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バラバラ女  作者: ノコギリマン
バラバラ女
34/42

33

 八月二十八日。


 まだワチコと直人は来ていない。


「ふたりは、今日も来ないのかな?」


 おなじことを考えていたらしい奈緒子が呟いた。


「うーん、どうだろうね」

「セト君の家には行かないの?」

「ひとりじゃいけないよ」

「ついてってあげようか?」

「い、いいよ。奈緒子とセト君は関係ないでしょ、悪いよ」


 同伴を拒否された奈緒子が、心なしむくれて天井を見上げる。


 マットに座る慎吾からは、その全身がつぶさに見てとれた。

 そうやってベッドに寝転がる奈緒子を見つめていると、少しだけヘンな気持ちになる。


 それをごまかすよう咳払いをして、下方に目をやると、横倒しのままの紙袋が見えた。


「ねえ」

「なに?」

「きのう脅かした人たちさ、大丈夫だったかな?」

「大丈夫でしょ。それに、わたしたちの秘密基地に勝手に入ってきたんだから、あれくらいのことをされてもしょうがないよ」

「う、うん」

「あ、昨日さ、チャーが見た、あの赤いナニカってなんだったんだろうって考えてたんだけど、やっぱりアレは『血塗れナース』だったんじゃないかな、て思うの」

「そんなワケないじゃん」

「でもさ、都市伝説って、信じてる人が増えると現実世界にホントに現れるんでしょ?」

「それは、ミオカさんが言ってただけだよ」

「でもそれがホントだったらさ、あのときに、なんで血塗れナースが出てきたのかの説明がつくんだよね」

「へえ、どんな?」

「だからさ、あの時ここにいた人たちって、ぜんぶで五人でしょ。その人たち、わたしたちのイタズラのせいで、ここにホントに『血塗れナース』がいるんだって、心の底から信じたんだと思うの」

「だろうね」

「その信じる力が病院を包み込んだんだよ、きっとあの時」

「でも信じてる人って言っても、たった五人だよ。少なすぎるよ」

「でも都市伝説を聞いて『いるのかもしれない』ってちょっとだけ信じてる人が、もし百人いたとしてさ、それと『心の底からいる』って信じた五人の心の力って、どっちが強いのかな。わたしは心から信じてる人がいれば、人数は少なくてもいいんじゃないかなって思うけど」

