8
この世には憂鬱の代名詞が、処分セール品のようにあり余っていて、慎吾の場合は、《夏休み》という言葉がそれに当たる。
慎吾は、エロ本を読んだあの日から、クラスのみんなとのあいだに、越えられない壁を感じていた。それも透明な壁を。向こう側に行けないのに、向こう側がハッキリと見えるという、苦痛と焦燥と恐怖と孤独。
それがとても辛くてたまらない。
笑うみんなの口からこぼれる白い歯。その純白が、胸をギュッと締めつける。
みんなが笑えば笑うほど、その境界線上にある壁が、どんどんとその丈を伸ばしていくのだ。
だから、夏休みという、笑い声の四十日が、つらくてたまらない。
あの日を境にして、夏休みは楽しい時間ではなくなってしまったのだ。
だけど、今年はちがう。
ちがうはずだ、と慎吾は思う。
明日からはじまる今年の夏休みは、ちがうものになってほしいと、心から願っていた。
◆◆◆
廃病院の207号室。
その中央で犬たちにエサをやっている奈緒子のうしろ姿を、ベッドに座って眺めながら、自分にそう言い聞かせていた。
今年は、奈緒子がいる。
好きな娘だからとか、そういうことじゃなくて、ただ単に誰かがそばにいてくれるのが、とてもありがたかった。
キレイな後ろ髪のあいだからのぞく、吸い込まれそうな白いうなじを見ながら「今年の夏休みは最後の夏休みだ」と、慎吾は思う。
来年からは中学生。
制服に袖をとおし、みんな大人への階段を登りはじめるのだ。
「どうだった?」
またどうでもいいことを考えてボウッとしていた慎吾に、奈緒子が言った。
「え?」
マヌケな顔をしてマヌケな声を出しながら、主語を飛ばしてしゃべる奈緒子の癖に、いつも自分は戸惑うな、とふと思う。
「通信簿」
「あ、うん、フツーだよ」
「見せて」
「えー」
「いいじゃんいいじゃん。わたしのも見せるから」
渋々とランドセルの中から通信簿を取り出すと、奈緒子がそれを奪い取り、となりに座って楽しそうに開いた。
五段階評価の通信簿。
慎吾のそれには、3ばかりが並ぶ。
可もなく不可もなく。
それがたまらなくイヤだった。
「……なんか、フツー」
「だ、だから言ったじゃんか」
「うーん……あ、でも図工は5じゃん」
「あ、そうだよ。そうなんだよ。それしかないけど」
「へえ、あ、でも、うしろに飾ってる紙粘土のヤツって、すごいもんね」
自由に作品を作るという授業で、町山先生に褒められた『飛ぶドラゴン』という粘土細工。
慎吾の唯一の取り柄は、手の器用さだった。
それだけが自慢できることで、みんなからも、本当にその点だけはうらやましがられた。
だけど、と慎吾は思う。
いつもみんなに感心されていた自分の取り柄は、もう過去のものなんだ、と慎吾は思う。
うしろのロッカーの上に飾られた、渾身の作品のよこには、奈緒子の『犬たち』という、あの町山先生ですら唸った、まるでレベルのちがう絵が飾られていて、みんなの目はそこにだけ注がれた。
この世には、幸せになるべくして産声を上げる人間が、確かにいる。
彼らに与えられたものが、富や権力や地位や美貌なのか、「やってみたらできた」と、《努力》という、凡人のより所を一蹴してしまう圧倒的な才能なのかは、それぞれで異なるが、一様に彼らは、それを他人から羨まれるほどのものだとは思っていない。
だから始末が悪い。
嫉妬すればするほど、自分の小ささが浮き彫りになるから。
奈緒子もたぶん、そちら側の人間で、慎吾は毎日の学校生活の中で、それを痛いほど感じていた。
なにもかもを易々(やすやす)とこなす奈緒子が、放課後いつも当然のように遊ぶ少女と同一人物であると、にわかには信じがたかった。となりで微笑む少女は、学校にいるときには、ほとんど笑わない。
慎吾は、奈緒子のふだん見せない一面を、この一ヶ月近くのあいだにイヤというほど見てきた。透きとおる笑顔と天真爛漫な性格を知るだけに、奈緒子に嫉妬などしない。
手渡された5ばかりの通信簿を見ながら、そんなことを思う。
「やっぱすごいね、ぜんぶ5じゃん」
「ぜんぶじゃないよ、体育は2だもん」
「あ、ホントだ。そういえばプールは見学だったよね。なんで?」
「……わたし、肌が弱くてさ、日焼けしたら水ぶくれみたいになって大変なんだ」
沈む奈緒子に、非の打ち所のない美少女にも欠点があるということを知り、少しだけ気まずくなりながらも、慎吾はその事実になぜか安堵する。
だから、《勉強の方は問題ありませんが、クラスメイトとのコミュニケーションが少し足りないようなので、二学期からは、たくさんみんなと話してみましょう》という、町山先生の言葉を読んで、少し不安になった。
確かに、ワチコを除いて、奈緒子が自分以外の生徒としゃべったりするのを見ることはほとんどなかった。
それがみんなの嫉妬や遠慮から来るものなのか、あるいは奈緒子自身がみんなに一線を引いているためなのかは、分からない。
たぶん、その両方の理由のためなんだろうな、と慎吾は思う。
だから心配だった。
自分に突き刺さる嫉妬の視線は、まだ耐えられるけれど、その切っ先が奈緒子に向いてしまうことだって、十分にあり得るからだ。
そうなったとき、果たして、全力で奈緒子を守れるだろうか?
