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バラバラ女  作者: ノコギリマン
バラバラ女
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 七月が来た。

 夏が、ついに始まる。

 贅肉と同居する慎吾にとって、最悪な季節。

 寝不足の上に夏バテにまでなってしまったら、きっと死んでしまう。


《夏》という言葉は、慎吾にとって地獄の代名詞だった。

 天高くそびえる入道雲が、金棒を持った鬼にさえ見える。


 こんな暑い季節はタチの悪いジョークであってほしい、と毎年のように思わずにはいられなかった。この、湿気と直射日光で埋め尽くされた世界なんて、ウソに決まっている。一体だれのために、こんな季節があるんだ? 誰も得なんてしないじゃないか。ボウッとして、ただでさえ悪い頭がにぶい回転すら止めてしまうような気までする。


 それに今はプールの授業中。


 カナヅチの慎吾にとって、この時間は《苦痛》の意味を体に染みこませる時間に過ぎない。

 バタ足、バタ足、バタ足………

 もう何千回と繰り返してきたバタ足。今年の夏の終わりまでに、また何百回かが加わるのだ。

 もういい加減、このバタ足のせいで、プールが運動場がわに何センチかずれてたりしてたら面白いのになと、くだらない妄想にふけりながら、今日もまた慎吾はバタ足、バタ足、バタ足……


 何十分かが過ぎ、もうなにも考えることすらできずに足を動かしながら、プールサイドの(ひさし)の下のベンチの、どこからか持ってきた木の枝であそぶ次郎のよこに座る山下奈緒子を、慎吾は気づかれぬようにそれとなく眺めていた。


 席替えの日からすっかり話す機会も無くなって久しい、難しそうな分厚い文庫本に目を落とす山下奈緒子は、日陰の中にあってすら、その美しさを十二分に輝かせている。


 その光景に見惚れ、唐突にむずがゆい恍惚(こうこつ)を股間に感じた慎吾は、底知れぬ後ろめたさに困惑した。


「はい、じゃあプールから上がって!」


 最悪のタイミングで、プールに響き渡る町山先生の声。


 ホントにマジで最悪の最悪。


 こんな状態でプールから上がったら、太一や次郎になんてあだ名を付けられるかわかったもんじゃない。ただでさえ《チャー》なんてひどいあだ名をつけられてるってのに、それ以上にひどいことになったら、もう学校に来る気を失くしてしまって、瀬戸正次(せとまさつぐ)のように不登校児の仲間入りだ。


 絶望的な状況に動けないでいると、うしろから肩をそっと柔らかい手に掴まれた。おどろいて振り向くと、心配そうに見つめてくる紀子の姿があった。


「大丈夫? 気分とか悪いの?」

「ううん、そんなことないよ。あ、暑いからさ、外に出るのイヤだなあとか思ってて」


 しどろもどろで目を合わせることもできずに言い訳する慎吾を、それでもなお心配そうに見つめる、山下奈緒子と対照的な小麦色の肌の少女は、そこまで近づかなくてもいいではないかというくらいの至近距離にいた。


 これじゃあいつまでたっても上がれやしないし、おさまるものもおさまらない。


「ほ、本当に大丈夫だから。先に行ってよ」

「そう、分かった」


 つぎの瞬間、プールを上がる紀子のお尻が、慎吾の低い鼻先をかすめた。好物のおモチのような、あまりにも柔らかな感触に言いようのない興奮を覚え、無意識のうちに口元が緩んだ。


 夏も意外と悪くない、と思いながらふとプールサイドを見やると、なにか意味ありげに微笑する山下奈緒子と視線がぶつかった。思わず逸らした目をすぐにまた戻すと、山下奈緒子はなにごともなかったかのようにふたたび分厚い文庫本に視線を落としていた。


 見られてしまった。紀子のお尻でニヤけてしまった顔を。


 最悪だ、最悪。ホントにマジで最悪の最悪。

 やっぱり夏は、最悪の季節だ。


 すっかり気落ちしながら股間をまさぐると、すでにソレは意気消沈としていた。バカ正直。

 ため息を吐きながらプールを上がり、またため息を吐いて列の後ろに座ると、


「ため息すると幸せが一つ逃げんぜ、デブ」


 と、となりのワチコが、その右のふくらはぎにある小さなL字型の古傷を掻きながら、肩を小突いてきた。

 心の底からワチコが苦手だった。ワチコは、なにかというと人を小バカにしたようなことばかりを言う。慎吾に限らず、クラスの大半の男子はその粗暴な態度を嫌っていた。ふくらはぎの傷だってそれが原因だったってのに、まったく反省の色なしだ。


「うるさいな、ほっといてよ。ワチコのせいでまたため息が出ちゃうだろ」

「ヒヒヒ、そうやって残り少ない幸せをどんどん失くせばいいよ」

「勝手に残り少ないって決めないでよ」


 やっぱり苦手だ、と思いながら力一杯に(にら)みつけると、それをどこ吹く風で受け流したワチコは、もう興味を失ったと言わんばかりに、町山先生へと視線を戻した。

 空回りの慎吾も一つ舌打ちをして、同じく町山先生へと視線を戻す。


「じゃあ、今日はこのへんで終わるけど、来週から水泳のテストを始めるから覚悟しとくように」 


 町山先生の死刑宣告に騒ぐクラスメイトの中で、泳ぎが得意な太一や学は大きなガッツポーズをとっていた。

 自分が輝けるシチュエーションを熟知しているのだ。


 そして慎吾は、まだ自分が輝けるシチュエーションを見つけられずにいる。


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