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バラバラ女  作者: ノコギリマン
バラバラ女
8/42

 神社へと続く、長い緩やかな、たそがれ坂。


 慎吾は坂道が好きだった。

 坂道は、その先にある景色を隠してしまうから。

 坂道を上るときは、いつも「もしこの先の景色が昨日と全然ちがう景色になっていたら」と心を躍らせていた。

 一時の夢想を、このたそがれ坂は、いつも与えてくれる。


 そして今、慎吾は奈緒子とともに、その坂道を上っている。


 半分ほどのぼると、例の神社へと続く階段があって、それを思うと少しの憂鬱を感じるが、奈緒子と一緒という事実が、それを薄めてくれた。

 奈緒子は万能薬だ。

 一緒にいるだけで、心の傷も額のケガも忘れさせてくれる。


 神社へと続く、苔むした石段を見上げた奈緒子が、


「わたしここに来るの初めてなんだ」 


 と、うれしそうに笑んだ。


「でもさ、ホントにここの『失恋大樹』は、大したことないよ。見たらガッカリするかも」

「べつにいいよ。暇つぶしなんだし。行こ」


 二段飛ばしで、階段を駆け上がっていく奈緒子。

 慎吾も、慌ててあとを追ったが、身を包む贅肉が、追いつくことを許してはくれなかった。

 どんどん離れていく、奈緒子の後ろ姿。

 背負う赤いランドセルが、その呼吸に合わせて、右に左に揺れている。

 そして階段の先へと着いて振り向いた、木漏れ日に揺れる奈緒子の、透きとおるような笑顔。

 遠くに見えるその笑顔に、今にも奈緒子がどこか遠くへ行ってしまいそうな、おぼろげな不安を感じた。


 けれどそれが、どこから来るものなのかは、分からなかった。


「遅い」

「ハアッ、ハアッ、う、うん、ご、ハアッ、めん」

「で、どこにあるの?」

「え?」

「失恋大樹」

「ああ、ハアッ、うん、こっち」


 慎吾は、奈緒子を連れ立って、境内の奥まった場所にある、雑木林との境になっている生け垣のそばに生える、大きな杉の木の前に立った。


「これ」

「え、これ? なんか思ったのとちがう。普通の樹じゃん」

「だから言ったじゃん、大したことないよって」

「ふうん」

「でもこのうしろ見てよ、いっぱい名前が書いてあるから」

「うん」 


 樹の裏がわに回った奈緒子が、その下の方に彫られたいくつもの名前を見て、


「この人たちの中で、ホントに死んじゃったりした人いるのかな?」


 と、冷たく言った――ように慎吾には聞こえた。


「死んだ人とかは、いないんじゃないかなあ。不幸になるってだけだから。でも恨みがでかければでかいほど、すごい不幸がやってくるみたいだから、一人くらい死んでるかもね」

「ふうん……」


 気の抜けた返事をした奈緒子が、彫られた一つ一つの名前をじっくりと見ていった。


 慎吾はこの樹が、秘密基地のあった頃からなぜだか苦手で、このさきの生け垣にポッカリと空いた、トンネルのような穴をくぐり抜けるほうが秘密基地への近道なのに、わざわざ遠回りをしていたほどだった。だから今、奈緒子が物珍しげにながめている裏がわを、一緒になって見る気にはなれず、足下に転がるいくつかの赤錆びた五寸釘を、ボウッと眺めていた。


「ねえ、この中に、チャーの知っている人とかいない?」

「え?」

「こっち来てよ」

「う、うん」


 奈緒子の言葉の、絶対的な力。

 慎吾は、奈緒子に逆らえない意気地のなさが情けなくなり、裏に回って、


「無いと思うよ。こんなの、誰も信じないって」


 と、少しだけ奈緒子に抗弁してみせた。


 それを意に介さず、


「いいからちゃんと見てよ」


 と、さらに強く命令する奈緒子。


 慎吾は気乗りせずに、樹の下方に書かれた何十個かの名前を、上から順々に見ていった。


 知らない名前……知らない名前……シルベスタ・スタローン……知らない名前……×印のついた知らない名前………………瀬戸正次……………瀬戸正次!


