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前編

 薄汚れた雨戸を開けると、外はまだ暗かった。

 ふう、と息を吐き出す。それは白く立ちのぼって、すぐに消えた。冷えた空気が火照った頬に心地よい。

 窓を閉める。手を離すとガラスには指の跡がくっきりと残っていたが、僕が二回咳をする間にガラスに溶け込んで見えなくなった。

 窓の鍵を掛けてカーテンをひくと、僕は先ほど苦労して確保しておいた足の踏み場を頼りに、部屋の隅のデスクトップパソコンに向かう。どかり、と乱暴に腰掛けたステンレスの足を持つ安物椅子は、気持ち悪いくらい生温かい。


 足下には数週間前に大人買いした有名作家の探偵シリーズもの推理小説が、袋に入ったまま鎮座している。

 パソコンの画面は半分以上が白とほんの少しの灰と黒、残りがところどころ濃度の違う水色に支配されている。少しでも誰かがこの画面をにらめば、その水色の領域に、大小のアルファベットだの、筆のマークだの、MS明朝という文字だのが混じっているのが見受けられることだろう。

 白の右上にはさっきから黒く短い横棒が、一定の間隔で点滅している。こいつは僕に限らずあらゆる人に対して非常に従順であるが、それが常に快感を伴うかというと、そうとも言いきれない。こちらが指示を間違えても、容赦なくそれを実行する。融通が利かないやつだ。


 ここ一時間、こいつは全く動いていない。もちろん僕が指示を与えないからだ。指の動き一つで簡単に歩き出す。たどる道筋は同じでも足跡は毎回違う。そして時々立ち止まり、昔の足跡を消して、新たな足跡をつけていく。人間にはできない孤高の技。

 しかし、いかに優れた職人芸を持っているプロレタリアートでも、資本を持たないブルジョアジーに雇われている限り、活躍の余地はないのだ。僕は今まさに、そのブルジョアジーなのである。

 外に出て頭を冷やしてみるかな。

 僕はパソコンを休止させると、部屋の窓とは反対側の隅にあるクローゼットに向かう。一歩ずつ踏み歩くたびに、紙とプラスチックと発泡スチロールとが一緒になって、足下から不協和音を奏でた。


 国道は昼間の喧騒など嘘のように静かだった。それでも、時折大型のトラックが一対の巨大な目玉を光らせつつ、後方から僕に追いつき、水はねをとばしながら追い越していく。数瞬遅れて巻き起こった風が、車道近くに植わっている街路樹の数少ない木の葉たちに試練を与える。

 落伍者は、あてのない旅に出たり、密集した商店の壁やアスファルトの地面に勝ち目のない体当たりを敢行したり、陽の当たらぬような路地に逃げ込んだりした。ひどい時には僕の足下に転がって、ぐしょり、という音を立てた。

 数分前、カイロ代わりに自動販売機で買った缶コーヒーは、もうお手玉しなければならないほどの熱さではなくなっている。

 飲む気はない。僕はそれをダウンジャケットのポケットにしまいこむと、国道をまっすぐA橋に向かって歩き始めた。


 橋の上だと風も強く、冷たい。

耳が先ほどからその被害をまともに受けていて、触ると雪の塊をつまんでいるみたいだ。手で軽く覆うと、そこからどん、どんと耳全体がカウントダウンしているような一定のリズムを保った鼓動が伝わってくる。フードのついているダウンにすればよかった、と今さらながら後悔した。

 家を出た時に比べると空は少し明るくなったような気がするが、まだ全体的に重苦しいグレーに染まっている。

 土手に立ち並ぶ家屋は、不格好な切り絵のように不揃いな影の姿で眠っており、橋の上からだと家と堤防の間の細い道を、街灯の小さい明かりが申し訳程度に照らしているのが見えた。

 僕は視線を川に向ける。朝から夕方まで雨水を飲み続けたおかげで、中州らしき影はほとんど見当たらない。

 川は見た感じは黒いが、その実、くたびれたキャッチャーミットのような色をしているのだろう。

 その中には事切れて流れに身を任せ、あるいは生きようと流れに逆らい続けている者がいるだろう。

 そして、海はそんなことなどお構いなしにこの水を受け入れるだろう。

 僕はポケットからわずかに温もりの残る缶コーヒーを取り出した。

 キリマンジャロ。百九十グラム。

 ここから放り投げてみたらどうなるだろう。ぱしゃん、という水音がしてそれっきりか、浮き上がって流れと戯れながら去っていくのか、もしくはわずかに残る中州に不時着し、茶色い鮮血を撒き散らす壮絶な最後を迎えるのか――。

 

僕は缶を弄びながら、いずれのケースになるか想像を巡らせていたが、やがて元通り左ポケットにしまうことにした。


 ――やめた。こう暗くては、どんな行方も見えはしない。明るくなるまで執行は延期だ。


 僕は、今度はダウンジャケットの右のポケットから手帳を取り出し、ところどころ手垢で汚れたページをめくりながら、対岸へと足を向けた。


 この手帳は祖父が生前に僕に譲ってくれたもので、今のところ僕が考えてある世界観や登場人物の設定、日々の発見や感動も含めた日記兼自由帳の役割がある。外出の時には欠かせない道具だ。

