左遷
伊豆東警察署
正午過ぎ、児玉と丸山は大きな不安と僅かな希望を胸に伊東市内にある伊豆東署捜査本部の扉を開けた。児玉らの処分は特捜部の強制捜査を受け『とりあえず様子を見たい』という山岡県警本部長の意向を受け、急遽『保留』と決まって捜査本部にもそれが伝えられていた。ただ、捜査から外されることに変更はなかった。
「課長、ただ今戻りました…」と児玉は少し不安げな表情で声を発した。
「ああ」と気のない返事で刑事課長の松平が迎える。そして、
「おまえらの処分は保留と決まった。とりあえず捜査からは外れて、内勤になってもらう。警務課付けとなるから今後はそちらの業務に励むように。しばらく経ったら追って処分を言い渡す。以上だ!」と、有無を言わさぬ態度で言い放った。
「え!?」と思わず児玉が訊き返す。
「あぁ!?、何かあんのか?」と松平も思わず凄む。
「あ、いえ、わ、分かりました」
「よし分かったらさっさと行け!。ここには当分出入り禁止だ‼︎」
「は、はい…」と答え、児玉と丸山の二人はある程度覚悟していたこととはいえ思わず落胆の表情を浮かべる。二人は仕方なく捜査本部のある講堂に背を向け1階の警務課へと続く階段をとぼとぼと力なく降りていく。ちなみに静岡県警警察署内の警務課というところは、受付、職員の福利厚生、健康管理、警察官の採用事務、留置管理業務を行なう部署であった。警務課に着きとりあえず警務課長の三田に挨拶する。一応は顔なじみなのでお互い思わず笑みが浮かぶ。が、しかしこの状況ではその笑顔も長くは続かない…。
「課長、しばらくお世話になります…」と児玉は力なく挨拶した。
「ああ、今回は災難だったね」と三田が同情する。
「ええ、ただまあ、こうなるのは多少覚悟の上でしたので…」と児玉はここでもまだ少し強がりを言ってみせた。
「そうか…、うん、ところで君たちのことは婦警の上田さんに頼もうと思う。君らも顔ぐらいは知っているだろう。まあ、そう気を落とさず、しばらく休みをもらったつもりでリラックスしてやってくれ」
「はい、ありがとうございます」
「うん。ああ、上田さん、刑事課の児玉さんに丸山さんだ。今日からしばらくうちの課を手伝ってもらうことになったので、上田さん何かと教えてやってくれんか」
「はい、分かりました」と上田は机越しに返事を寄越す。彼女は入職20数年、警務だけでも10年以上のベテランでこの課の業務は十二分にマスターしていた。
「まあ、また浮かぶ時もあるさ。いまは腐らずやることだな」と三田は二人を励ます。
「はい、ありがとうございます!」と改めて二人は頭を下げて三田に礼を言った。
と…、そうは言っても警務課内で児玉らにやってもらう仕事らしい仕事はない。上田婦警から仰せつかった仕事は警務課倉庫の整理だった…。
「すみません、倉庫の整理なんかで、私もやろうやろうと思っているんですがなかなかできなくて、本当に刑事さんにこんなこと頼んでしまって申し訳ないんですが…」
「いえいえ、こういう仕事の方がかえって落ち着きます。正直、今は人前で仕事をする方がちょっとつらいですから…」と児玉は本音も交え必死で言葉を繕った。
「そうですか…。うん、でも、とにかく男の人が来てくれて助かっちゃう。女の私だと全然捗らなくて。じゃ、すみませんがお願いできますか。私、別の仕事があるのでちょっと外しますけど、何か分からないことがあったら遠慮なく訊いてくださいね。あ、あと、定時の終業時刻、夕方の5時15分になったら帰ってもらっていいですから。で、また明日続きをやってもらえれば。ええ、定時の始業時刻8時半から。それと…、もしなんだったら課の朝礼には出てもらわなくてもいいですよ。私が必要なことは聞いておいて後でお二人にご説明しますので。ええ…、ではすみませんが分かる所からでいいのでよろしくお願いします」とそう言って上田婦警は倉庫の扉を閉め出ていった。
倉庫内は児玉と丸山の二人きりになった。倉庫といっても所詮は警察署内である。それほど広いわけではない。それでも二人だけで少しガラーンとした薄暗い空間にいると左遷されたという実感が湧いてきてやはり切ない気持ちになる。児玉と丸山はしばらく茫然自失の感でため息混じりに座りこんでしまった。
児玉も丸山も警察に入ってからこんな経験は初めてだった。真犯人逮捕に向け頑張っているだけなのになぜこんな目に遭わなければならないのか…、二人は世の無情を感ぜずにはいられなかった。薄暗い倉庫にいて二人は、それでも『何としてでもここからはい出て捜査の第一線に立たなければ』という思いを強くするのだった。
