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狼の生贄 -伊豆高原殺人事件-  作者: 青木 地平
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一条幸恵

 その頃…、一条幸恵はハワイのオアフ島にいた。ハワイに来たのは、幸恵の希望だった。輝く太陽のもとかつて華やかだった自分の生活を取り戻したい。ただそれだけが彼女がこの島に来た理由だった。

しかし、これまで使っていた一条幸恵の名前は捨て『内田明美うちだあけみ』という偽名を使って…。一条幸恵という人間は既に日本にいないことになっていた。いや、それどころかこの世にさえ存在しないことになっているのだと幸恵は小林玄太郎から聞かされていた。


 今から約1ヵ月半前の1月10日、小林玄太郎は一条幸恵の携帯に電話をかけ「明日、東京で所要があってそちらに行くからよかったら会わないか」ともちかけた。幸恵は一瞬答えに迷ったが、玄太郎に『いい話がある』と言われ興味もあって会うことにした。幸恵と玄太郎は細々であったが『あれ以来』関係が続いていた。ただ、ドロドロとした愛人関係などというものではない。幸恵は時々ではあったが京都に一人旅をすることがあった。その時には必ずと言っていいほど東山にある小林園の本店を訪れ、玄太郎と京都の文化やお茶について歓談していたのだった。


1月11日 当日、幸恵は普段の惨めな暮らしぶりを見られる気恥ずかしさもあって初めは東京まで出向くつもりでいた。しかし、向こうが何時に会えるか分からないから迎えに行くというので半ば仕方なくそれを待つことにした。玄太郎と幸恵はかつて伊豆高原のファッションショーで会って以来の顔見知りである。到着した玄太郎は「少し休みたい」と言って少々強引に幸恵の部屋に上がり込んだ。そして開口一番「幸恵さん、あんた、豊かな生活を保障するから海外で暮らしてみないか?」と持ちかけた。しかも偽名を使って…。

 『いきなり何を』と不審に思った幸恵は訳を問い質す。

「それは訊かない代わりに贅沢を保障する」と玄太郎は言った。そして、「了解してくれれば手はずは全てこちらで整える」とも幸恵に伝えた。

幸恵は唐突な申し入れに納得できず、「とりあえず考えさせてほしい」と言って、その日はどこにも出ることなく、とりあえず玄太郎を帰した。


 幸恵は一人残った小さな部屋の中で自身の身の上を考えてみた。幸恵は常日頃、今や自分の身は『生ける屍』だと感じていた。40代も終わろうとしている独り身の女がカネも、そしてこれといった職もなく、この日本にいてももう先は無いだろうとかねてから思っていたところだった。しばらく黙考し、やがて幸恵は決意する。ここは賭けに出ようと。どのみちこの国にいても先はない。だったら危なそうな橋だが、イチかバチか渡ってやろうと…。

 数日後、玄太郎から電話が来て話は決まった。行き先は幸恵の希望でハワイのオアフ島と決まった。出発は2月4日。その日からの名前は『内田明美』だと告げられた。ボディガードと案内役を兼ねた男が付くとのことだった。

「その男は信頼できるの?」と幸恵は尋ねた。

「昔から付き合いのある男で信頼できる」と玄太郎は言ったが、幸恵にはやはり不安があった。しかし、程なく『やるしかない』と腹をくくる。


 一条幸恵はダイヤスタイルを退職後、とある中小の不動産会社の事務員となった。年齢も30を過ぎ、しかもバブルは弾けて、世は就職氷河期と呼ばれていた頃で、幸恵もさんざん苦労した揚句にやっと得た再就職先だった。だが仕事は単調で面白くなく、一般事務職では昇進もほとんど望めない。しかも世は不景気が続いていて社内でもリストラの噂が絶えずあった。それでも幸恵は社内のある男と付き合い始め、やがて結婚を約束する。しかし…、それから程なくしてかねてから吹き荒れていた不況のあおりで突然会社が倒産した。社長は夜逃げした。会社は再起不能の状態に陥り幸恵も付き合っていた男も職を失って、同時に婚約も破談になる。幸恵は結局その男とは別れた…。

その当時の幸恵はカネのない、生活力のない男に興味を抱くことはできなかった。それに自分自身、そもそもその男にそれほど男としての魅力は感じていなかったかもしれなかったと後になって思った。男は真面目なだけが取り柄のような人間で、特段女に対し気の利く男ではなかった。とにかくその時の幸恵はこの惨めで退屈で絶望的な毎日から解放されたかった。男と一緒になるのならせめて生活の安定が欲しい…。そう思っていたのだった。

