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その日の放課後、慎吾はトボトボと独りで帰っていた。
次郎はめずらしく学の家へ遊びに行くそうで、べつにどうでもいいのに「ごめんな」と申しわけなさそうに謝ってきた。
たしか今日は、全国の子どもたちが待ちに待った『シーズタークの冒険』というテレビゲームの続編である『シーズタークの冒険2/ゲンドマイズの最凶戦艦』の発売日だ。
ゲーム機の無い子どもたちは、自然とそれを持つ友人の家へと足繁くかようようになる。
たかがゲーム、されどゲーム。それに疎いヤツはバカにされるのがオチだ。慎吾も例に漏れず、その点においても次郎や太一にバカにされていた。
それでもゲームの面白さがイマイチよく分からない。
漫画やテレビの話題なら、十分についていけるくらいには好きなのだが、どう考えてもゲームが面白いとは思えないのだ。
去年の冬頃、『シーズタークの冒険』を出すゲーム会社が出した『ジュキラスのクレイジーマシンガン』というシューティングゲームを、学の家でやらせてもらったのだが、五分と経たずに飽きてしまい、コントローラーを放り投げて、学に怒られたことがある。
それ以来、学は慎吾を自分の大切なゲーム機に触れさせないと決めたらしく、だから今日、慎吾は学の家に行くことができないのである。
「バッカみたい……」
独りごちて、ふと前に目をやった慎吾は、思わず足を止めた。
目の前を、山下奈緒子が歩いている。
山下奈緒子まではかなりの距離があいていたが、幻想の世界から抜け出してきたような、あの白いワンピースを見まちがええるはずはなかった。
その光景を見た慎吾は、まず「おかしいな、たしか山下さんの家はこっちのほうじゃなかったような」と思い、次に「どこに行くのか知りたい」という不埒な好奇心に駆り立てられ、とっさに山下奈緒子の後ろ姿を追いはじめる両足を、制止することができなかった。
この町はまだまだ発展途上だ。駅前の通りを過ぎると、いずれはオフィス街になる予定の、フェンスで囲まれた原っぱだらけの景色が見えてくる。
東京とは言っても、都下のこの町はほとんど田舎町だと言って差し支えがない。そんななにもない場所を、足をゆるめることもなく歩いていく山下奈緒子を、つかず離れずの距離で尾けながら、慎吾は少し不安になった。
「こんなところになんの用事があるんだろう?」と思いながら、まるでアトラクションの巨大迷路のように入り組むフェンスのあいだを、一切の躊躇もなく突き進む山下奈緒子を、見失わないよう、見つからないよう、慎重に慎重にあとを尾けた。
◆◆◆
たどり着いた先、丘の上に建つ不気味な廃病院に、真っ赤なランドセルから取りだした懐中電灯を手に入っていく山下奈緒子を見た慎吾は、涼風の心地よい夏の茜空の下で、しばらく呆然と立ち尽くしていた。
なぜならば、そこは子どもたちのあいだで噂の『血塗れナース』という都市伝説の舞台である場所だったからだ――
『血塗れナース』
その総合病院の院長オザキは、優秀でそして善人でとおる信頼のあつい人物であった。
しかし裏では、毎夜なにも事情を知らぬ患者を《治療》と称して地下の実験室に連れ込んで、言うもおぞましい凄惨な人体実験を繰り返し、そのまま無残に患者をなぶり殺す、残忍な猟奇殺人鬼だった。
それを見かねたある一人のナースが、もう止めるようオザキに忠告したが、それも空しく、そのナースもオザキの残忍な魔手にかかり、血塗れになりながら病院の裏手の井戸に生きたまま捨てられ、そのまま闇の底で絶命する。
それから数日後、怨霊となってオザキの前に現れたナースは、両手に持つ二本のメスによって、オザキの体に犠牲者と同じ数の五十六カ所の穴を空けて殺害。
オザキの悪行が世間に明るみになるとともに総合病院は潰れ、ナースは犠牲となった亡霊たちの看護のために、夜な夜な病室を徘徊する、血塗れナースとなった。
――もちろん、そんなくだらない都市伝説を、慎吾は信じてはいなかった。
そもそもその都市伝説は非常に稚拙な出来である。五十六人も人を殺したらさすがに警察にバレないわけないし、そんな状況になって忠告しかしないナースなんてまるでバカじゃないか。
そう思い、『血塗れナース』の話を鼻で笑った慎吾だったが、ガラスの割れた入り口の自動ドアから、薄暗い内部を覗いていると、言いようのない不安を感じた。