しばらく二人で作業をしていると、突然、倉庫の扉が開いた。
「タマさん、マルちゃん元気?」と少しおどけた声で男が入ってきた。鑑識係の源田である。
「おう、ゲンさん。久しぶり。元気そうだな」と児玉が言い、落ち込んでいた二人に思わず笑みがこぼれる。
「まあ、なんとかね。それにしても二人ともお疲れ様。見たよ静岡日報。あれで特捜部が動いたんでしょ?」
「まあな。でも、こうなったのもゲンさんのお陰でもあるけどな」
「いやいや、俺の働きなんてこれぽっちでしょ。あっ、これ差し入れね」と源田は言ってよく冷えた缶コーヒーを二人に手渡す。源田も同じものを持っていて暫し三人でコーヒーを飲みながら休憩となった。
「ゲンさん、署内というかこっちの状況はどうですか?」と丸山が尋ねる。
「うん、そうだな署内は変わらないというか…、捜査本部は全くと言っていいほど動きがない。やる気がないとしか思えんな」
「やはり、上からの圧力が効いていると?」と今度は児玉が尋ねた。
「ああ、どうやらそういうことだな。だがな、今日の特捜部の強制捜査で潮目が変わるかもしれんぞ。圧力の大元の村田大臣が失脚して地に堕ちればうちら警察も動きやすくなるってもんだ。それにあの記事が静岡日報に載った以上は捜査の目、世間の目は当然小林玄太郎に向かう。うちの捜査本部もこれまでのようにはいかなくなるだろうよ。そうなりゃおまえさんたちにも活躍の芽が出てくるってもんだ。現に本来なら懲戒処分になるところを処分保留になっているし、こりゃ状況次第によっちゃいい方向に転がるかもしれんぞ」
「まあ、それを期待して今回こんな危ない橋を渡ったんだがな。ゲンさんだから話すけど、いま大掛かりな共同戦線を張ってるんだ」
「共同戦線?」
「ああ、今回記事が載ると同時に特捜部が動いたのもこの共同戦線があるからなんだ」
「じゃ、特捜部と組んでいると?」
「うん。まあ正確には特捜部内の一検事とだけど、他にも警視庁捜査二課の刑事、静岡日報の記者、それと東報新聞の記者もいるんだ」
「へえ、なかなかすごいな」
「それで、おまえもその仲間に入ってもらいたい」
「え?、俺なんかでいいのか?。あんまり役立ちそうにないけどな」
「何言ってんだ。これまでだってすごく役立ってきたじゃないか。それに俺らとおまえじゃ気心が知れている。今日だってこうやって来てくれてとても心強く思ってるんだ」
「そうか、ありがとよ。じゃこの源田壮一、微力ながら助太刀いたすってな。タマさん、マルちゃん、俺でできることだったら何でもすっからよ。遠慮なく言ってくれや」
「ああ、ありがとう。その時は頼むぜ!」と児玉は力強く言った。
その後源田は持ち場に戻り二人はまた作業に励む。
定時の午後5時15分になった。二人は警務課長の三田に終業の挨拶に行く。
「お疲れさまでした」そう言い残し二人は職場を後にした。明日も定時の朝8時半から倉庫整理の続きである。
しかし、上がろうとする自分らの背に向けられる課員達の視線が痛い。児玉は強くそう感じた。外に出るまでに何人かとすれ違う。帰宅と気付いた何人かは「お疲れさまでした」と声をかけてくる。被害妄想かもしれないが二人は何かバカにされているような感覚に襲われ、バツが悪そうに「お疲れさまでした」と小声で返す。劣等感から自然と声が小さくなり背が丸くなる。刑事が捜査を外され定時で帰るというのはこうも情けなく恥ずかしいものかと思い知らされる。最後に署の前に立つ門衛の警官に敬礼した。そこでもダメ押しのように「お疲れさまでした」と言われ、児玉らは気恥ずかしさからさらに背を屈めやっとの思いで「お疲れさまでした」という言葉を口から絞り出し逃げるように外に出た。
外はまだ意外と明るい。捜査本部の人間は曲がりなりにも仕事を続けているというのに、しかし自分たちは…と思うと情けなさがまたじわっと込み上げてくる。
すぐに駐車場に停めてある自分達のそれぞれの車に向かう。が、二人ともこのまま帰る気にはなれなかった…。早く帰る理由を家族に話すのが億劫だと感じているところもある。
「マルさん、今日はちょっと飲んでいかんか?。帰りはタクシーで送るから」と児玉がたまらず声をかけた。
「ええ、自分もそうしたいと思っていたところなんです。ただ、帰りはバスで帰れますからタクシーはとってもらわなくていいですよ」
「そうか。じゃ、行くか」
