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ワチコの家からしばらく歩いた先のコンビニに入ると、奈緒子とワチコはパンの棚へ向かった。
別行動をとった慎吾と直人は、雑誌の棚へと向かい、テレビ雑誌を立ち読みしはじめた直人の横で、慎吾は発売されたばかりの『週刊少年 サクセス』を開いた。
目当ての『妖怪博士 目羅博士』は、いよいよ《怪盗バックベアード編》の佳境に入っていた。
前回は怪盗バックべアードに、師匠であり、また目羅博士の武器でもある妖刀ケズリイタチの鞘にぶら下がるサガリ先生を拉致され、目羅博士は単身バックベアードのアジトへと向かった、というころまでだった。
今回、いよいよバックベアードと対峙した目羅博士だったが、普段は鞘に収めているあいだに、サガリ先生が妖気を充電させているケズリイタチの力が半減していた。
絶体絶命のピンチ。
と、その時、永遠のライバルであり、ミスターヌラリの右腕でもある隻眼の烏天狗、ヤタマルが現れた。
そこまでを息を呑みながら読んでいると、不意に肩を叩かれ、
「へえ、ヤタマルが助けに来たんだね」
と、手にレジ袋を提げた奈緒子が、興味深げにのぞき込んできた。
「もう行くの?」
「読んでからでいいよ。わたしとワチコちゃんは、外で待ってるから」
そう言って、奈緒子はワチコを連れ立ってコンビニを出て行った。
「チャーさ、それホントに面白いの?」
「う、うん。直人も読んだほうがいいよ」
「いいよ、おれは。だって長いんだもん。十巻で買うのやめたし。いま何巻だっけ?」
「三十二巻」
「長いって」
直人は笑い、雑誌を棚に戻して、飲み物を物色しに行ってしまった。
『妖怪博士 目羅博士』を読み終え、駄菓子をいくつか買って、外で待つ奈緒子たちに合流すると、ベンチに座って総菜パンを頬張っていた奈緒子が、少し横へとずれて座るよう目顔で促した。
「面白かった?」
「うん」
「わたし、ヤタマルがいちばん好きなんだよね」
「へえ、そうなんだ。でもヤタマルってすごい悪い奴だよ」
「分かってないなあ、そういうのは、ぜんぶミスターヌラリに命令されてやってるんだよ。ほら、ヤタマルは子どもの頃にミスターヌラリに拾われたんだから、親みたいなもんじゃん。だからミスターヌラリのためなら悪いことだってするし、ミスターヌラリのホントの子どもの目羅博士に嫉妬してるんだよ、きっと」
「そうかあ、そういう風に考えたことなかったなあ」
「チャーは、だれが好きなの?」
「え、えっとぼくは狸のダンザブロウかな。いつもはギャグキャラなのに戦いになったらメチャクチャ強いじゃん。目羅博士の最高の相棒だよ」
「ダンザブロウもいいよね。チャーってば、分かってるじゃん」
マンガ談義に花を咲かせていると、缶コーラを片手に直人が出てきた。
「暑いなあ、こういうとき、コーラって最高だよな」
「お茶がいいに決まってるじゃん、コドモだな、直人は」
ワチコが皮肉を直人にぶつけて立ち上がった。
「ナオちゃん、これからどうする?」
「べつに行きたいところとかないよ、わたしは」
まだ昼を少し過ぎたばかりだというの、にもうやることがなくなってしまった。
夏休みの終盤はそういうものなのかもしれない。
「じゃあさ、病院の地下室にでも行ってみる?」
直人が三人を見渡して、笑いながら言った。
◆◆◆
前に《バラバラ女の実験》のときに、一度だけ近寄った地下室。
前に来たときとおなじで、階段を下りるごとに空気が冷たくなっていく。
ジャンケンで負けて、列の先頭にされた慎吾は、ツバを飲み込んでそのドアを開けた。
「……やっぱ暗いね」
うしろから、奈緒子の声が聞こえる。
振り向くこともせず、慎吾はそこへ足を踏み入れた。
暗い。怖い。冷たい。
昼だとは思えなかった。
「ホントに行くの?」
「いいから行けよ」
強がる声とは裏腹に、直人の声も緊張に震えていた。
それだけの怖さがここにはある。それに前に来たときとはちがって、みんなの頭の片隅には、血塗れナースの存在がわずかながらにあるのだ。
一歩、また一歩と暗い廊下を進むと、その先に白い塗料がまばらにはげ落ちたドアがあった。
掛けられたプレートの文字がかすれて《尾》の文字しか読めない。
慎吾は意を決してそれを押し開けた。
ギイッと音を立てながらゆっくりとドアが開く。
室内は真っ暗で、なにも見えなかった。
直人に手渡された懐中電灯のスイッチを入れると、赤黄色い光の輪の中に、灰色の事務机が照らし出された。
「これしかねえのかな?」
饐えたニオイのする冷たい室内に入り、恐る恐る机のもとへ歩み寄ると、机の上には、カルテらしき紙束と三本のボールペン、それに誰かが悪ふざけで置いていったのだろう、四肢をバラバラにされた服のない着せ替え人形が転がっていた。
作り物の笑みを浮かべる人形の左目に、深々とカッターナイフの刃が突き刺さっている。
「オザキがやったのかな?」
「誰かのイタズラでしょ」
直人と奈緒子の会話を背に聞きながら机の引き出しを開けると、そこにもカルテがあり、表紙には赤いマジックで《チマミレナースノヒミツ♀》と書かれていた。
「これもイタズラかな?」
