黎明
田嶋と別れた児玉は何か大きな仕事を終えた達成感というよりはむしろ脱力感と言ったほうが相応しいそんな感覚にとらわれていた。とにかく、やれることはやった。が、これで特捜部が何も動かなければ児玉らはもう終わりである。そして、もし捜査情報を勝手にマスコミに洩らしたなどということが露見すれば懲戒処分は免れない…。だが、不安にかられてばかりもいてもしょうがない。ここは万難を排して前に進むしかないのだ。そう、もう矢は放たれた。後戻りはできない…。
「マルさん、一応これで一段落だな」と児玉は丸山に声をかけた。
「ええ、あとは神に祈るだけです。でも、これで特捜が動いてくれなければ我々は窮地に陥ります」
「ああ、そうだな…。もしそうなったら、はっきり言って俺たちは終わりだ」
「あと、マスコミへのリークが露見しても…」
「うん…。でも、そっちは余程のことがない限り致命傷にはならんだろう。リークしたとは言わずスクープされたと言えば。マスコミに捜査情報が抜かれた(スクープされた)なんてことはまあよくあることだし」と児玉はポジティブであらねばという思いからかなりの強がりを言ってみせる。
「まあ、そうですね。ただ、状況から判断して真っ先に我々がリークしたと疑われるのは間違いないとは思いますが…」
「うん…。そこは必死に言い訳するしかないな。まあ、課長ともなんだかんだいって付き合いが長い。そう悪いようにはせんだろう…」と児玉はあくまで希望的観測を述べる。
「だといいんですがね…」と丸山は言ってイマイチ児玉の言に乗ってこない。
「まあ、たとえ疑われて一時的に冷や飯を食う羽目になっても特捜が動いてくれれば事態は打開できる、と思う…。まぁコトを前に進ませるためだ。何にしてもある程度のことは覚悟しておこうや」
「ええ…、そうですね」
「とにかく今はあまりネガティブに考えるのはよそう。考えてもきりはないし、早くもお上に楯つく『朝敵』になっちまったようで気が狂いそうになる」
「確かに…。うん!、ここはポジティブにいきましょう!」と丸山は言ってここでようやく児玉と気持ちを同じくする。
「うん。まあ虎穴に入らずんば虎児を得ずだ。何事も行動しなければ未来は開けない」
「そうですね。こうするしか道はありませんでしたから。座して死を待つわけにはいきませんよ。この後どうなるかは神のみぞ知るですが、とにかく我々はどのような事態になってもそれに耐えられるよう心の準備というか覚悟だけはしておきましょう」
「ああ、そうだな」
そう言うと児玉は、ふと磯崎らのことが気になった。向こうで何かあったらこちらの計画が頓挫しかねない。そんな不安が急に児玉を襲う。その時、突然児玉の携帯が鳴った。磯崎からだ。
「磯崎です。たまにはこちらの様子もお伝えしておいたほうがいいと思いまして」
「おお、そうだな、わざわざすまん。こっちも気になって今電話しようと思っていたんだ」
「そうですか、それはグッドタイミングですね。こちらは一応、課長に言われた通り川島葵の娘、裕美の行方を追っています。彼女は母親の葵が死亡した後、横浜市内の児童養護施設に預けられています。当時中学生でしたが、その後市内の県立高校に進学しています。しかし、その進学した高校のクラスの者たちとの折り合いが悪かったらしく一年の途中で退学してしまったということです。そして同時に入っていた児童養護施設も退所し、それからはもう行方知れずです。
現在我々は裕美がいそうなところ、具体的には秋葉原など都内のJKビジネスなどの風俗店を主に当たっています。あとその周辺のネットカフェや渋谷のセンター街なんかでも聞き込みを行ないました。それでもまだ有力な情報は特に得られていません…。我々の現在の捜査状況はこんなところです…」