「はい!」と丸山が応え、二人は歩く方向を伊東駅の方に向けた。駅の近くに居酒屋があるからだ。警察署から駅までは歩くと約20分。少し時間がかかる。それでも二人は署から駅まで行くのに、めったにバスは使わない。刑事課で飲み会があるときもたいていはみんなでワイワイ話しながら駅周辺の居酒屋まで歩いて行く。ただ、今はそんな気分にはなれず二人は無言で黙々と歩く。伊豆の夕景が目にしみる。児玉は強くそう感じた。こんなに早く上がったのは何年ぶりだろう。少なくとも刑事になってからは記憶がない。児玉は一人そう回想する。気恥ずかしさからか、つい歩くのが速くなる。こんな姿を誰にも見られたくなかった…。『くそ!』と児玉は心の中で強く叫ぶ。
やっとの思いで居酒屋に着いた。急いで来たにも拘わらず署からここまではいつもより長く感じられた。それでも早歩きできたせいだろうしっとりと汗がにじむ。喉がすっかり渇いていた。二人は店に入りまだ空いている店内を見渡す。そして壁を背にして落ち着ける奥の席に納まった。空いていてまだ賑やかさがないとはいえ、店内の俗っぽい娑婆の雰囲気に児玉は思わずホッとする。
「ビールでいいか?」と出されたお絞りで手を拭きながら児玉は丸山に尋ねた。
「ええ。もう喉がカラカラで」と丸山が答える。
「じゃ、生大で?」
「あ、いえ生中でいいです」
「そうか」
児玉は店員にビールジョッキの生中を二つ頼んだ。すぐにお通しと一緒にうまそうな生中ジョッキが目の前に差し出される。二人ともジョッキの半分ぐらいまで一気に飲み進める。
「いや〜、それにしても参りましたね~、今回は。まさか倉庫整理とは」
「ほんとにな~。まあ、ある程度は覚悟してたが…、実際そうなってみると結構こたえる…」
「肉体的っていうより精神的にこたえますよね?」
「ああ、まったくだ。にしても、このままじゃ終われねーな。なにが何でも捜査の第一線に復帰しないと」
「ええ、本当ですよ」
「いま特捜部はどうなんでしょうね。うまく村田の息の根を止めてくれればいいんですが」
「情勢がはっきりするまでにはまだ時間がかかるだろう。だが、特捜がうまくやってくれて村田が失脚すれば捜査への圧力は自然と解けていくはずだ。そうなればゲンさんの言ってた通り俺らの活躍の芽も出てくるってもんだ!」
「ええ!。俺らの望みはそこですよね‼︎」
「ああ、そうだ‼︎」と児玉は言ってビールをぐいっと一口含み喉に流し込む。
「これからのことですが、共同戦線の彼らとの連絡はどうしますか?」と丸山が尋ねた。
「うん…。赤坂の喫茶店で会って以来だからな。ただ、今はみんな大変だろう。もう少し落ち着いたら田嶋に連絡してみよう」
「分かりました。では頃合を見計らって自分が連絡をとってみます」
「ああ、頼む。う〜ん、それにしてもみんな忙しくしてんだろうな~。それにひきかえ俺らは何やってんだか、課の朝礼にも出なくていいとまで言われて…」
「あ〜、それを言わないでくださいよ〜!。酒がまずくなる。ただでさえそれを引きずってこれから家族に会うのかと思うとそれだけで憂鬱になるのに〜」
「ああ、そうだな。すまん。すまん」
「でも絶対に天は見放しませんよ。現に特捜部と警視庁はやってくれたじゃないですか。今や村田は、彼自身が犯したその罪を白日のもとに晒されつつありますから我々の計画は成功しつつあります」
「ああ、そうだ。天は我々を見放してはいない!。それどころか導いてくれている感じだ」
「ええ、そうですね!」
「ところで、青田さんというか警視庁の捜査はどうなんだろ?。ニュースが見たいな」
「とりあえず携帯で見てみますね」と丸山は言って、携帯電話のスマホをポケットから取り出しネットに素早く繋ぐ。検索サイトを出すと初めの画面にニュース項目が並んでいて、そのトップに【東京地検特捜部と警視庁組織犯罪対策部が村田経産相関係先を強制捜査】というタイトルがあった。丸山は迷わずそこをタップする。そして児玉と二人で覗きこむ。
これまで主に報じられている特捜部の捜査に加え警視庁のソタイ(組織犯罪対策部)による捜査も大きく報じられていた。警視庁の捜索先は広域指定暴力団・東○会東京本部事務所で村田経産大臣の元女性秘書が中国からの密入国者の疑いがあり、その密入国をこの東○会が仲介し、さらに村田大臣にこの女を紹介した模様とある。しかもその者は汚職を重ねた中国共産党地方幹部の元愛人で自身も不正に深く関与し、現在中国公安省から指名手配されている人物の可能性が極めて高いと記されていた。記事の中には『類は友を呼ぶ』『同じ穴のむじな』の文言も見られる。陳麗華と暴力団のことである。二人はすぐに納得した。確かにそうでもなければ暴力団の仲介で日本に密入国などしないだろうと…。