どこからか聞こえるカラスの不気味な鳴き声と、それに応えるようにやかましく吠えたてる犬の鳴き声が、いっそう濃く心の裡に影を落す。
しかしこんなところで二の足を踏んでいても、中で山下奈緒子がなにをしているのかを知る手立てはない。
「おじゃましまーす……」
中にいるだろう山下奈緒子にか、はたまたこの廃病院の主人である血塗れナースに言ったのか、自分でも分からなかったが、とにかく勝手に許可を得て、病院の中に足を踏み入れると、すぐに肝試しに来た若者が残したのであろう《タスケテ》という落書きが目に飛び込んできた。そのほかにも色々と頭の悪そうな落書きが壁を埋め尽くしている。それらがイタズラだと分かりながらも少しだけ背筋をヒヤリとしたものが撫でた。
意を決した慎吾は、割れた窓ガラスや、天井から剥がれ落ちた石膏ボードを踏みしめながら、奥へ奥へと進んだ。けれども一向に山下奈緒子は見つからず、廊下を進むたびに視界の隅にちらつく暗闇の吹きだまりから、血塗れナースが飛び出してきて、そのままメッタ刺しにされるんじゃないか、という恐怖に怯えて、足を止めることができなかった。
いま足を止めたら、それこそ体中にネットリとまとわりつく、この恐怖に押しつぶされてしまい、そのままオカシクなってしまって、もう二度とまともな人生を過ごせないのではないかという気さえしていた。
だから慎吾は、かすかに震える足に「大丈夫、大丈夫」と言い聞かせながら、先へと進んだ。視線の先で、横倒しの車イスのタイヤが、キィーキィーと不気味な音を立てて回っている。怖い想像を頭から振り払い、きっと山下奈緒子が回したのにちがいない、と思いながら、さらに先へと進んだ。
そしてここに足を踏み入れてしまったことを十二分に後悔する頃には、あと戻りすることすら勇気がいるほど、奥へと来てしまっていた。
それなのに山下奈緒子は見当たらない。
すでに半ベソ状態で眼前の階段を見上げた慎吾は、階上から聞こえてくる犬の鳴き声にホッと胸をなで下ろした。
たぶん、二階に山下奈緒子がいる。確証もないのにそう思い込み、気づくと二段飛ばしで階段を駆け上がっていた。
すぐに息切れをしてしまう贅肉だらけの体を恨めしく思いながら、そこから見える病室の三番目、懐中電灯のおぼろげな光が漏れ出る207号室を見ながら、思わず、
「良かった……」
と、慎吾は呟いていた。
息を整えた慎吾は、ふたたび忍び足になって207号室に近寄り、そっと中を窺った。
そこには、大きいのから小さいのから、様々な犬が五匹いて、車座に座るそれらの中央に、慎吾へ背を向けるようにして山下奈緒子が屈んでいた。
犬のエサであろう、大きな紙袋をかたむけて床に中身をバラまく山下奈緒子が、いつもの涼やかな声で「ああ、待って待ってサブロー」と、フライング気味にエサにがっつく中型犬をなだめる。
慎吾は、もう少しよく見えるようにと一歩踏み出し、足下に転がっていた清涼飲料水の空き缶を、思うさま蹴飛ばしてしまった。
音を立てて夕闇に吸い込まれていく空き缶を目で追いながら、慎吾は「終わった」と思わざるをえなかった。
きっとこれで山下奈緒子に見つかって、彼女を尾けまわしていたという、キモチノワルイ行動がすべてバレてしまうのだ。
それを知った山下奈緒子は、これまたきっとそのことをみんなに言いふらし、女子にはますます距離を置かれ、男子からはますますバカにされるにちがいない。
なぜ山下奈緒子を尾けたのかも分からないまま《ヘンタイ》のレッテルを貼られるのはゴメンだったが、それでも、一階のあの闇の中を、一気に駆け抜けて逃げる自分の姿を、まったく想像できなかった。
そんなことは、絶対に無理だ。
ホントにマジで最悪の最悪。
「だれ?」
意外にも、あまり緊張したようすでもない山下奈緒子の声色に疑問を感じながらも、とっくに観念していた慎吾は、額に噴き出る玉のような汗を拭ってから、207号室へと足を踏み入れた。
一瞬、なぜか期待に顔をほころばせている山下奈緒子と視線がぶつかり、すぐに目を逸らしてうつむきながら、
「ご、ごめん」
と、なんとか声を絞り出した慎吾は、もう本当にこれですべてが終わったんだな、と思いながら、足下でグロテスクな腹を見せる、季節外れのセミの亡骸を涙目で見つめた。
「ああ、なんだ宮瀨君か……」
失望の色を含みながら、しかし突然の訪問者におどろいた風でもない山下奈緒子の声に、慎吾は安堵と疑問を胸に抱いた。