「セト君!」

「え、誰かいた?」


  思わず口をついて出た大声に、奈緒子が驚きながらも、嬉々としてたずねた。


 しかし慎吾は、しばらく開いた口を塞ぐことも忘れて、唖然としていた。

 知っている名前があるなんて考えもしなかったし、しかもそれが、いちばん仲の良かった正次のものだなんて、夢にも思わなかった。


 何が何やら、ワケが分からない。


 その《瀬戸正次》の文字は、黒ずんでほとんど消えかけていて、その上の方にある、おそらく最近書かれたのであろう名前に比べても、だいぶ古いものであるのは確かだった。


「ねえ、誰か知ってる人の名前、あったの?」

「う、うん。あ、ううん、勘違いだったみたい」

「なんだ……つまんないな」

「や、やっぱり言ったとおりでしょ」

「そうね。でも今日、誰かがここに来て、名前を書くかもよ」

「でも、そんなの分からないじゃん」

「だからさ、アッチに隠れて、見張るってどう?」

「え?」

「だから」

「い、言ってることは分かるけど。それ本気? ずっといるわけ?」

「うん。どうせヒマでしょ?」

「そういうことじゃなくて」

「いいからいいから」


 慎吾の言葉を聞き流し、生け垣の穴を、四つん這いになって抜けようとする奈緒子。

 一瞬、めくれたスカートから、淡雪のように白い太ももがチラと見えたが、奈緒子はそれを気にもかけなかった。


 目のやり場に困りながら、慎吾はその穴を越えるのをためらった。


 今まで忘れていた場所。これから忘れようとしている場所。


 その境界線を越えることはとても辛いことだったが、それを拒否できないということも分かっていた。


「どうしたの? 早く来て。誰か来ちゃうよ」

「来るわけないじゃん……」


 奈緒子に聞こえないようにつぶやいて、渋々と向こうがわに抜け、奈緒子のとなりに並んでしゃがむと、となりからほのかに甘い香りが漂って、鼻を優しくくすぐった。


「でもホント、誰も来ないと思うよ」

「わかんないじゃん。誰か一人くらいフラれてるでしょ、さすがに」

「さすがにって」

「あ、ほら誰か来たよ」

「あ、うん」


 失恋大樹へと近づいてくる人影を、気もそぞろに見つめながら、慎吾は《瀬戸正次》の文字に考えを巡らせた。


 いつ、誰が、なんで《瀬戸正次》と書いたのだろう?

 この『失恋大樹』に名前を書き込むのには、二とおりの理由がある。


 即ち、


「フッたアイツのことが憎いから、名前を書いてやれ」と、

「好きな人の好きなアイツが憎いから、名前を書いてやれ」だ。


 つまり、そこに書いてあるのが男の名前だからといって、必ずしも書いたのが女とは限らないし、その逆もまた然り。故に書き込んだ犯人は「バレることはない」と高をくくり、そして実際、その二つの理由によって、犯人を突き止めるための容疑者の数が、格段に増すのも事実。だからこそ罪悪感が薄まり、みんな軽い気持ちで、ここへ憎い相手の名前を書き込めるのだ。


 無論、一時の激情で、誰かが不幸になるのさえかまわないと思うような人間は、ごくごく少数なのかもしれないが、人は他人の心の裡がわを見るすべを持っていない。

 人は「バレなければ大丈夫」という悪魔の声にしばしば耳を傾けてしまう弱い生き物。

 そこのところをよく理解して作られた、ウマイ都市伝説だな、と、慎吾は今さらながらに思う。


「ワチコちゃんだ」

「え?」

「ほらあれ、ワチコちゃんじゃない?」


 我に返った慎吾は、奈緒子の言っている意味が分からないながらも、生け垣の隙間から、なぜか失恋大樹の文字をつぶさに見ていく、その近い後ろ姿を見た。


 赤いランドセルにショートヘアをなびかせる、薄桃色のTシャツに黄色い短パン姿の、小汚いシューズを履いた少女。その右ふくらはぎについた、小さなL字型の古傷に見覚えがあった。


「ワチコだ」


 とつぜん振り向いたその顔は、たしかに、クラス一の変わり者のそれだった。


「誰かいるのか?」


 どこのなまりなのかも分からない、ワチコ独特の男子みたいなしゃべり方。緊張している風でもなく辺りを見渡したワチコは、フン、と鼻を鳴らして、また失恋大樹に視線を戻した。