そして、画面には本日付で警視庁組織犯罪対策部と東京入国管理局が合同で捜査本部を立ち上げたとあった。続いて暴力団による密入国の実態を徹底解明することが求められると記されている。
それを読み児玉の脳裡に思いがめぐる。その中国公安省から指名手配されている女が日本の暴力団の紹介で現職の経済産業大臣である村田孝一の私設秘書に納まり、その村田大臣の差配で村田の友人である水谷一郎の小林園社長就任のための工作員となった。結果、彼女は水谷と共に伊豆高原で命を奪われる。そして、その女工作員、陳麗華の遺体は、今は表向き水谷の元愛人、一条幸恵として静岡県警科学捜査研究所の遺体安置所にある…。児玉はその厳然たる事実の重大さに思わず背筋が寒くなるのを覚えた。
全てが明るみに出れば日中の外交問題に発展することは避けられない。しかも事件の背後にいる村田孝一は政界でも中国嫌い、対中強硬論者として知られている。ただでさえぎくしゃくしている最近の日中関係が更に難しくなることは確実だ。児玉は、このことは現在の宮坂政権の命脈に関わる重大問題であるとも思った。これ一つとっても政権から捜査に圧力がかかるのは無理もないと児玉は変に納得しながら、それに連なり、政権の意向をもろに受けて県警本部、捜査本部が頑なに被害女性の身元を陳麗華ではなく一条幸恵だと言い張るのもその線から児玉は無理なくスーっと理解できた。まして政権から見ればかなり下方に位置する県警の立場からすれば無理からぬやむを得ない対応だとも思えてしまう。
無論これも本来おかしくはあるのだがそう思えてしまうのは児玉自身、長く警察という組織に身を置き基本的には上に逆らえないという組織人の辛さと悲しさを少なからず経験しまた、それを自分なりに理解してきたせいもあった…。
話を戻し、実際には捜査本部内では一条幸恵が被害者でないことはほぼ『常識』となっていたが、その一条が行方不明なのをいいことに『一条ではない』という発表は控えている。とにかく警察の公式発表では未だに女性被害者は一条幸恵ということになっていた…。
児玉はあと東報新聞が静岡日報の記事を後追い報道したかどうか気になった。
「ちょっと駅の売店へ行って東報の夕刊を買ってくる」と児玉は丸山に言って店を出た。店を出ると辺りはすっかり暗くなっていて街の灯りが瞬いている。伊豆半島の田舎町ではあるがその灯りを久しぶりに見るせいか、児玉には意外とそれが華やかにそして楽しげに感じられた。
駅前の売店で東報新聞の夕刊を購入し、すぐに元いた居酒屋へとって返す。そして店に戻って丸山の隣に座って新聞を広げた。
トップに【東京地検特捜部等 村田経産相関係先を強制捜査】の見出しが大きく踊り、夕刊のほぼ全ページに亙って捜査の模様が伝えられていた。その中で社会面に伊豆高原殺人事件との関連を指摘する記事があった。倉橋真理子の記事である。
その一部を要約すると【今朝の静岡日報の報道によれば、水谷一郎氏と伊豆高原で会う約束をしていたのは水谷氏の義兄で小林園社長の小林玄太郎氏であり、小林園関係者の事件への関与が疑われることとなった。殺害された水谷氏は今回強制捜査の対象となった村田経産相とは学生時代からの友人でかつては村田氏の強力な支援者であった。ある小林園関係者によればその水谷氏が小林園社長の座を期待される情勢になり、小林園経営陣は警戒していたということだ。そこへ総裁選での莫大な選挙資金を必要とする村田氏が水谷氏に声をかけ、その村田氏が実質的に支援をする形で水谷氏の社長就任工作が本格化したとのことである。このことから村田氏が水谷氏の社長就任を支援した背景にはその社長就任の暁には総裁選での資金援助を水谷氏に期待していたことがあると見られる。実際にはこの支援に村田氏本人が直接関与したことはほとんど無かったようだが、村田氏の女性秘書がその工作員として送り込まれ小林園役員の説得、買収に手を貸していたとのことである。今回、特捜部から要請を受け捜査に当たっている警視庁のある捜査関係者は、この女性秘書が中国公安省から指名手配されていたネットトレーダーの密入国者ではないかという疑いを持っていると話す。しかもこの人物が伊豆高原殺人事件での被害者の可能性もあると指摘している。このことから今回の強制捜査を機に伊豆高原殺人事件も大きな進展を見せる可能性があることを示唆し、静岡県警にこれまで以上の本格的な捜査が求められると注文をつけていた】