「お、怒ってないの?」
「え、なんで?」
問いかけに問いかけで返した山下奈緒子が、慎吾の下へと近寄ってくる。
その白いワンピースの裾につく茶色いシミを見つけた慎吾は、山下奈緒子も、二十四時間いつでも完璧に真っ白な存在じゃあないんだな、と、どうでもよく、それでいて重大な事実に気づかされた。
「怒ってないの?」
恐る恐るふたたびたずねると、
「だからなんで?」
と、山下奈緒子も、ふたたびたずね返してきた。
「ぼく、山下さんを尾けてたんだよ」
「わたしを? なんで?」
「なんかよく分からないけど、前を歩いてる山下さんを見つけてさ、家とちがう方に歩いてたから、気になっちゃって」
「ふーん。よく分からないけど、わたしべつに怒ってないよ」
「ホントに?」
「うん。でもちょっと、ガッカリしたけど」
「ガッカリ?」
「うん。やっと血塗れナースに会えるんだって、ちょっとワクワクしてたから」
「ごめん、なんか、ぼくで」
「いいよ気にしないで」
やっとのことで顔を上げると、目の前で山下奈緒子が微笑んでいた。
「でもホントにごめんね」
「いいよ謝らなくて」
そう言って、山下奈緒子は、シッポを振りながら近寄ってきた大型犬の頭を優しく撫でた。
「山下さんは、なんでこんなところにいるわけ?」
「言ったらバカにされるかもしれないけど、血塗れナースに会いに来たの」
「血塗れナースに? なんで?」
「うーん、ただの好奇心。わたし、言ったと思うけど、そういう話が好きなの」
「でも、山下さんみたいにアタマのいいコが、『血塗れナース』なんてどうしようもない話を、なんで信じるわけ?」
「わたしも本当に信じてるわけじゃないけど、ワチコちゃんにこのまえ聞いて、やっぱちょっと面白そうだなとか思っちゃって。噂話がどんなにバカバカしくても、そんな話があるってことは、やっぱりそこには、その噂話ができるだけの何かの理由があると、わたしは思ってるんだ」
「火のない所に煙は立たない?」
「そうそう、そういうこと」
「でもいなかったんでしょ?」
「うん。もし本当にいたら、わたしはメチャクチャに刺されて死んでるとこだけど、アハハ」
「すごいね、ぼくは、一人でこんな怖いところには来れないよ」
「来てるじゃん」
「あ、うん、でもそれはほら……」
しどろもどろになりながら慎吾は、山下奈緒子のかたわらでシッポを振る犬を見て、咄嗟に話を逸らした。
「こ、この犬たちはなんなの?」
「タローにジローにサブローにシロー、それにこのコは女の子だから、イツコちゃんね」
「名前じゃなくてさ、なんで犬がここにいるわけ?」
「わたしにも分からないけど、初めてここに来たときに、もういたんだよね」
「ふうん、それでなんでエサなんかあげてるわけ?」
「だって、かわいそうでしょ。多分このコたち捨て犬なんだよ。ていうか宮瀨君さ、さっきから、なんでなんでばっかりだね」
「あ、うん、ごめん」
「べつにいいんだけど。わたしも聞きたいことあるんだ」
「あ、うん、なに?」
「なんで、チャーなの?」
「え?」
「あだ名」
「あ、ああ、それね……」
言葉に詰まる。
《チャー》の由来なんか、思い出したくもない。
だが、山下奈緒子には、自分のことを全てさらけ出してもかまわないという思いも、ないわけではなかった。
「……えっとさ、ぼく、ほら、デブでしょ。デブだからブタ、ブタだからチャーシュー、チャーシューだからチャー。ひどいでしょ、太一につけられたんだ」
「あー、アハハ、なるほど。ひどいけどセンスあるね、木村君」
「え、あ、うん」
「あれ、ごめん、怒った?」
「そんなことないけど」
少しだけ、傷ついていた。
まさかこのあだ名を笑われるなんて思ってもみなかったから。
しかしそれと同時に、教室では見せない山下奈緒子の一面を垣間見ることができた幸運にバンザイしたい気分も同じだけ心の裡に存在していた。
「でも大丈夫なの? 帰らなくて」
「うん、少しくらいなら平気。ぼくんチさ、お父さんもお母さんも働いてて夜遅いんだ」
「え、そうなの? わたしも一緒。まあ、わたしがいるかどうかなんて、気にするヒトたちでもないんだけどね、ホーニンシュギだから」
一瞬、言いようのない悪寒が背筋に走った。
今の山下奈緒子の言葉、とても冷たかった。
それにそれを言っている時の表情が、転入してきたあの日のものと同じだった。
親と、あまりうまくいってないんだろうか?