 僕が物を書くようになったのは、祖父の影響が大きい。祖父は一年の大半を原稿用紙に埋もれて過ごしていた。パソコンが使えるくせに、妙に手書きにこだわっていた祖父は、ミステリーを作るのが上手く、孫である僕に何度か読ませてくれたことがある。

 様々な場所で起こる不可解な事件。それを追う主人公たちのもどかしいまでに綿密な調査。二転三転する事態により次々と覆されていく推理。迷宮入り寸前に意外な点から事件同士がつながり、暴かれていく真相。犯人を犯行に駆り立てた重く悲しい動機。そして最後に待ち受けていた大どんでん返し――。

 

 古今東西のミステリーの肝を踏まえながらも、平易で読みやすい祖父の文章を、当時中学生だった僕は貪るように読みふけった。

 だが祖父は特異な人だった。ある時、僕は祖父に作品の感想を伝えに行った。話したのはこのトリックがすごいとか、この人が犯人だとは思わなかったとかとりとめもないことだった。だが興奮気味の僕に対して、祖父はきょとんとした顔で答えた。


 ――そんなの、あったか?


 聞いてみると、祖父はプロットというものを一切書いたりしない。頭に思いつくままに筆を運び、想像に任せているうちに物語は完結してしまう。そして書き終えた物語は頭の中からすっかり消去してしまい、新たな構想を練っていく……というのが祖父の創作だと言う。


「おじいちゃんの書き方って、いきあたりばったりで『一寸先は闇』なんだね」


 僕が祖父の創作作業における見通しのなさをそう表現すると、祖父は「それは違うな」と首を振った。


「創作において一寸先は『闇』なんかじゃない。『劇的(ドラマティック)』なのさ」


劇的ドラマティック?」僕は首を傾げた。「どうして闇じゃいけないの?」


「そんなに暗くっちゃ、どんな予想も期待もできないからだ」


 それきり口を閉ざして、祖父はまた原稿用紙と格闘を始めた。そうして書かれた作品はいつも僕の予想を裏切り、期待に応えてくれるものばかりだった。にも関わらず祖父が自分の作品を発表することは、とうとう無かったのである。


 祖父は僕の中学卒業の年に突然胸の病気で亡くなった。あまりにも急なことで、それこそ劇的な最期と言えるが、亡くなる三日ほど前に僕に今持っている手帳をくれた。

 新品同然のそれをなぜくれるのかを尋ねても、祖父は答えずまた黙々と原稿用紙に向かっていった。この時、祖父の中ではすでに己の死という結末ができあがっていたのかも知れない。

 祖父の部屋は葬儀の翌日に掃除された。原稿用紙以外は書き物机と百科事典が網羅された本棚くらいしかなく、非常に短い時間で済んだ。

 その際、ありとあらゆる紙に目を通してみたが、どこにもプロットや人物や世界観の設定などは書かれていなかった。

 本当に祖父は頭の中だけで物語を練っていたのだろう。

 祖父の文章を懐かしんでいた僕は、自分で書いてみたらどうか、と思い筆を持ったわけである。物語になりそうな事象を例の手帳に書き付け始めた僕は、いくつか短編を書き、家族や学校の友達に見せた。評価はそう悪くはなく、この文章で長く読みたい、という声ももらったので今回の長編作成に取りかかったのである。

 勢いづいた僕は軽い調子で書き始めたが、あっさりと詰まってしまったのだ。序章で主人公とヒロインが運命的出会いを果たしたのはいい。そこの部分の推敲も飽きるほどやっている。でもそこから先が全然書けない。

 理由は簡単。結末をはっきりと決めていないためだ。いくつかの山場が思い浮かんだ時点で、一気に序章を書き上げてしまったのだが、冷静になってみるとその山場にどう持っていくかを考えていなかった。

 短編ならある程度は経緯を簡略にできるが、長編においては情景や心理描写を加え、物語に緩急をつけねばならない。早く山場を書きたいとは思っているものの、手順を踏まずしてそこに行き着いたら、ご都合主義もいいところだろう。

 つまり、しかるべき経過など、僕は完全にすっ飛ばして自己満足していたのである。しかも最終的にハッピーエンドなのかバッドエンドなのかすらも決めていないのだ。

 僕の目の前には「闇」しかない。「劇的」にはほど遠い。祖父のように、目的地のない航海を成功させるほどの技量など僕にあるはずもなく、早くも執筆は暗礁に乗り上げ始めていた。


 行く手の信号が赤になり、足を止める。何気なく辺りの景色を眺め、ふと思った。

 ――どこだっただろう、ここは?

 ひびの入ったコンクリート壁のアパート。窓がなくまわりにロープが張り巡らされたオフィスビル。見覚えがあるようでないような気がする。すぐ左手にある、明かりのないコンビニを覗いてみる。改装しているのか、中は空っぽだ。車や人の気配もない。風も止んでしまっている。

 町は沈黙していた。

 信号が青になった。僕は手帳を左ポケットにしまうと、来た道を引き返し始める。

 ――取りあえず橋まで戻ってみよう。

 見上げた空は、暗く不機嫌で、今にも涙をこぼしそうだった。


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