この点について紙面には、静岡県警捜査幹部の話として【小林園も含めた事件の関係先への捜査は従前からしっかり行なっており今後も地道な捜査を続けていく。なお静岡日報の今朝の報道については現在事実関係を確認中である】とだけ記されていた。児玉はこの文言から県警の捜査方針の見直しは現時点で基本的にないとの感触を得た。それは丸山も同様であった。
「くそ、うちの捜査本部もしぶといですね。この期に及んで後ろ向きとは」と丸山が呆れる。
「まったくだ。恐らく、まだ上が迷っているんだろう」
「上というと県警本部長…?」
「うん、まあ直接的にはな」
また紙面には、【この殺人事件について小林園にも取材を申し込んだが、『殺人事件への当社関係者の関与はあり得ないものと確信しております』とだけコメントされ、捜査中の事件であり取材には一切応じられないとのこと】とあった。
関係先は頑なだが、捜査の進展を促すいい記事だと児玉は思った。
かくして、児玉らが結成した共同戦線の『同志』達はそれぞれの『使命』を全うすべく全力を挙げて各戦線で奮闘し、今や一大攻勢に転じていた。それに対し児玉らは…、伊豆半島の一角で左遷の身をやつし、自らの戦線に参加できないもどかしさと忸怩たる思いを抱きながら『切歯扼腕』ただ指をくわえて情勢の推移を見守っている…。
今は機を待つしかない。児玉は悔しさに耐えそう思った。
「マルさん、今は忍の一字だ。時機を待つしかない。仲間たちは頑張ってくれている」
「そうですね。私達はやるべきことはやりました。あとは天佑を信じるだけです」
「ああ、そうだな」と児玉は言い大きく頷いた。
「さて、そろそろ新メンバーを呼ぶか?」と言って児玉は話題と気分を切りかえる。
「ゲンさんですか?」
「そうだ!」と児玉は言ってニッと笑う。
胸ポケットから携帯を取り出し、メールを打つ。電話をしなかったのは源田がまだ仕事中かもしれないと気を遣ったからだ。メールを打ってから約5分後に返信がきた。仕事を切り上げてすぐに来るという。また、署の自転車を借りて行くとあった。児玉はあと15分もすれば来るだろうと思い、頃合いを見計らって生中を頼んでおく。予想通り約15分後、タイミングよく「お待たせ!」と軽快な言葉とともに鑑識係の源田が姿を現した。
「おう、ゲンちゃんよく来た。よく来た」と児玉は陽気に言って源田を迎える。
「じゃ、まずは駆けつけ三杯ということで」と丸山がほぼ同時に来た生中ジョッキを源田の前に景気よくドンと置いた。
「お、気が利くね」と一言言って源田はジョッキにがぶりつき、そしてうまそうにゴクゴクと豪快に喉を鳴らしながらビールを飲み干していった。
「おまえとは一度ゆっくり話がしたかったんだ」と児玉は源田の肩を抱きながら言う。
「いや、俺もな昼間だけじゃ話し足りないところがあったんでちょうど良かった」
「うん。それでいきなり本題で悪いが俺達がいなかった間、捜査本部がどんなだったかもう少し詳しく話を聞きたい」
「おう、分かった。まあ、そういうことは俺が酔っぱらちまう前に聞いておかないとな」と源田はおどけ、すぐに「俺の知ってる限りになるがな」と前置きして真顔で話し始めた。
「おまえらがいなくなった後は、捜査本部は県警捜査一課の独壇場になった。つまり所轄の刑事課は体よく閑職に追いやられたってわけだ。うちの刑事課長の松平さんなんかもう可哀そうなもんだよ、一日中やることなくて、時々おまえさんたちから送られてくる報告を聞くぐらいで仕事らしい仕事なんてないんだから。まっ、もっともうちら鑑識もそうだし、もっと言や、本部から出張ってきてる捜査一課だってそうだった。つまりはだ、この捜査、進ませてはならないってことになってるみたいだな。今更だけど明らかにこの捜査、上から圧力がかかってる。しかも誰か犯人をでっち上げる『解決』ではなく犯人捜しさえしない『迷宮入り』を狙ってやがる。まあ、下手に犯人を逮捕して冤罪だ『袴○事件』の再来だなんて言われちゃうと、また静岡県警かってことになっちゃうからね。ここはゴタゴタなしに迷宮入り。つまり未解決ってことで、それでその未解決になった責任は全部俺たち所轄にとらせて一件落着ってわけだ。って、まったく冗談じゃねーよな!。でもな、ここにきて一筋の光が差してきた。この事件の圧力を加えていたのは、政権、もっと言や村田孝一経産大臣なんだろ?」
「ああ」と児玉は言いながら頷く。
