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バラバラ女  作者: ノコギリマン
バラバラ女
40/42

39

 廃病院の前で息を切らして立った慎吾は、そこから漂う圧迫感に足を(すく)ませていた。


 ずっと、タローたちが吠えている。


 懐中電灯を点けて中へ入ると、暗闇が重くまとわりつき、湿る夜風が頬をジットリと撫でた。


 中庭を見ると、タローたちが一様に夜空を見上げて、狂ったように吠えたてていた。

 中庭に出て、夜空を見上げると、冷たいものに頬を打たれた。


 雨が、降り出していた。


 207号室から、ほの赤い懐中電灯の明かりが漏れているのが見えた。


 (きびす)を返して暗い廊下を進んで、階段の下までたどり着くと、そこになぜか車イスが横倒しになっていて、タイヤがキィーキィーと耳障りな音を立てて回っていた。


 そこから懐中電灯の明かりを階段に移した慎吾は、二段飛ばしで駆け上り、息を整えるのも忘れながら207号室に入った。


 そこに、奈緒子はいなかった。


 マットの上に、誰かがあおむけになって横たわっている。


 全身を赤色で包む男、コモダさんだった。


 カッと目を見開き、口からダラリと舌を出したコモダさんに身震いしながら、そこへ近寄った。


……死んでいる……?


 土気色の顔のコモダさんの赤い服に、いくつもの穴が空き、そこからあふれ出したのであろう血が、マットを赤く染め、そして服まで赤黒く染め上げていた。


 ――血塗れナース


 脳裡をよぎるバケモノを必死に振り払い、恐る恐るふたたびコモダさんを見た。


 その死体で最も不快で不思議だったのは、コモダさんの下半身だった。

 なにも履いていない。

 露わになったモノが、あの日見た、ミオカさんのそれを思い出させていた。


 慎吾は、吐いた。

 何度も、何度も、吐いた。

 耳鳴りがして、体の震えが止まらなかった。


 床の吐瀉物(としゃぶつ)から目を背けた慎吾は、朦朧とする意識の中で、それでも奈緒子のことが心配で仕方がなかった。


 あたりを照らしてみても、奈緒子はやはりこの部屋にはいないようだった。


 慎吾は、考えに考えた。


 そしてきっとあそこにいるにちがいないと思い、207号室を出て屋上へと向かった。


◆◆◆


 アルミ板のドアを開くと、雨がコンクリートの床をすっかり濡らしていた。


 外へ出て雨に濡れるのもかまわずに辺りを照らすと、いつか一緒に超えた柵の向こう側で、奈緒子がこっちを向いて佇んでいた。


 手には包丁を持ち、なぜか《バラバラ女の血みどろワンピース》を着た奈緒子が、


「やっぱり、来てくれると思ってた」


 と、何事もなかったかのように、優しく笑った。


「な、奈緒子、なにやってるの?」

「殺しちゃった」


 耳が、痛かった。


「殺した……の?」


 慎吾は柵の前までゆっくりと近寄り、奈緒子を見つめた。


 赤黒いワンピース。

 絵の具の赤色なんかじゃなかった。


 柵の向こうがわの赤い少女が、雨でどんどん濡れていく。


「ど、どうして?」

「言えないし、言いたくないから、言わない」

「う、うん分かった。こっち来てよ、危ないから」

「行けないよ」


 笑う奈緒子。


 声が死んだように冷たかった。


 雨がその勢いを増して、ワンピースに着いた赤色をすすぎ落としていく。

「これさ、ぜんぶあのヒトの血。すごいでしょ」


 笑う奈緒子。


 赤黒いワンピースから伝ったのであろう血が、その裾から垂れ落ち、内股からは赤い筋が、蛇みたいにつたい落ちていた。


「いいからさ、こっち来てよ」


 それしか言えなかった。


「ダメだって。もうそっちへは行けない」


 笑う奈緒子。


「あーあ、なんでこうなるんだろうね、今日はずっと楽しいままで終わるはずだったのに」


 笑う奈緒子。


「お願いだから、こっち来てよ」


 それしか言えなかった。


「……最後にひとつだけ、聞いていいかな?」

「最後とか、言わないでよ」

「……わたしの」


 奈緒子は言い淀み、そして、


「……わたしが死ぬことが、チャーの最大の不幸なのかな?」


 と、言った。


 なぜ奈緒子がそんなことを訊くのか、分からなかった。


「うん、うん、絶対にそうだよ、だ、だから死なないで」


 言葉に詰まりながら言うと、それを聞いた奈緒子が笑い、


「……そっか」


 と言って、また笑った。


「それが聞けてよかった……さよなら」


 奈緒子の手が、柵から離れた。


 その腕を、慎吾は咄嗟に掴んだ。


「……痛い、離して、お願い」


 ほとんど中空に身を傾けた奈緒子が、二重の瞳で慎吾を見つめていた。


 雷鳴が轟き、稲妻が日常にヒビを入れてゆく。


 ――この世に前触れのない事件はない。すべて偶然の積み重ねで起きる必然だ。


 目羅博士の言葉が、悪魔みたいに笑っていた。


「イヤだよ、死なないで!」

「……チャーさ、わたしのお願い、聞いてくれる?」

「うん、うん、なんでも聞くから、だから死なないでよ!」

「……『バラバラ女』さ、この町に溶かして。そうすればみんな、ワチコちゃんも直人君も、それにチャーもわたしのこと忘れないでしょ?」

「やめてよ、そういうこと言うの、死なないでよ!」


 右手が、痺れていた。

 柵を掴んで体を支える左手も、悲鳴を上げ始めている。


 なんで、こんなことが起きるんだ?

 なにが起こったんだ?


「ありがとう」


 それが奈緒子の最期の言葉で、


 その笑顔は、いつもの笑顔だった。


 そして――


 ――宮瀨慎吾は、山下奈緒子の腕を掴む手を、離した。


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