「なにしてんだろ?」

「さあ。ワチコちゃん、フられたのかもよ」


 奈緒子の弾む声が、信じられなかった。


「なんで、ちょっと嬉しそうなのさ」

「誰かの名前を書き込むのを、見れるかもしれないじゃん」

「なに……言ってるんだよ。もしそうなら、ぼくはワチコを止めるよ」

「いいから、黙ってて」

「なんだよ、それ」


 奈緒子の命令に逆らえないふがいなさに、ほぞを噛む思いをしながら、慎吾は息を殺して、ワチコを観察した。

 どうやら、ワチコは誰かの名前を書き込むつもりはなく、その道具すら持っていないようだった。


 しばらく失恋大樹を見ていたワチコは、それに飽きたのか、古傷を二度かいてから、そこを後にした。


「……なんだったんだろうね」

 

 ワチコの姿が見えなくなってから、奈緒子がすこし落胆して、ため息混じりに呟いた。


 慎吾にも、ワチコがここに来た理由は、さっぱり分からなかった。

 ワチコが、誰かのことを好きだなんて聞いたこともないし、絶対にそんなことはあり得ない。ワチコが誰かに恋しているなんて、考えただけで気分が悪くなるし、もしそれが自分だったらと思うと、更に更に気分が悪くなる。


 きっと、他の目的があって、ワチコはこの失恋大樹を見に来たのだ。


 ワチコは、真剣に彫られた名前をチェックしていた。

 でも、一体、なんのために?

 分からない。

 さっぱりだ。


 眉間にシワを寄せて考えていると、不意にお尻をなにかが撫でた。

 一瞬、まさか奈緒子に撫でられたのかと思い、それをすぐに頭から振り払って、背後を見ると、そこに白い蛇が這っているのが見えた。


「きょあえぇー!」


 十二年の短い人生の中で初めての、言葉にもならない言葉を大声で吐いた慎吾は、そのまま尻餅をついて、金魚のように口をパクパクとさせた。

 その声に一瞬ビクッと身を震わせた奈緒子が、慎吾の視線の先、這うのをやめて舌をチロチロと出す白蛇を見つけて、


「あ、ヘビだ」


 と、呑気に笑った。


「え、ウソ? だって、ヘビだよ」

「うん、べつにヘビなんて、怖くないじゃん。それにあのコ、きっと毒とかないよ」

「なんだよそれ、なんで分かるの?」

「わたしどっかで聞いたことあるけど、頭が三角のヘビには毒があって、丸いヤツには毒がないんだって」


 そう言われてよくよく見ると、確かに奈緒子の言うとおり、その白蛇の頭部は丸く、その事実が、慎吾を少しだけ安心させた。

 とは言っても、ヘビはヘビ。慎吾は微動だにできなかった。

 いつの間にかとぐろを巻いた白蛇が、慎吾には興味がないと言わんばかりに奈緒子のことをしばらくぢっと見て、ふたたび這って、そのまま草むらの中へと消えていった。


「ああ、触りたかったのに……」


 横で落胆する奈緒子に、慎吾は我が耳を疑った。


「な、なんで、怖くないんだよ?」

「えー、でもだって、可愛くない?」

「可愛くないよ、こ、怖いよ」

「じゃあ、チャーは、クモとか好きな人なんだ?」

「え?」

「クモ。虫の。お父さんが言ってたんだけど、人間には、ヘビが苦手な人と、クモが苦手な人の二種類がいるんだってさ。ヘビが嫌いなら、クモは好きでしょ? わたしはクモ苦手」

「クモも嫌いだよ」

「アハハ、じゃあ、チャーは三種類目の人間ね。おめでとうございます」

「や、やめてよ」


 バカにされたような気がして、慎吾は少しだけ腹立たしくなりながらも、その『ヘビとクモのウンチク』を、誰かに試してみたいという気にもなっていた。


 ようやく落ち着き、汗で額から剥がれかけた絆創膏をまた貼り直してから、「まだもう少しいたい」と言う奈緒子を説得して、二人で神社を出た。


◆◆◆


 今日はいっぱい変なことがあって、ドッと疲れたなと思い、無意識のうちに出た大あくびを奈緒子に笑われた慎吾は、


「神社どうだった?」


 と、涙目で返すのがやっとだった。


「うーん、ヘビとかワチコちゃんとか、いろいろ面白かったけど、あの樹はダメかな。やっぱり、バチアタリだもん」


 《都市伝説コレクション》にすると言って拾った五寸釘を、手持ち無沙汰にいじりながら言う、奈緒子の言葉を聞いて、なぜか、自分がガッカリさせてしまったのではないか、という思いにふと駆られた。