しかしそれを山下奈緒子に聞く勇気なんてない。
そこはたぶん超えてはいけない境界線なのだ。
誰にだって聞かれたくないことはある。
慎吾にも、いくら山下奈緒子にだって言えないことは山ほどある。
他人からすれば守るほどでもない秘密をみんな胸の引き出しの下の方にしまっているのだ。
「でも、ぼく、もう帰ろうと思うんだ。ちょっと暗くなってきたし。山下さんはまだいるの?」
「じゃあ、わたしも帰ろうかな。宮瀨君って、向山の方だよね?」
「うん」
「じゃあ、途中まで一緒に帰ろ」
「うん」
その言葉が、嬉しかった。
山下奈緒子と一緒に帰れることもそうだが、何よりも、この暗闇に閉ざされた廊下を、一人で戻れるわけがなかったから。
◆◆◆
犬たちに別れを告げ、山下奈緒子とともに廃病院を出た慎吾は、もうすっかり日の落ちた街灯一つ無い原っぱだらけのフェンス迷路を、山下奈緒子の横に並んで歩きながら、
「山下さん、明日もここに来るの?」
と、何気なくたずねた。
「うん。一週間くらいずっと来てるし、明日も行かないとタローたちお腹空かしちゃうでしょ」
「うん、そうだね。そういえば、図工の時間に山下さんが提出した『犬たち』って絵さ、あれって、あの犬たちを描いたの?」
「うん、そうそう。うまく描けてたでしょ。あれね、土曜日にあそこに泊まって、ずっと描いてたんだよ」
「え、泊まって?」
「うん」
「心配されなかったの?」
「さっきも言ったけど、わたしがいるかどうかなんてどうでもいいのよ、ウチのヒト。わたしね、夜中に部屋から抜け出して散歩するのが趣味なんだけど、それも気づかれたことないし」
「そう、なんだ」
「宮瀨君は、そういうことしないの?」
「し、しないよ。お父さんとか、メチャクチャ怖いもん」
「ふうん、じゃあ今度、バレない方法を教えてあげる」
「あ、うん、ありがとう」
「宮瀨君は、学校が終わったあと、なにやってるの? 部活とかしてないでしょ」
「うーん、すぐ家に帰って、マンガ読んだり宿題したり、かな」
「ふうん」
「……」
「……」
「……あ、あのさ、ぼく、明日もあそこに行っていい?」
「え、ホントに?」
「ご、ごめん、ダメならいいけど」
「全然ダメじゃないよ。じゃあ、あそこ、わたしたちの秘密基地にする?」
「え、いいの?」
「うん。わたしね、秘密基地にちょっと憧れてるんだ。だけどほかの女子ってそういうの興味ないでしょ。前の学校でもそうだったし、ここでもやっぱり興味ある人いないみたい」
「そりゃそうでしょ」
「アハハ、そうだよね。でも男子に混じって秘密基地を作るのも、なんかちがうなとか思うし。だからあそこにいて、すごいそういう感じがして楽しかったんだけど、やっぱ一人じゃつまんないんだよね」
「分かった。じゃあ明日から、ぼく行くよ」
「うん。あ、でも一つ条件があるよ」
「え、なに?」
「これからは友だちだから、宮瀨君のこと、あだ名で呼んでいい?」
「……うん、いいよ」
「じゃあ、宮瀨君も、わたしのこと山下さんって呼んじゃダメだよ」
「え、うん。なんて呼べばいいの?」
「山下とか、奈緒子とか、呼び捨てか、それかなんかあだ名考えてよ」
「えー、ぼくあだ名を考えるのニガテー」
「じゃ、奈緒子でいいよ」
「うん分かった、そうする」
「じゃあ、わたしこっちだから。チャー、またね」
「うん、またね……奈緒子」
楽しい時間は絶対に短くて呆気なく終わる。
別れを告げ、駅前商店街の雑踏に消えた奈緒子の、もう見えなくなった後ろ姿をなんども脳裡に浮かべながら、慎吾はあんなにイヤだった自分のあだ名を今ではとても愛おしく思っていた。