「そしておまえらも知っての通りというか、おまえらの作戦通り、その村田に今日、東京地検特捜部の強制捜査が入った。これで村田が失墜して圧力が解ければ、一気にこっちの事件の捜査も進むかもしれない。警視庁も村田と関係ありと睨んだ暴力団に対し強制捜査に乗り出しているから、今度こそ村田もやばいかもしれんな。まっ、今まで数々の疑惑がありながら捕まらなかったのが不思議なんだけど」
「まったくだ。それから俺達の共同戦線の仲間もよくやってくれている。もう少し経ったらその仲間である静岡日報の記者に連絡してみようと思うんだ」
「そうか、何か楽しくなってきたな。あとはおまえらが捜査に復帰できればとりあえずは言うことなしだな」
「うん、まあ、それについては今は待つしかないよ。天佑を信じてな」
「天佑か…。まったく神様見ていてくれよな~本当に」と源田は言って天を仰いだ。
翌朝、児玉は『昨日は少し飲みすぎた』と感じながらも、それでも気が立っていたのか5時半に目が覚めた。二日酔いの頭を振りながら新聞を読まなければと思い、床から起きてポストのふたを開ける。少し早いかとも思ったが、それでも新聞は整然とポストに入れられていた。児玉がとっている新聞は偶然にも東報新聞だった。すぐさまその場で広げトップ記事を読む。
【東京地検特捜部 村田経産相に聴取要請】という見出しの文字が紙面に大きく踊っている。昨日始まった東京地検特捜部と警視庁組織犯罪対策部による村田孝一経産相関係先に対する強制捜査の続報である。『特捜部はスピード感をもって捜査の進展を図っている』と記事にはある。
児玉はその記事を読みつつ家の中に入り、居間のソファに腰掛けた。関連の記事を探しつつページをめくる。そして、児玉が一番探していた伊豆高原殺人事件との関連を示唆する部分があった。記事によると…、
【村田氏が中央政界を駆け上がっていくのに先月、伊豆高原で殺害された水谷一郎氏を抜きにして語れないものがある。水谷氏は村田氏と同じ王京大学ボート部に所属し、村田氏より一年後輩に当たる。学部は経営学部だった。卒業後は自らアパレル企業であるダイヤスタイル株式会社を創業し、デザイナーズキャラクターズブランド(DCブランド)で一時、一世を風靡し、その後のバブル経済の波にも乗って会社を一大企業に育て上げた。その際に創業時から一貫して支援を行なったのが大学、そしてボート部の先輩である村田孝一経産相であった。村田氏はアパレル関係には特に知識はなかったようであるが、販路拡大や水谷氏の人脈形成において大いに役立ったということだ。ただ、財務官僚というよりは、むしろ父親で代議士の孝蔵氏の人脈・知名度をフルに使い村田孝蔵元建設相の長男としての立場を利用して水谷氏を支援したということである。もともと学生時代からハイセンスで垢抜けていたと言われ、ファッション関係の店舗でアルバイトもしていた水谷氏は服装やファッションのことについては詳しくても販路拡大や政財界の人脈となるとまったくの無知・素人で実際、村田氏の支援は大いに役立ったという。以来、水谷氏は村田氏に感謝の念を持ち続け、特に村田氏が代議士となってからは彼の熱烈な支援者となっていった。政治資金収支報告書に載せるいわゆる表の献金の他に、それには載せず密かに贈る違法な裏献金なども相当な額に上っていると噂されている。
しかし、水谷氏が率いるダイヤスタイル株式会社は会社創設から28年目の2003年2月に会社更生法を申請し事実上倒産した。バブル崩壊後DCブランド等の高級衣料が伸び悩み、代わりに入ってきた安価な中国や東南アジアなどで作られた衣料品量販店等のプライベートブランド(PB)に押され、それに対抗できなかったのが主な原因であるという。会社更生法を申請してから間もなく完全に廃業となった。支援企業が現れなかったからである。村田氏もこのバブル崩壊にはお手上げだったようで、水谷氏を救うことはついにできなかった。これがきっかけで二人はしばらく疎遠になったと言われている。
水谷氏はその後、妻の香さんの実家であるお茶の老舗で今は一大飲料メーカーに成長した小林園に就職する。現小林園社長の小林玄太郎氏は香さんの実兄に当たる人物だ。水谷氏はそこの東京支店経理部長の職を得、しばらくは静かな時間が過ぎたようである。だが、水谷氏が東京支店長に昇進し仕事にもだいぶ慣れてきたここ最近にきて村田氏と接触があったというのである。事情を知る関係者の話によると小林園社内では現在、守旧派と改革派が対立しており、水谷氏は改革派の旗手と見られていたという。そもそもこの対立は小林園の社内事情に起因していて、それは社の歴史と最近の動向に密接に結びついているのだという。