「人数じゃなくて、一人一人がどのくらい信じてるかってこと?」

「そうそう。それにわたしも信じてるしね」

「でも奈緒子は、ここではじめて会ったときは、『血塗れナース』なんかべつに信じてないって言ってたよね、たしか」

「まあ、あれから色々あったからね」


 その言葉に、今まで行った都市伝説の場所を思い出した慎吾は、UFOや、大きなネズミや、たそがれ坂の下で涙をこぼした奈緒子の横顔やらを、頭に浮かべた。


「じゃあ、これから夜は、あんまりここに来ないほうがいいかもね」

「でも、会ってみたいけどなあ」


 無邪気に笑う奈緒子が、少し怖かった。


「だれに会ってみたいんだ?」


 入り口から声がして、そこを見やるとワチコが立っていた。


「あ、来たんだ」


 奈緒子が座り直す。

 そのとなりに座ったワチコが、ふたたび、


「ねえ、誰に?」


 と、奈緒子にたずねた。


「うん、血塗れナースに」

「いないよ、血塗れナースなんて。ナオちゃんて、たまにバカみたいなこと言うよな」

「でもそんなこと言ったら、ワチコちゃんが『失恋大樹』のことを信じてるのはどうなの?」

「アレはちがうよ。アレは、ホントだから」

 奈緒子の反論に困り顔を作るワチコに、ふと正次の影が重なった。


「ワチコ、知ってる? セト君がもうすぐ引っ越しちゃうんだって」

「え、あ、そうなの?」


 さらに戸惑うワチコに、「一緒に会いに行こうよ」と言っていいものかどうか逡巡(しゅんじゅん)してそのとなりを見ると、奈緒子が頷いて、


「二人で行ってくれば?」


 と、助け船を出してくれた。


「え、いま?」

「そう」

「でもだって……迷惑じゃないかな?」

「そ、そうかもしれないけど、ワチコとぼくはセト君と仲良かったから、会っておいたほうがいいと思うんだ」

「そうかな?」

「そうだよ。最後に友だちに会っておきたいと思うと思うよ、普通は」


 二人の説得を聞いても、まだ決心がつかないといった表情のワチコが、不意に立ち上がり、窓から顔を出して、空を見上げた。


「……じゃあ、行くか」

「う、うん」


 曇り空を見て、ワチコがなにを思ったのかは分からない。

 二人の背を押してくれた奈緒子が、哀しそうにその背を見つめていた。

 慎吾には、それがなぜなのかも分からなかった。


◆◆◆


 昔はよくとおった、正次の家へと続く道。

 そこをワチコと連れだって歩いていると、妙な気持ちになる。


 そのモヤモヤがなんなのか分からない慎吾は、


「でも、やっぱり会いに行っても大丈夫なのかな?」


 と、何気なく不安を漏らした。


 となりのワチコがため息を吐いて、


「ひとりなら行けない。デブが帰るなら、あたしも帰るよ」


 と、おなじように心細さを吐露した。


 それから無言のうちに歩き、気づいたときには、すぐそこに正次の家が見えるところまで来ていた。ゆっくりとうねる曇天までが、その一帯を重い悲しみで押さえつけているように見える。


 玄関の前に立ってチャイムを見つめながら深呼吸をし、


「じゃあ、押すよ」


 と、となりで同様に深呼吸をしているワチコに言って、汗で湿る指先でゆっくりと押した。


 思った以上に響く、ジーッという音がここにまで聞こえる。


 ノドがカラカラだった。言いようのない不安と苦痛に苛まれながら、目を落として足元を横切っていくアリの行列をボウッと眺めていると、パタパタ、というスリッパの音が近づいてきて、ドアの鍵がガチャリと開く音が聞こえた。


