難成功の報を受け、私は配送委託先のトラックで京都から移動し、日付が変わった2月6日の午前零時半過ぎに伊豆高原に到着した。人目につかない山あいの雑木林で待ち合わせた私たちはすぐに現場となるダイヤスタイルの保養所跡地に向かった。そこで一郎らと落ち合いすぐに計画を実行に移す。すべては一瞬の出来事だった。私は首尾よく二人を殺害すると、すぐに殺した女の髪の毛を切り取って自分のポケットに入れた。そして車に戻り用意してあった灯油をその遺体にかけ火をつけた。切った髪の毛は事件翌日、一郎の葬儀の打ち合わせなどで上京する際に埼玉・戸田市内にある一条幸恵のアパートまで出向き、そこでばら撒いた。遺体を一条幸恵だと思わせるためにな。


うん…、話を戻そう。

それで私は遺体に火をつけると急いで妻が待っている車に乗り込み逃走を図った。と言っても検問や防犯カメラなどに引っかかる恐れがあるため、あまり動くのはかえってよくないと一碧湖近くの雑木林でしばらく待機することにした。その時に、あ、うん、やはり自分は犯罪の素人なんだな…。急に怖くなってね。ここは死者に対する弔いが必要なんじゃないかって思い始めて、いてもたってもいられなくなった。笑われるだろうが私はこれでも仏を篤く信じる仏教徒でもある。あまり知られてはいないが済光宗という禅宗の一派があるんだが私はそこの信者でそこの儀式に則った弔いを一碧湖でやった。湖の真ん中にボートが浮かんでいてその中に鏡があったろう?。それがその時やった儀式の名残だ。そしてその儀式を終えると私たちは夜が明ける前に伊東港に着こうと移動を始める。夜が明ければ本格的な捜査が始まることは目に見えていたからな。車をなるべく事件現場とは離れた場所に置きそこから伊東港まで徒歩とバスで移動して早朝そこから再び釣り船に乗って三重の港まで戻った。その帰りの海上で凶器であるナイフと返り血を浴びた上着を捨てた。その際に血痕が船体に付着したことなど全く気付かなかった。不覚だった…。

 それでも当初の私たちの目論見はうまくいき、警察は過去の怨恨の線で捜査を始める。しかも民友党の総裁選に出馬を決意していた村田孝一がこの事件への関与の発覚を怖れて捜査に圧力をかけてくれたこともあり捜査は暗礁に乗り上げていく。私たちはしばし安堵の胸をなでおろした。この時はこれも私が一碧湖で弔いの儀式をしたお陰だと勝手に思ったりもしたものだ。だからそれ以降かえって信心深さが増してね、法光寺にも足繁く通うようになった。今となってはまったくのお笑いぐさなのだが…。まあ、以上が私の知っている事件の全てだ…。

それからあと…、これは余談だが、思い返せば俺たちはみんな村田孝一という猟官に燃えた『狼』に踊らされただけなのかもしれん…。殺した側の俺が言うのもなんだが、殺された奴らはこの『狼の生贄』にされたのだと今になっては思うよ…」

「狼の生贄か…、確かにそうかもしれんな。俺たちも危うくその生贄にされそうになったしな。で、おまえの供述はそれで全てか?」

「ああ」

「だったら玄太郎、一つ重要なことを言い忘れているぞ」と児玉が硬い声で言った。

「うん?」

「とぼけるな!。現在行方不明になっている一条幸恵のことだ。彼女はいまどこにいる⁉︎」と児玉が厳しい表情で詰問した。

「ああ…、それか。彼女なら今ごろ南の島で楽しくやっているよ」

「南の島!?。どこだそこは?」

「それは悪いが言いたくないな。彼女が望んだことでもあるし」

「うん?。彼女はちゃんと生きているのか?」

「ああ、それは大丈夫。俺が保障するよ。まあ、正直言えば一瞬一条を殺しちまえば楽かとも思ったが、これまでの彼女の人生の歩みを見ているとなんだか哀れに思えてな。それに彼女はお茶に対する造詣もあって私とは不思議とウマが合った。まあ妹の恋敵の女だったが…、殺すには忍びないと思ったよ。

「まったくずらずら寝言みたいなこと言ってんじゃねえぞ!。それに何が俺が保障するだ。殺人犯が何を言っても説得力はねえからな!!」

「アハハ、もっともだ」

「いいか玄太郎!、一条幸恵はこの事件に巻き込まれた被害者だ。どんな理由があるにせよ事件前の状態への復帰が求められる‼︎」

「まあ、刑事さん、理屈はどうあれ、とにかく言いたくないもんは言いたくないんだ。黙秘権てやつだよ。それが彼女のためでもある。俺はそう信じている」


 結局、この件について小林玄太郎は黙秘を貫き一条幸恵の行方はついに知れることはなかった…。

            

 完



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