小林園は創業300年以上の老舗で主に京都を地盤に営業活動を行なってきた。戦後の高度成長期に徐々に営業範囲を広げてきたが、それでもメインは京都を中心とした関西圏での売上だった。それが近年の健康志向に乗って緑茶飲料の売上が急速に伸びてくるとそれに伴い販売拠点、従業員の数も急激に増えていき、結果として業容が拡大した。そんな中でも伝統を重んじ旧態依然とした体制・方針で事業を続けている現経営陣に対し社内では次第に不満が高まってきたというのだ。そんな状況にあって水谷氏の起業家意識が甦ったのか氏は部下を集めた会合や宴席などで自身の事業拡大計画を大いに語ったのだという。それによれば『少子高齢化と人口減少が進む国内市場ではこれ以上の成長はほとんど期待できず、ここは海外市場に活路を求めるべきである』と発言して海外進出論を強く主張し、その際お茶だけでなく進出先の事情に合わせて他の飲料にも力を入れるべきだという意見を述べたという。
そして、売り上げの伸びが急で、京都本店に比べ元々革新的な気風もあった国内最大商圏の首都圏を担当していた東京支店、その中の特に中堅・若手社員は強くこの水谷氏の意見を支持したのだった。畑違いとはいえ自ら事業を立ち上げ、結果的には倒産したが一度は大きな成功を収めた水谷氏の経営手腕に期待する向きもあって、いつしか社内の改革派を中心に水谷社長待望論が強く巻き起こった。そうした動きがある中でどこでその話を聞きつけたかは定かではないが、村田氏が水谷氏に接触を試みた。事情を知る小林園社員の話によると村田氏が水谷氏と接触を試みたのは水谷氏の隆盛の兆しを何かで掴み、水谷氏の社長就任の支援を申し出るためだったという。そして水谷氏はその申し出をありがたく思い村田氏の支援を喜んで受けたというのだ。具体的には資金援助と人的支援ということになるが、公人である村田氏本人が表立ってそれをやるわけにもいかず、村田氏の秘書を名乗る女性が直接的な支援者として送り込まれた。彼女は『水嶋麗子』と名乗り、『衆議院議員村田孝一 秘書』の名刺を持ち歩いていた。彼女は、元々は株のデイトレーダーで秘書と言いつつ主には村田氏の資金の運用を行なっていた人物であったことが本紙の取材で明らかになっている。こうした動きがある中で先月、水谷氏が殺害された伊豆高原殺人事件が起きた。
この水嶋秘書をめぐっては気になる情報もある。今回、東京地検特捜部が警視庁に要請して家宅捜索を行なっている広域指定暴力団・東○会は中国からの密入国も手掛けていて、この水嶋氏も同暴力団が仲介した中国からの密入国者である疑いが強いという。彼女の本名は陳麗華といい、しかも彼女は中国公安省から指名手配を受けていて、ICPO(国際刑事警察機構)を通じて国際手配もされている人物と言われている。この点について日本の警察庁に問い合わせたところ『個別の事案については捜査上の観点から逐一お答えすることは差し控えたい』との回答を得、事実上ノーコメントの状態だ。ただ、捜査に当たっている警視庁組織犯罪対策部は東○会の密入国の全容を解明するとともに村田氏の秘書であった水島氏と陳麗華容疑者が同一人物であった裏づけも急ぎたいとしている。
また、この水嶋秘書が暴力団や村田氏の元でデイトレードによる資金運用を行なっていた際に暴力団や村田氏が違法に得た資金や情報が使われていた可能性もあり捜査に当たっている同対策部が現在調べを進めている。また、最近の株式市場において当該入札の受注企業である列島建設の株価について異常な値動きを証取委が掴んでおり、同対策部ではこの点についても証取委の協力を得ながらインサイダー取引や仕手戦等の違法行為が行なわれていなかったか慎重に調べを進めてゆく方針だ。
水嶋秘書の居所については警視庁の捜査関係者によれば現在行方不明となっており、何らかの事情を知ると見られる村田経産相も現在連絡が取れない状態が続いている。同対策部ではここは速やかに村田氏の居所を突き止め地検特捜部とも協力しながら早急に同氏に対し事情聴取をしたい考えだ。