「でも、アレだよ、この坂にも都市伝説っていうか、言い伝えがあるんだよ」

「え、ホント?」

「うん」――



『たそがれ坂』

 神社へと続くその坂道には、古くからの不思議な言い伝えがある。

 たそがれ時に下から坂道を見上げると、ほんの少しだけの間、そこに、もう死んでしまった、一番会いたいヒトが夕陽を背にして立っているという。

 しかしそのヒトに近づくことはできず、近づけば、それは陽炎のようにぼやけ、しまいには消えてしまうらしい。

 ちなみに、『たそがれ坂』でヒトに会えるのは、一人につき一生に一度だけだと言われていて、その見たヒトが誰なのかを、誰にもしゃべってはいけないと言われている。

 もしそのことをしゃべると、そのヒトとの生前の思い出が、すべて消えてしまうらしい。

 現在では、夕刻を伝える、有線放送の『夕焼け小焼け』が流れるタイミングで見上げるのが、いちばん出会える確率が高い方法とも言われている。



 ――「ホントに?」


 明らかに疑いの目を向けながらも、その話を嬉しそうに聞いていた奈緒子は、慎吾が語り終えると、意地の悪い目を向けて言った。


「ホントかどうかは分かんないよ。やってみたことないし」

「じゃあやろうよ。もうすぐ『夕焼け小焼け』が流れるし。ホントだったら、わたし、会いたい人がいるんだ」


 目羅博士の腕時計を見ながら言った奈緒子が、唐突に慎吾の左手をひいた。

 心臓が止まるほどの柔らかな衝撃に声すら出せない慎吾は、そのまま奈緒子に手をひかれて、たそがれ坂を夢見心地でくだった。


「あと一分ね」 


 坂道の方を向き、腕時計を見て、ソワソワしながら有線放送を待つ奈緒子。

 その横で、慎吾もソワソワ。

 奈緒子と手を握った。

 しかも結構長いこと。

 恥ずかしくて、横にいる奈緒子を見ることさえできない。

 もう夕方だというのに元気に鳴く、セミの大合唱だけが耳に障る。


 五時半になって、『夕焼け小焼け』が、にわかに町を包みはじめた。

 奈緒子が「始まった」と声を弾ませて、坂道を見上げたようだった。

 慎吾は、もちろんとなりを見ることなんてできず、左手に残る柔らかな感触を何度も確かめながら坂道を見上げたが、そこには、なにも見当たらなかった。


 見えるわけがない。死んでしまった会いたい人なんていないのだから。


 『夕焼け小焼け』が鳴り終わっても、まだ慎吾は汗ばむ左手をぎゅっと握りしめて、間を埋めるために、むず痒さの残る額の傷を、絆創膏の上から右手で掻いていた。


 それなのに、奈緒子は一向に口を開かなかった。

 それを不思議に思いながらも、慎吾には、まだ右がわの世界を見る勇気はなかった。

 絶対に目を逸らしてしまう。

 ただのトモダチなのに。


「ありがとう」


 不意に、奈緒子が呟いた。

 慎吾は、自分に言われたような気がして、ハッと奈緒子を見た。


 たそがれ坂を見上げたままの奈緒子の瞳から、一粒の涙がこぼれていた。

 それが頬を伝い、アスファルトの路面に垂れ落ちた。

 奈緒子が、そっと濡れた頬をふいて、壊れそうな笑顔で慎吾を見た。

 それが奈緒子の本当の笑顔だと、慎吾にはなぜだか分かっていた。


「いたの?」

「うん」


 この日、奈緒子と交わした言葉は、それで最後だった。


 どういう感情が奈緒子の中に渦巻いているかだとか、何を、誰を見たのかなんて、ルール違反だから聞けなかった。

 だが慎吾には、となりで押し黙って歩く奈緒子が、とても晴れやかな顔をしているようにも見えていた。


◆◆◆


 いつものように、商店街の前で奈緒子と別れた慎吾は、ミオカさんの下手な歌を聴きながら、今日は沢山のことがあったな、と一日を振り返った。


 純平に本で殴られて、直人にからかわれて、神社に行って、《瀬戸正次》の名前を見つけて、ワチコを盗み見して、ヘビに驚いて、奈緒子と手をつないで、そして、奈緒子が泣いていた。


 せつない想いを

 とにかくキミに伝えたい

 マジで愛しておくれよ

 さらに百倍キミを愛すから

 吐くための上手いウソなんて

 グシャグシャにしてしまおう

 下手なホントをオレは言いたいんだ


 奈緒子の涙を思い返しているうちに、ミオカさんのダサくて調子外れな歌が、不覚にも胸にスッと染み渡っていた。


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