後編
橋からは、国道沿いにそう長く歩いていないと思ったのに、まだ橋のたもとすら見えない。僕はひたすら前をにらんで進んでいく。履き慣れたテニスシューズがアスファルトをこする音だけが規則正しく僕の耳に届く。だがそれだけだ。
目に入る建物は、橋の上から見た土手の家屋と同じく、いずれも影のオブジェと化していた。彼らは自分を主張する気がないのだろうか、と僕は思う。歩道脇の街灯も、自らの職務を怠慢して彼らの隠蔽を熱心に行っている。
相変わらず車も人も全く通らない。動いているのは僕のみ。不気味なくらいの静寂も手伝って、閉館間近の美術館を一人で見てまわっているみたいだった。
ややあって交差点の赤信号にぶつかった。いったんは止まったものの、これまでの交通事情を鑑みて確信犯的違反行為、つまり信号無視に走ることにした。淡い赤に照らされる横断歩道の白い部分だけを踏みながら、一歩に五秒くらいかけてのろのろと渡る。
向こうにたどり着いたのは、赤から青になった信号が点滅を始めた時である。あれだけもたついていたのに、国道はもちろん右手の道路からも車は一台もやって来なかった。
――空しい。
足元にあった小石を蹴り飛ばすと、きれいに横断歩道を渡って行った。こうなったら車がやって来るまで待ってやろうか。いや、どうせ待つなら道路の真ん中に突っ立ってやるかな。急ブレーキもクラクションも大歓迎だ。さあ、派手に来い!
そこまで考えて、つい僕は苦笑いした。そんなことをして誰かに見られでもしたら変人扱いだ。運良く車がやって来ても、それに乗っている人の心臓に悪いだろう。夜明け前の国道の交差点に、こんな貧相な男が突っ立っているなんて!
少し面白いシチュエーションかも知れないな。手帳を取り出すべく左手をポケットに入れると、底に閉じこめられた小さな虜囚は、すっかり冷たくなっていた。
祖父はミステリーを好んで書いていたが、どうやら僕は色々試してみたところ、SFとファンタジーを書くのが好きなようだ。
特に現実世界に非現実要素が介入してくる、いわゆる「ローファンタジー」が書いていて楽しいと思った。宇宙人、ロボット、タイム・トリップ、サイコキネシス、パラレルワールド、終末戦争――。
今回の長編もSFファンタジーにする予定だ。日常生活に不思議な要素が混じってくるエブリデイ・マジック。平凡な少年である主人公が巻き込まれる陰謀劇。果たしてその結末は――僕の方が聞きたい。
ふー、と鼻から白い霧を出しながら、右手に持ったボールペンを回し始めた。
とにかく動いていないと、僕までこの静かなオブジェたちの仲間入りをしてしまいそうだったからだ。彼らは僕を誘っているわけでも拒否しているわけでもない。じっと無言で突っ立っているだけだ。それなのに歩いていくうちに僕は徐々に言いようのない焦燥感にかられてくる。
彼らはやはり結託して僕を引き入れようとしているのではないか。一心不乱に直立不動の彼らに対して僕は曖昧模糊の暗中模索。この暗い空間において僕は小さな、小さな叛乱分子に過ぎない。
彼らは主張していないわけではなかった。結果が分かっているからこそ直接手を下すことはせず、皆で新しい仲間を待っているのだ。いずれ力尽きるだろう、僕という仲間を――。
馬鹿らしい。僕はかぶりを振った。多勢に無勢だからってなんだ。そんなに余裕しゃくしゃくでいるなら、こちらはさっさとこの場を去ってやる。
僕は走り始めた。風でぼさぼさに伸びた髪が天に向かって逆立ち、かさついた頬から耳にかけて痛いほどに冷える。
だがいくらも走らないうちに、足が何かにつまずき、顔から地面に激突した。温かいものが口元をなめながら、ゆっくりと垂れ落ちるのが分かった。反射的に左手を当てる。手のひらに黒い染みが広がった。少し派手にやってしまった。
いや、それよりも、左手の手のひらが使えている方が重大だ。
僕はうつぶせのまま、手が届く範囲の地面を叩いていく。顔の前から始めて、徐々に索敵範囲を広げていった。
――手帳は? 手帳はどこに行った?
アスファルトに紛れていた、とがった小石が何度か手のひらに刺さってくる。ただでさえ頓挫しかけているというのに、アイディアが蓄えてあるあれを無くすわけにはいかない。 だが、それらしい手ごたえには、まだぶつからなかった。
このままだと、らちがあかない。僕が両手を支えに起きあがると、これまで大人しかった風がうっぷんを晴らすかのように右から吹きつけてきた。
すると、数歩前でバサッ、と音がして路上から小さい影が飛び、街路樹の幹にへばりついた。
――あれか!