 さっきから色んな音がいちいち大きい。

 となりのワチコの、鼻をすする音すら、鼓膜に痛いほど響いていた。


 ドアがゆっくりと開き、正次のお母さんがそっと顔を出した。


「……慎吾君、どうしたの?」


 しばらく作ったことがなかったのか、その顔に浮き出た笑みが引きつっているようにも見えた。目の下のクマが、ウソのように黒い。


「あ、あの、セ……正次君に会いに来ました」

「正次に?」


 一瞬にして正次のお母さんの顔に陰りが差し、暗に拒絶されているように見えた。


「ぼく、聞いたんですけど、その、もうすぐ引っ越しちゃうんですか?」

「そうね。明後日には」

「だ、だから会いに来ました。友だちだから」

「そう……ありがとう。でもあの子、だれとも会いたがらないのよ」

「部屋のドアの前まででいいんです。マサツグくんが会いたくないんなら、すぐに帰ります」


 そう言ったワチコに視線を移して、怪訝(けげん)な顔を作る正次のお母さん。


「このコは、あの、学校で正次君と仲の良かった、高島さんって言います」

「そう……」


 しばらく押し黙っていた正次のお母さんが、スッと体をずらして中へ入るように言った。


 階段を上がってすぐのところにある、昔はよく遊びに来ていた正次の部屋が、今はアメリカよりも遠くに感じ、階段がギロチン台への十三階段のように見えた。


 だけど、と慎吾は思う。

 だけど、ここまで来て帰るワケにはいかない、と慎吾は思う。


「正次、慎吾君と高島さんが会いに来てくれたわよ」


 部屋のドアを優しくノックした正次のお母さんが、目顔で二人をドアの前まで来るよう促し、「下にいるから」と、か細く言って、そこを離れた。


 ドアの前に立つと、なにを言っていいものか分からなかった。


「マサツグ……」


 さきに口を開いたのは、ワチコだった。

 それでもドアの向こうからは、なにも聞こえない。


「……元気でね」


 ワチコの声が、少し震えているようだった。


 その時、ドアの向こうから、ギッ、という床を踏み鳴らす音が漏れ聞こえた。

 声は出してくれないけれど、たしかに正次はワチコの言葉を聞いてくれている。


「……ごめんな…なにも…してあげられなくて」


 途切れ途切れのワチコの言葉が、胸をギュッと締めつける。

「……もう、これが最後だから、ぜんぶ言うよ。あたしさ……四月に……『失恋大樹』にマサツグの名前を書きに行ったことがあるんだ」


 初耳の告白に、口を挟むことはできなかった。


「……書いたの?」


 不意にドア越しに聞こえた、久しぶりの正次の声は、かつての快活な少年のそれとおなじものだとは思えないほど、悲しみにうち沈んでいた。


「……書いていないよ。書きに行ったとき、もう誰かがマサツグの名前を書いたあとだったんだ。だから…あたしは……」


 涙に邪魔されて、ワチコがそのさきを続けることは、もうできそうもなかった。


「……ワチコは関係ないよ。だから謝らないでよ」

「うん…うん……」


 すすり泣くワチコに、直人から借りっぱなしのポケットティッシュを渡すことしかできなかった。


「……ねえ、セト君、なにがあったの?」

「……言えないし、言いたくないから、言わない」

「う、うん、そうだよね、ごめん……」

「……」

「…げ、元気でね」

「……無理だよ、たぶん」

「うん、でも、ぼくにはそれしか言えないから」

「……分かってる……ありがとう……ふたりも……元気でね」

「…うん」


 それっきり、正次の声は聞こえなかった。

 ドア越しに、鼻をすする音だけが聞こえていた。


 慎吾は、なぜだか泣けなかった。


◆◆◆


 正次の家をあとにして、廃病院へと続くフェンス迷路を歩きながら、そっととなりのワチコを見やった。正次の家をあとにしてから、ここまでずっと押し黙っている。うつむいて、その足取りも少し重いように感じる。


 その歩調に合わせて、ゆっくりと歩いているうちに、「ホントにセト君に会いに行ってよかったのだろうか?」と唐突な不安に襲われた。正次の心の痛みを(えぐ)り、ワチコの隠していた秘密を(さら)けださせ、それらに「元気でね」という白々しい言葉だけでケリをつけてしまったんじゃないだろうか?


「なあ」


 急に立ち止まり、ワチコが顔を上げた。

 その瞳が、赤く腫れ上がっている。


「な、なに?」

「これでよかったんだよな?」

「う、うん、分からない……けど、たぶん、よかったんだと思う」

「そうか、そうだよな」


 断言なんかできなかった。だけど、やっぱりこれでよかったのだろう。


 そう、何度も何度も自分に言い聞かせていた。


◆◆◆


 廃病院にやっとのことで着き、奈緒子になんと報告すればいいのか考えあぐねながら207号室へ入ると、いつの間に来たのか、そこに直人もいて、奈緒子の「血塗れナースはいるかもしれない!」という話を小バカにした笑みを浮かべながら聞いていた。


「今日は来たんだね」

「あ、お帰り」


 二人の気持ちを知ってか知らずか呑気に言った直人が、すぐさま慎吾に、


「キャッチボールやろうぜ」


 と言って、笑った。

 それに少しムッと来たが、それをとがめることもせずに微笑む、ベッドの上の奈緒子に気づき、ふとそれが、実は直人の優しさなのではないかと感じた。


「う、うん」

「よし、じゃあ行こうぜ」


 グローブを慎吾に放り投げて、直人がそのまま207号室を出ていった。


「久しぶりだな、キャッチボール」

「そうだね」


 何気ない会話を交わしながらキャッチボールを続けているうちに、いつの間にか上達しているのに気づいた。

 十回中十回の100%。

 面白いくらいに直人のグローブに収まる白球が、パアンと、何度も音を立てる。


「家で練習でもしてたのか?」

「ううん、してないよ。なんでだろう?」

「おれに聞かれても分かんねえよ」

「アハハ、そうだね」

「成長したんじゃないか?」


 成長、したのだろうか? 


 分からない。だけど、そんな気もする。


「まあ、でもこれでもうキャッチボールは大丈夫だな」

「うん」


 力いっぱい放り投げたボールが、直人のグローブに気持ちのいい音を立てて収まった。

 笑う直人を見て、ふと正次が脳裡を過ぎり、正次とはキャッチボールなんかしなかったな、となんとなく寂しい気持ちになった。


 ついさっきのことなのに、正次の部屋のドアの木目がもうおぼろげになっている。そういうものなのだろうか?