いずれにしろ、同対策部ではさらに捜査を進ませ水嶋秘書の居所を突き止め、同秘書の暴力団や村田氏の元での活動実態を明らかにしたい考えだ。しかし、ある警視庁捜査関係者は『彼女は伊豆高原で殺害された女性被害者の可能性もある』と話す。ただ、伊豆高原での女性被害者の身元は管轄の静岡県警伊豆東署内に設置されている現地捜査本部が過去に水谷氏と交際していた女性だったと断定・発表しており、今のところ、この点についての県警による再捜査は行なわれない見通しだ。だが、もし警視庁の捜査が進み、伊豆高原での女性被害者が水嶋麗子秘書、さらには陳麗華容疑者だったことが証明されれば、今後の静岡県警の捜査に重大な影響を与えるのは必至だ。
この点について静岡県警に問い合わせたところ、『女性被害者の身元確認については物的証拠に基づいて行なわれており捜査には自信をもっている。また、当然のこととして今後警視庁の要請があれば捜査には協力していく』とコメントしている。
この伊豆高原殺人事件を巡っては、水谷氏と小林園社長の小林玄太郎氏とがお互いに事件当夜に殺害現場となった伊豆高原で会合する約束をしていたという新事実が静岡の地元紙を通じて報道されたばかりで、現在、事件を担当している伊豆東署捜査本部ではこの記事の事実確認を急いでいる。静岡県警では女性被害者の身元等から推測して、事件を過去の怨恨の線から捜査を進めており、現在そちらの方に注力しているということだ。だが、もしこの静岡日報の報道が事実だとすれば現在の捜査方針は重大な転換を迫られることになりそうだ。
また、静岡県警のある捜査関係者は記者の取材に対し、『県警の捜査はもはや破綻をきたしている。捜査本部内では女性被害者が水谷氏の元愛人でないことは周知の事実となっており、水谷氏と村田氏との関係、そして小林玄太郎氏の事件への関与の有無など調べることはたくさんある。しかし、県警本部・捜査本部は当初の〈過去の怨恨の線〉という捜査方針に固執しており、結果このことが捜査が進展しない主因になっている。ここは一刻も早い捜査方針の転換と捜査態勢の見直しが必要だ。県警本部・捜査本部が当初からの捜査方針である〈過去の怨恨の線〉にこだわるのは捜査が大企業、または政界へ及ぶかもしれないことへの県警上層部の怖れや遠慮があるからではないか』と語っている。この捜査関係者は現在他の関係機関などと連携を図り独自に捜査を行なっているということである】と新聞に記されていた。
児玉は記事の最後の部分を読んで自分らのことが書かれていて嬉しさを感じるとともに、自分らが県警本部・捜査本部の意向の外で活動していたことが白日のものとなり、危険を感じて複雑な気持ちにもなったが、今となっては案外このことがどこかで買われるかもしれないと、一縷の望みも持ち何とか気を取り直す。
児玉は一通り新聞を読み終わると、朝食もそこそこに妻には自分の今の境遇は一切話さず…というか話せず、その新聞を持って出勤した。児玉は今の境遇に対する羞恥心から妻には何も事情を話すことができなかった。そして『こんなことになるなら、日頃威張ってばかりいないで妻にはもう少し優しくしておくんだった』などと後悔もするのだった…。
午前8時少し前に署に着いた児玉はすでに来ていた警務課長の三田に簡単な挨拶をし半ば逃げるようにそそくさと同じ1階にある警務課の倉庫に入った。児玉は冷や飯を食わされるのはある程度覚悟していたつもりだったが、いざそうなってみるとなかなかどうして…、この状況ではまさか堂々としているわけにもいかず、なんとも居心地が悪いと感じるのだった。
捜査本部は講堂がある3階にあったがもう人が大勢いる感じがした。児玉は薄暗い倉庫の中で屈辱感に耐えながら持ってきた新聞を広げる。すると倉庫の扉が開き丸山が入ってきた。
「おはようございます」
「おう、おはよう」
「あっ、それ今朝の東報新聞ですか?」と間髪入れずに丸山が尋ねてくる。
「ああ、そうだ。俺たちのことも載ってるぞ」と児玉は言って新聞を開いたまま丸山の方へ差し出した。
「ええ!?。本当ですか」と言って丸山は不自然な姿勢で新聞を覗き込む。
「まあ、座りながらでも落ち着いて読んでくれ」と児玉は笑いながら言って丸山に新聞を渡した。丸山は無造作に置かれた書類の入っている段ボール箱の上に腰かけ食い入るように新聞を読み始める。しばらく静寂な時間が過ぎていく。丸山が一通り読み終わって開いていた新聞を閉じると、「これで変わりますかね?」と厳しい表情で児玉に尋ねた。
「分からんが、変わってくれなきゃ俺たちに未来はない」
「ですよね…」
「でもまあ、警視庁も早晩、陳麗華のことはしっかり突き止めてくれるだろう。変わるのは時間の問題だ。しかし変わったとしても俺たちが捜査に復帰できるかは分からんがな…」
「ええ…」と言って丸山は泣きそうな顔になった。