「そうか。うん、分かった。すまんが今はその捜査をなるべく長引かせてくれ。本筋でない捜査で申し訳ないが今はとにかく時間が欲しいんだ。こちらはいよいよ大きく動こうっていうところだ。おまえらを信用はしているが情報が拡散すると秘密保持が危うくなる怖れがあるからあまり詳しくは話せんがとにかく今が一番大事な時だ。時が来れば全て話す。申し訳ないがそれまではどうか腐らず頑張ってくれ」
「ええ、大丈夫です。児玉さんたちが必ずやってくれるって信じてますから。これまでの捜査がひっくり返るようなビッグニュースを期待していますよ!」
「ああ!、楽しみに待っていてくれ」
一方、田嶋は児玉らと別れた後、赤坂駅から地下鉄に乗り込み東京駅に向かった。もっともこの時間ではもう鉄道などの公共交通機関で静岡に行くことはできない。田嶋は東京駅八重洲口近くの静岡日報東京支社に置いてある社用車を借りに行くのだ。特ダネを掴んで本社に戻るのだからその心中は別にして表向きは堂々と戻れるというものである。田嶋が八重洲口近くの支社ビルに着いたのは日付が変わった午前零時を過ぎた頃だった。守衛室にいる警備員に社員証を見せ用件を伝えて車を借りる。年配の警備員は夜遅いのでと心配したが、新聞記者に夜討ち朝駆けはつきものと言いきかせ説き伏せた。車のキーを受け取り、地下の駐車場に向かう。社用車はトヨタの『アクア』だった。田嶋は車に乗り込むとキーを回しエンジンをかける。シフトレバーをパーキングからドライブにチェンジし、サイドブレーキを倒して、踏んでいたブレーキペダルをそっと離す。するとスーッと車は滑り出し、その後アクセルに足をのせ徐々に車を加速させた。そして地下駐車場を出たアクアは首都高に入るべく『西銀座』の入口を目指して疾走する。西銀座から首都高に入ると『あとは高速で静岡まで行ける』と思い田嶋はフッと少し気が楽になるのを覚えた。さすがに深夜零時を過ぎていると首都高を走る車の数は少ない。車は軽快に糸を縫うように東京の街を駆け抜けていく。
そして、ふと田嶋は片手を伸ばしラジオのスイッチを押した。東京FMに周波数を合わせる。と同時に心地よい音の調べが車内に満ちていき、何か爽やかなシャワーを浴びているようなそんな爽快な感覚に浸る。その時田嶋はようやく落ち着いた自分の時間を手に入れた。そんなふうに感じた。
『さて、これからどうするか。すんなり掲載といくだろうか。そもそもこれだけのからくりを言わずしてデスクを説得できるだろうか…?。みんなの前では威勢のいいことを言ったがいざ面と向かうと多くの不安に苛まされる』と田嶋は心中で煩悶し、『まあ、とにかく特ダネは掴んだんだ。何があってもネタ元だけは明かせないが、その他のことを正直に話せば何とかなるだろう。あとは俺が言うんだから大丈夫ということで押し通そう』と、そう心に決めた。
やがて車は東名高速の入口、東京料金所にさしかかりピッというETCの反応音とともにゲートをくぐり抜け東名に入る。ここから静岡までは約160km、約2時間で行ける。田嶋はアクセルを踏み続け、静岡を目指しひたすら車を走らせた。
午前2時半ごろ、力ないエンジン音が住宅街に響く。車は無事静岡市内にある田嶋の家に着いた。車を近くの空き地に停め、ポケットの中にある家の鍵をまさぐって取り出し、それを玄関の鍵穴に通してそっとドアを開け中に入る。家人は寝静まっており、田嶋の帰宅には気付かない。かなり眠い。やはり無理しなきゃよかったなどと思いつつ、田嶋は自分の寝室のベッドに倒れこんだ。その拍子に傍で寝ていた田嶋の妻が目を覚ます。妻は慣れた手つきで布団を引き寄せすでに眠りに落ちている田嶋にそっとかけてやった。それは田嶋家にとってはよくある光景の一つだった。