 あれだけ気にしてあれだけ緊張してあれだけ悲しくなったのに、かつての親友の顔すらもおぼろげになっているなんて。


 もしかしたら薄情者なのかもしれない。


 その不安を打ち明ける勇気もなく、奈緒子のことを思い、ワチコのことを考え、目の前の直人を見ているうちに、気づくと世界が滲んで見えていた。


「大丈夫か?」


 目の前で、滲む水彩画みたいな直人が、心配そうにしている。


 頬に感じる冷たいものを左手で拭って見ると、涙のしずくが陽光にきらめいていた。


「うん……大丈夫だよ…うん…でも、あれ…なんでだろう…止まらないんだけど」


 頬をつたう涙を、止めることができなかった。

 拭っても拭っても、尽きることなくあふれ出してくる。

 なんで泣いているのか、自分でも分からなかった。

 悲しい気分じゃない。

 それなのに、止まらない。

 夏休みに入って、もう何度目の涙だろう? 


 そのことを思い出していると、なぜだか可笑しくなってきて、気づくと慎吾は泣きながら腹を抱えて笑っていた。


 心配する直人に促されて鼻を啜りながら207号室に戻ると、奈緒子の胸に顔を埋めてワチコが泣いていた。


 たぶんワチコがあんなに『失恋大樹』にこだわっていたのは、自身も正次の名前を書こうとしていたからなのだろう。

 結局ワチコが名前を書くことはなかったけれど、それでもおなじ罪の十字架を背負い続けていたのだ。


 正次が学校に来なくなって悲しいだとか寂しいだとかいう、慎吾の憂鬱なんて、ワチコの胸に渦巻く苦悩に比べれば、ヘリウムガスよりも軽いものだったのだ。


「大丈夫?」


 鼻をすする慎吾を、心配そうに見つめる奈緒子。


 それに曖昧な笑顔で応え、


「ごめん、ちょっと屋上に行ってくる」


 と言って、慎吾は207号室をあとにした。


◆◆◆


 屋上に着いてアルミ板のドアを開けると、夏だというのに冷たすぎる風が、切ったばかりのオシャレな髪を(あざけ)るようにクシャクシャにしてしまった。外へ出てゆっくりと歩き出すと、中央に青いバケツがあり、その中を見ると、何本ものカラフルな花火の残骸が、ほとんど蒸発しかかった黒い水に、その先を浸からせていた。


「花火、一緒にできなかったね」


 振り向くと、吹きつける風に長い黒髪をなびかせて、奈緒子が佇んでいた。


「うん」

「やりたかった?」

「うん……まあね」

「こっち来て」


 跳ねるように柵の手前まで走った奈緒子が、なにを思ったのか、それを飛び越えた。


「ちょ、ちょっと奈緒子、危ないよ」

「平気だって。チャーも来なよ」


 そのまま幅のそう広くない(ふち)に座り、足をブラブラとさせながら手招きする奈緒子。


「……分かったよ」


 慎吾も恐る恐る柵を乗り越えて、奈緒子のとなりに腰を下ろした。


「怖い?」

「怖くないよ」

「でもここから下を見てみて。意外と高いんだよ。落ちたら死んじゃうかも」

「や、やめてよそういうこと言うの……」


 たしかに高い。雑草だらけのアスファルトの路面が、死の臭いを放っていた。


「……セト君のこと、もう大丈夫?」

「……大丈夫じゃないよ。ずっと気になってたし、それにさっき会いに行ったときも、ぼくが思ってたより、なんていうか、すごくあっさりお別れを言っちゃったんだ。もっとホントはいっぱい話したかったのに、なんにも言えなかった。それをこれからずっと、あれで良かったのかな? って考えちゃうと思うんだ」

「しょうがないよ、それは。でも会いに行かなかったら、もっともっと後悔することになってたと思うな。これで良かったんだよ、きっと」

「……そうだね」


 奈緒子の言うとおりだ。

 これからさき、何度も正次のことを思い出しては、そのたびに胸が痛くなるのだろう。


「今日の夜は、《バラバラ女のイタズラ》はやめよっか?」

「う、うん。明日は?」

「明日もいいかなあ。でも夜はここに来てほしいんだけど」

「なんで? なんかやるの?」

「うん、ちょっとね」

「なに?」


 奈緒子はそれに答えず、意味ありげな笑みを浮かべながら、柵を掴んで立ち上がった。


「チャーも立って」

「う、うん」


 へっぴり腰で立ち上がると、遠くに町が一望できた。


「知らなかったでしょ?」

「うん、なんか、すごいね」


 ここから見える町のすべてがちっぽけで、慎吾はもっとちっぽけだった。


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