誰とはなしに独りごち、慎吾はそれをゆっくりと開いた。
――イマ、オマエノウシロニタッテイルゾ WXY
乱暴に書かれた赤い文字。
その滑稽さを鼻で笑い、横に並んだみんなに見せた。
「なんだよコレ、バッカみてえ」
と、直人が笑い、
「そんな簡単に血塗れナースは出てこないでしょ」
と、奈緒子が笑い、
「出たら、あたしがぶん殴ってやるよ」
と、ワチコが笑った。
笑う三人を見て緊張の糸がゆるみかけた慎吾は、はたと、まだ誰もうしろを振り向いていないことに気づいた。
「……ねえ、直人さ、先にうしろを振り向いてくれない?」
「はあ? なんでおれが?」
「怖いの?」
「怖くねえよ」
そのとき、背後で、カチャリとナニカが音を立てた。
四人とも、凍りついていた。
「……血塗れナース、かな?」
「やめてよナオちゃん」
「チャー、うしろ見ろよ」
「で、できないよ」
背後から、カチャカチャという不気味な足音と荒い息づかいが近づいてくる。
それでも、誰も動けなかった。
「キャアアア!」
奈緒子が金切り声を上げ、四人は何が何やら分からぬうちに、部屋を飛び出していた。
階段を駆け上り、息を切らせながら心臓の爆音を聞いていると、奈緒子が、
「ナニカが、足を……」
と、肩を震わせた。
また地下室に戻る勇気なんてあるはずもなく、ドアの先に広がる四角く切り取られた暗闇を見ていると、そこからまたカチャカチャという足音が聞こえてきた。
「ねえ、ねえ、ねえ、ナニカ来るよ」
「デブ、見てこいよ」
「む、無理だよ、直人が行ってよ」
「おれは絶対イヤだ」
固唾を飲んで、暗闇に閉ざされた廊下を見ていると、そこからタローが呑気に顔を出した。
「タ、タロー、だ」
慎吾の素っ頓狂な声を皮切りに、みんなの笑い声が上がった。
「タローじゃん、奈緒子ってば、ビビりすぎだよ」
「直人君だってビビってたじゃん」
「みんなビビりすぎなんだよ」
「ワチコもね」
左肩をワチコに殴られ、それでも慎吾は笑い続けた。
◆◆◆
それから、結局ほかに行くところもなくなった四人は207号室に戻り、いつものようにそれぞれに時間を潰していた。
四人で集まるのが最後だからといって、なにかが起こるはずもないのだ。
だがそれでいいのかもしれない。
平和な日常。
なにも起こらずに、このままずっと四人で笑いあえれば、他になんにもいらないのだ。
ゆっくりと時間が過ぎて、もうすぐ五時になろうとしていた。
「じゃあ、おれもう帰るから」
直人がマットから立ち上がり、尻についた埃を払う。
「あたしも帰る」
それにワチコが応えた。
「奈緒子とチャーは、どうすんの?」
「言ったでしょ、わたしは今日もここに泊まるって」
「そうだった。それで、明日もワチコの家で風呂に入る気なのか?」
「どうだろう、分からない。ワチコちゃん、いい?」
「うん、あたしはいいけど、家にも帰ったほうがいいよ」
「どうせ明日で最後だから帰るよ。あーあ、もう夏休みも終わっちゃうねえ」
奈緒子の言葉が、夏の終わりを告げているようだった。
「ぼく、ホントに明日は来ちゃダメなの?」
「デブはダメだよ。家にいたほうがいいって」
「でも家にいてもさ、大丈夫だとは言えないよな」
「ちょっと、直人君ってば、へんなこと言わないでよ」
「ハハハ、まあ明日は家で宿題でもしてろよ」
「うん、分かった」
「ああ、それから今日さ、これから雨が降るよ」
ワチコが足の古傷を掻いた。
「足が痛いの?」
それを奈緒子が心配そうに見つめる。
「うん」
「なんだよ、どういうこと?」
食いつく直人に面倒くさそうに一つため息を吐いたワチコが、
「足が痛くなるんだよ、雨の前に」
と、ぶっきぶらぼうに言った。
「面白いなあ、それ」
笑う直人の肩を殴るワチコ。
それがおかしく、てみんなで笑った。
そして直人とワチコが帰り、二人きりになった。
ベッドでくつろぐ奈緒子を見ていると、もう夏休みも終わってしまうという寂しさが、ふと胸に芽生えた。
「チャー、楽しかった?」
「え?」
「今日さ、楽しかった?」
「う、うん」
「普通の日だったね」
「うん。でもそれがいちばん良いよ」
「そうだね。二学期になってもさ、こういう普通の日が続けばいいね」
「……大丈夫だよ。突然なにかが起こるわけないよ。ほら、目羅博士も言ってたでしょ、『この世に前触れのない事件はない。全ては偶然の積み重ねで起きる必然だ』って」
「……うん、そうだよね」
ベッドに横になり、気だるそうにため息を吐いて、奈緒子が目を閉じた。
その顔に見惚れながら、慎吾は大きなクシャミをした。
「大丈夫?」
驚いて目を開いた奈緒子と、視線がぶつかる。
「う、うん」
「もう帰ったほうがいいんじゃない? また風邪ひいたらイヤでしょ」
「うん、じゃあ帰ろうかな」
「……明日、死んだりしないでよ」
奈緒子が、ポツリと呟いた。
「バ、バカだなあ、奈緒子。死なないよ、ただの風邪だもん」
「……うん、でも、気をつけてね」
奈緒子が、微笑んだ。
それが、なぜかとても遠くに感じた。
それを、頭から振り払い、精一杯の笑顔で別れを告げて慎吾は廃病院を後にした。
そう、すべては偶然の積み重ねで起きる必然なのだ。
なにかが、急に起きるわけないんだ