朝になり田嶋は妻が用意してくれた朝食もそこそこに静岡駅近くにある静岡日報本社に出向いた。社会部のデスク、高城とかけあうためである。
静岡日報本社
田嶋は社会部のデスク室をノックし中に入った。
「おう、田嶋か久しぶりだな。何か面白いネタでも掴んできたか?」と言うなりデスクの高城はチラッと田嶋の顔を見たかと思うとすぐにまた机上のパソコンに目を落としてしまう。
「ええ、ええ、掴んできましたよ。とっておきのネタをね」と敢えて田嶋はおどけ大げさに言ってみせた。
「ほう、どんなネタだ?」と高城は重そうな顔をゆっくりと起こし、ようやく田嶋を正視する。
「伊豆高原殺人事件の特ダネが手に入ったんですよ」
「伊豆高原…、ああ、あのアパレル会社の元社長らが殺されたっていう事件か」
「そうです。そうです。でね何がすごいかって、これまでの捜査方針を覆すような新事実が見つかったんです」
「ほう」とまだ半信半疑のの高城は今度は腰掛けていた椅子にふんぞり返った。
「というのも、これまでの捜査本部の方針は水谷が経営していた会社時代の怨恨の線で捜査していたんですが、どうもそうじゃないらしいんです。今回見つかった新事実によると水谷が死ぬ直前まで勤めていた小林園が絡んでいるんじゃないかってことになったんですよ。まあ、その新事実というのがこうなんです」と言って水谷が映っていたコンビニの防犯カメラ映像の内容を話し、「このことから事件当夜に水谷一郎は小林園社長の小林玄太郎と会っていた、少なくとも会おうとしていたことが判明しました」と田嶋は言った。
「ほう、こりゃすごいね。で、どこから仕入れた。このネタ元は誰だ?」
「いや、ネタ元はデスクと言えどもお教えできません」
「ああ、ああ、そうですか、そうですか。守秘義務ってやつですね。それは、それはご立派なことで」と高城は褒めた言葉とは裏腹に面白くなさそうに渋い顔をする。そして、スッと真顔になって
「で、捜査本部はそのネタを認めているのか?。まだ発表はされとらんよな?」と言った。対する田嶋は少し面倒くさそうに「捜査本部にはまだ伝わっていません。だいたい発表されてしまえば特ダネにならないじゃないですか」と反論気味に言う。
「ま、まあ、そうだが、でもそれじゃ、うちの内規では載せられんぞ。どこの誰だか分からん奴の情報じゃな。捜査本部のお偉いさんの誰かが認めてくれなきゃ記事の掲載は難しい」
「デスク、実はこれには深い事情がありまして…」
「うん?」
田嶋はこれまでのいきさつをデスクの高城に正直に話した。
「う~ん」と事情を聞いた高城は大きな唸り声を上げる。そして…
「田嶋よ、たとえそのコンビニの電話の件が事実・真実だとしてもだ。それは捜査本部というか警察サイドにとっては邪魔な情報だ。そんな情報は無い、ガセだということで否定される恐れが高い。それにだ…、うちは静岡の地方新聞だ。だから…、静岡県警との関係は非常に重要だ。うん、このこと分かるよな?。もし向こうと関係がこじれるようなことになったらそれこそここで生きていけなくなる…」と言った。
「しかしデスク、それでは真実を伝えるという報道機関の使命が果たせなくなってしまいます!」
「はぁ!?。聞いたようなことぬかすな!!。そんな青臭いこと言っている前にな、まずは自分が生き残ることを考えろ!!。どこの世界に本気で権力に楯ついて報道している新聞社があんだよ!?。あぁ?。なんだかんだ言ったってなあ、みんな権力とはうまくつき合いながらやってんだろうが。特に警察に楯突いたらな記者クラブからは追い出されて、特オチは食らうし、それからすぐにでも会社にガサを入れられてちょっとした微罪でもパクられちまうかもしれねえんだぞ。そうなりゃもうこの社会部は、俺の人生は終わりだ~‼︎」