正次が学校に来なくなって、あの噂が流れたとき、慎吾は彼を擁護しなかった。
いや、できなかった。そんな勇気なんて無くて、ただオロオロとしていただけだった。
結局、正次と仲の良かった紀子の擁護によって、その噂を語るヤツはいなくなって、正次は救われた。
もう学校には来ないのかもしれないけれど、イメージがそれ以上に落ちることを、紀子が食い止めたのだ。
奈緒子がもしそんな目にあったら、紀子のような行動をとることができるのだろうか?
「今日はどうする?」
慎吾の思いに気づくはずもない奈緒子が、探るように呟いた。
「今日は、お母さんたち早く帰って来ちゃうから、ぼく、あんまり遅くまでいられないよ」
「えー、じゃあ、わたしを置いて、一人で帰っちゃうわけ?」
「そういうわけじゃないけど」
「そうじゃん、絶対」
「で、でもほら、明日から夏休みだしさ、明日から遊べばいいじゃん」
「じゃあ、今日はもう解散なわけ?」
「うん、ごめん。まだ少しはいられるけど」
「ふうん、まあいいけど。強制はわたしの趣味じゃないから」
明らかに不満顔の奈緒子に、少し怒りを覚えた。
最近、奈緒子は自分がなんでも言うことを聞くヤツだと誤解している節がある。それは否定できないが、絶対にどうしようもないこともある。
それにしても、奈緒子の家庭の事情はよく分からないけれど、そこは、ここに一人でいるよりも居心地の悪い場所なのだろうか?
もしそうならば、それは想像できる範疇を大きく上回っている。
「奈緒子もさ、今日は早く帰ればいいんじゃないの?」
「なんで?」
「だって終業式だよ。通信簿とか見せなきゃ」
「なんで?」
「なんでって……だってそういうもんじゃん」
「なんで?」
「だって……」
言葉に詰まる。
不機嫌に「なんで?」ばかりを連発する奈緒子を、納得させるだけの言葉を知らない。いや、不機嫌な人間を納得させるだけの言葉なんて、この世に存在しないのだ。
何を言ってもムカつかれるし、何をしてもムカつかれる。
「……分かったよ。勝手にすればいいだろ。ぼくはもう帰るから」
「え? あ……いま帰ったらもう明日からわたしここに来ないかもよ」
「好きにすれば?」
今日は引かない。引いちゃいけない、と慎吾は思う。
このままズルズルと奈緒子の言いなりになるのは絶対にいけないことだし、奈緒子にもそのことを分からせなければいけない。目の前の、慎吾の反抗に意外な顔をしている少女に、自分だって一人の人間であるということを分からせるのだ。
「ホントにいいの? わたし、もうここに来ないよ?」
「好きにすれば?」
「……そう、分かった。じゃあ、明日から、誰か連れてきちゃうからね」
慎吾は、「来るんじゃないか」という言葉を飲み込んで、
「好きにすれば?」
と、ため息混じりに返した。
そのため息はもちろんウソ。奈緒子が誰かを連れてくるというのだってウソだ。
クラスのみんなとほとんどしゃべらない奈緒子が、ここに誰かを連れてくるなんて、絶対にウソだ。
だからウソのため息を吐いてやった。
目には目を、ウソにはウソを。
目の前で悲しみの光を瞳に浮かべる少女に対して、少しの罪悪感を抱きながらも、初めて勝ったという満足感に酔う自分を、否定できなかった。
「じゃ、そういうことだから」
大げさに冷たく言い放ち、なにか言いたげに口を開きかけた奈緒子から、自分の通信簿を引ったくって、そのままランドセルを背負いながら207号室を出た。
「少し言い過ぎたかな?」と思いながら階段の手前で立ち止まって振り向くと、雑種の中型犬、鼻の周りだけが白い黒犬のサブローが、舌を出してあとを追ってきていた。
二人の異常事態を敏感に察知したのか、クゥーン、と悲しそうに鳴く。
「大丈夫、怒ってないよ。奈緒子のところに行ってあげな」
サブローの頭を撫でながら207号室を見やると、慎吾に見られないよう入り口の横に隠れて立つ、奈緒子の細い影が廊下まで伸びて、まるで心を引き留めようとしているようだった。
だけど、今日は戻らない。
戻ったら負けだ。
「じゃ、また明日!」
奈緒子に聞こえるよう大きく言った慎吾は、サブローの頭をもう一撫でしてから、廃病院をあとにした。
たそがれ坂を下りながら、明日はこっちから先に折れて、謝ろうと思った。
明日から、また元どおりの関係でいい。
そして奈緒子と楽しい夏休みを過ごすんだ、と、慎吾は顔を綻ばせた。