 その後は、就職難でまともな就職はできず、派遣や請負の仕事を転々とする日々に陥る。そんな所ではまともに付き合える男などいるはずもなく、33歳を過ぎていわば流浪の生活を送る羽目になった。それが15年ほども続いていたのだった。そして、そんなすさんだ生活が続いていく中で幸恵はいつしか人並みの幸せを諦めていく…。


 2月4日、夕闇が迫り幸恵にとって日本最後の夜が訪れようとしていた。その時幸恵は、東京・お台場の旧ホテル日航東京(現ヒルトン東京お台場)にいた。幸恵は『内田明美』になりすまし、すっかり俄かセレブを演じている。惨めだった一条幸恵はもうこの世にはいないことになっていた。そう幸恵は自ら実感する。

空を見上げるとひっきりなしに飛行機が飛び交っているのが目に入る。東京湾の空は幸恵には少し煩わしいと思うくらいやけに賑やかに感じられた。それでも、ホテルのバルコニーからの夕景は息を呑むほど美しく、そしてお台場の象徴となったレインボーブリッジが鮮やかに間近に見える。幸恵は今までの貧しい生活が嘘のように感じられ、自分は生まれ変われたのだとこの時心から思うことができた。

「もう、これで日本ともお別れね…」

そう呟くと、その言葉とともに一筋の涙がスーッと頬を伝ってゆく。涙の筋が夕日に照らされ金色に明るく輝く。そして幸恵の胸に急に複雑な感情が込み上げてきて

『私は…、私は、弾き出されるんじゃない!。こんな、こんなつまらない日本こっちから出て行ってやるのよ!。そう、私は自分を取り戻すためにこの国から出て行くの。あの頃、華やかで、まだ若かった、あの頃を取り戻すために。たとえバブル女と呼ばれてもいい。そう、私はあの頃を取り戻すためだったら何でもしてみせる!』と自分へ言い聞かせるべく幸恵は心中で強く叫んだ。


 そして、2月5日の夜が明けた。幸恵にとって新たに生まれ変わる旅立ちの朝がきた。幸恵はホテルからタクシーで羽田空港に乗りつけた。空港に一歩入ると一瞬にして喧騒と華やぎに包まれる。空港は一つの街だった。2月といえば行楽シーズンとは呼べない。空港もシーズンオフなのであろうが、それを感じさせない賑わいがここにはあった。

 幸恵はボディガード役の屈強な男と一緒だった。幸恵は、ミニスカートにボディコンシャスの服をまとい、扇情的な物腰で目一杯そのボディガードの男を挑発してみせた。男の視線が自分の身体に絡みつくのを感じ、『まだ、いける!』とかつてあった女としての自信が甦ってきて、48歳の幸恵は思わずほくそ笑む。若い頃の幸恵にとって自分の横を歩く男はアクセサリーのような存在だった。その記憶がふつふつと甦ってきたような気がして、忘れかけていたあの頃の『感覚』に幸恵は暫し酔いしれる。


 歩いているとやがて二人が乗る日本航空(JAL)の搭乗手続きカウンターが見えてきた。男が手続きを済ませてくる。座席はファーストクラスであった。男は出発までの間「ラウンジで過ごそう」と言ってきた。ラウンジは座席のグレードごとに分かれていて、当然のことながらトップグレードであるファーストクラスのラウンジが最高ということになる。二人はJALのファーストクラスラウンジに向かった。

 幸恵は途中、自分のパスポートをちらっと開けて見る。パスポートにはしっかり内田明美の偽名が入っていた。写真も変装通りセレブな感じである。かつて存在した惨めな一条幸恵はもう何処にもいなかった…。


 ラウンジでくつろいだ後、幸恵は機上の人となり、ファーストクラスのシートにゆったりと身を委ね、心を無にしてただ静かに機の離陸を待つ。機内の窓から空を見上げると突き抜けるような青空がどこまでも広がっていて、まるで天がこの旅立ちを祝福してくれているかのようであると幸恵は感じた。そして、しばらくすると機体は凄まじいエンジンの唸り声を上げ滑走路上を猛烈に加速しながら突き進み離陸を試みる。やがて幸恵はフッと体が浮いた感じに襲われその瞬間、反射的に窓を見下ろすとみるみる地上が遠のいていくのが見えた。

 幸恵を乗せた機体は滑らかに雲ひとつない蒼穹そうきゅうの只中へ東京湾上を一気に飛昇していく。幸恵はファーストクラスのシートに身を委ね華麗に日本を発っていった。もう、二度と日本には戻らない覚悟とともに…。


 

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