「しかし、そんなことを言っていたら、いつまでたってもスクープは打てませんよ。私だって命は惜しいです。今回、私たちのバックには伊豆東署の刑事の他に警視庁と東京地検特捜部もついています」
「それだって、下っぱがいきがってるだけだろうが‼︎」
「確かにそうですが、下っぱといえどもみんななかなかのやり手です。この記事が出れば必ず各々の使命を立派に果たしてくれるものと確信しています。特捜部による村田孝一に対する強制捜査が行なわれ逮捕も時間の問題という状況になります。そうなれば形勢は一気に逆転します。圧力の大元の村田を叩けば、あとはもう向こうは総崩れです。そういう状況になれば、むしろそういう圧力に屈せず真実を報道した静岡日報の名声は上がり、そこの社会部デスクも大きく賞賛されるものと思われます」そう田嶋から言われ「う~ん」と言って一転、高城はまんざらでもない表情を見せる。
「さらに、静岡県警に対しても袴○事件の影響で世間の目は厳しいものがあります。理不尽な圧力に対してはうちらが県警を向こうに回しても戦える余地はあるかと思いますが」
「う~ん」とまた高城が唸る。
「と、とにかくその情報は確かなんだろうな?」と高城が尋ねた。
「ええ大丈夫です。その点は保障いたします」
「うん!。そして、それを載せれば必ず特捜部は動くんだな⁉︎」
「はい!、必ず‼︎」
「う~ん…、よし‼︎。俺もブン屋のはしくれだ。義を見てせざるは勇無きなりだ。田嶋、その記事の掲載を許す!!」と高城は功名心も相まってこれまでの態度を一転させ田嶋に記事の掲載を許した。
「あ、ありがとうございます」と田嶋は言い深々と頭を下げた。
「うん…。でどうする?。今日の夕刊でいくのか?」
「いや、夕刊では特捜部の準備が間に合いそうにありません。明日の朝刊でお願いします。細かいことはこれからその特捜部の検事と調整を行ないます。詳細が分かりましたらまたご報告いたします。デスクも捜査中の事案ですので情報の漏洩・拡散には細心の注意を払って頂きますようお願いいたします」
「う、うん、分かった。それから田嶋、これは社の命運がかかっている。くれぐれも慎重にな!。失敗は許されんぞ‼︎」
「はい、誓って!。必ずやうまくやります‼︎」と言い、田嶋はデスクの部屋を後にした。
田嶋は取材と称して本社を出、近くにある喫茶店に入った。昼なお暗い店内の奥の席に納まった田嶋はコーヒーを注文した後、おもむろに煙草を取り出し紫煙を燻らせる。『よし、ここまでは順調だ。あとは特捜の上川さんがうまくやってくれればいいんだが』と田嶋は心中で呟いた。そして一本吸い終わると意を決して携帯を取り出し、上川に電話をかけた。2コール目で上川が出た。
「はい、上川です」
「お世話になっております。静岡日報の田嶋です」
「ああ、どうもお世話になっております特捜の上川です」
「例の、記事の件、首尾よく掲載できることになりました。明日の朝刊に載せたいと思うのですがいかがでしょうか?」
「そうですか、やりましたね!。こちらは準備万端整っております。あとはうちの部長を説得するだけです」
「では、掲載はその部長さんの説得を待ったほうがよろしいですか?」
「いえ、大丈夫です。必ず説得してみせますので、田嶋さんは心置きなく明日の記事の方をお願いします」
「そうですか分かりました。ではそうさせていただきます。健闘を祈っています」
「ええ、任せておいてください!。明日は記者さんたちも忙しくなると思いますよ」と上川は言い、明日の特捜部による強制捜査を匂わせた。
「ええ、期待しております!」と田嶋も明るい声で返す。その後、田嶋は丸山と青田、それに倉橋にも記事が掲載される運びとなったことを連絡した。