目にかかってくる髪を手で押さえつつ、僕は歩み寄ってつかもうとする。だが一際強く吹いた風に一瞬ひるんでしまったのがまずかった。
手帳は街路樹の背もたれをすり抜けて、車道へと飛び出した。それを見てすかさず僕もガードレールに足をかける。乗り越えた時に、ポケットの缶コーヒーがレールのふちとぶつかって、コンと小さく、くぐもった声を出した。
手帳は少し吹き飛ばされては、車道に叩きつけられて、また吹き飛ばされては叩きつけられを繰り返しながら、対向車線の真ん中でようやく止まる。だがページが風に勢いよくめくられ始め、また飛ぶのも時間の問題だろう。走り寄った僕は、グラウンダーを受け止めるキーパーのように手帳の上に覆い被さる。
捕まえた、と思った瞬間、手帳が飛び跳ねて、あごにごあいさつした。危ないところだった。
だがその直後、甲高いクラクションの音が響いた。
顔を音源にむける。運送用の大型トラック。まばゆいばかりに目を輝かせて、まっすぐにこちらに迫ってくる様は獰猛な怪物そのものだ。
――逃げなくては!
手帳を握りしめ、つま先を地面につけて力を込める。身を起こしている時間はない。左目はまぶしくてもう開けるのも辛い。僕は目をつぶり両手両足を曲げ、前方に思い切り飛んだ。胸が地面についたかと思うと、背後で地鳴りがし、何かが潰れる音が聞こえた。
目を開けると、歩道のふちのコンクリートが見えた。辺りが明るくなり始めたのか、普段は白一色のそれに、ところどころ小さな黒い点が浮かんでいるのが分かる。
何だろう、とぼんやり考えていると、つむじに冷たいものが落ちた。見上げると、薄汚れた小さな粒がまばらに目のわきをすり抜けて落ちていく。もちろん僕の顔に降ってくるのもあった。
――いや、そんなことより僕は平気なのだろうか?
しかし予想に反して体は唇が切れて鼻血を出しているくらいで、どこも大した痛みは感じない。強いて言えば膝頭がひりひりするが、飛び込んだ時に地面に擦ったものだと思われる。足を引き寄せて靴を脱いでみたが、異状は見当たらない。
じゃあ一体何が潰れた音だったのだろう? 僕は手に握りしめていた手帳とボールペンをしまいながら、ゆっくり立ち上がって車道の方に向き直る。音の主はすぐに分かった。
数歩先の車道に小さな水たまりができていた。その中に小さな筒が浮かんでいる。車が来ないことを確認してから、それに近づいた。
水は茶色かった。そしてその中に浮かんでいるのは、圧倒的重量に押しつぶされ、胴がねじ切れたスチール製の半身だった。体の裂け目からは茶色い血液がひとすじだけ流れている。
きっと手帳を捕まえようとうずくまった時に、ポケットから転げ落ちたのだろう。
僕はその半身を拾い上げる。残っていたのは底の方で、消費期限が書いてあった。日付は今から八ヶ月後だ。口の方も探してみたが、あの風に飛ばされてしまったのか、どこにも見当たらなかった。
亡骸を持って歩道に戻ると、後ろの遠くの方から雨戸を開ける音がした。それにあちらこちらの家が続く。車道にちらほらと乗用車の姿が見え始め、横断歩道を渡っていく人の中にはわずかにビニール傘を差している者も混じっていた。
町が目覚め始めた。
僕は空き缶入れがある自動販売機を探す。ようやく見つけて放り込もうとした時、僕は手に持っている缶をもう一度眺めた。
夜、僕に買われ、川に投げ込まれそうになって猶予をもらい、狭いポケットに押し込められて、ようやく抜け出たと思ったらこの有様だ。まさかこんな形で生涯を終えるとは、彼も考えていなかったに違いない。
一寸先は劇的。この結果は予想などしてはいなかったが、彼は夜からの僕の期待にようやく応えてくれた。
ちぎられた体を投げ入れてやる。乾いた音がして、彼は同胞の骸の山に寝転がった。指には彼の血液の残滓がついている。舌で舐め取ると、かすかにほろ苦く、甘い香りが口内を漂った。
僕はポケットの中の手帳を引っ張り出し、表紙についた砂利を払い落としながら、もう片方の手でボールペンを握る。終わりが見えたのならば、後はとことん劇的に、一寸先を広げていくだけだ。
雨はほとんど止んだが、空はまだ曇っている。しかし遙か彼方の雲の切れ目からわずかな青がのぞいているのが見えた。
歩きながら僕は手帳にペンを走らせる。きっと今日は良い天気になるだろう。
(了)
前後編にお付き合いいただきありがとうございました!




