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また二人ぼっちか、と慎吾は胸のなかで独りごちた。
ベッドに寝転がり、分厚い文庫本を読んでいる奈緒子。
その表紙をのぞき見ると、『ドグラ・マグラ』という不可思議なタイトルが書かれていた。
「それ、面白いの?」
「え?」
「その、『ドグラ・マグラ』っていう本」
「うーん、よく意味が分からない。五月くらいから読んでるんだど、文章も内容も難しくてさっぱり。読み終わる自信はないかな」
「じゃあ、なんで読んでるの?」
「なんかね、好きなの」
「へえ」
「読み終わったら、チャーにも貸してあげる」
「あ、ありがとう」
話を振ったのはいいが、そのさきが続かない。
窓から外を見ると、傾きかけた陽が、中庭をすっかり茜色に染め上げていた。
直人やワチコは、今日は来ないのだろう。昨日の二人の言葉が本当なら、もう宿題が終わるまでは来られそうもない。夜だけ、と言っていたのに、どうやら二人は相当の宿題をため込んでいたようだ。
それが少しおかしくて、慎吾は小さく笑った。
「ねえ、今日の夜も来れるよね?」
「う、うん」
《バラバラ女のイタズラ》を、今日も奈緒子はやる気満々らしい。
昨夜もそれにつきあわされていた慎吾は、あのビルの隙間で、ひとり息を潜める恐怖を思い出して、あまり乗り気にはなれなかった。
それでも、と慎吾は思う。
それでも奈緒子が望むのならば一緒にやらなければいけない、と慎吾は思う。
「ねえ、『バラバラ女』って、ちゃんと流行るかな?」
「流行るよ」
奈緒子が『ドグラ・マグラ』を閉じて、半身を起こした。
ぢっと見つめてくるその目に、どういった感情が込められているのかは分からなかった。
「だってさ、みんながちゃんと意見を出しあって考えた都市伝説だよ。わたしね、思うんだけど、ああいう話ってさ、オトナが考えるよりも、コドモが考えたほうが怖いと思うんだ。コドモが怖がる話は、コドモにしか作れないよ」
「そう、なのかな」
「そうだよ、絶対」
その自信がどこから来るものなかは分からなかったが、その妙に説得力のある口ぶりに同意せざるをえなかった。
「そ、そういえばさ、ミオカさんのこと話したでしょ」
「うん」
「あのときさ、ミオカさんとちょっとしゃべってたんだけど、そのときに都市伝説の話とかもしたんだ。ミオカさんは、『都市伝説ってのはその話を信じる人が多くなると、現実の世界に本当に現れる』とか言ってたんだけど、どう思う?」
「どうだろうね。でもさ、それが本当だったら楽しいよね。『バラバラ女』もこれからずっとみんなが信じてたら、現実の世界に生まれるってことでしょ?」
「うん、まあね。でもぼくは信じられないよ。そんなこと、起こるわけないじゃん」
「それをたしかめる意味でも、『バラバラ女』をこの町に溶かそうよ。いつか現実のものになるんだったら、それをチャーは見届けて」
奈緒子は最近、《溶かす》という言葉をよく使う。
『バラバラ女』をこの町に溶かし、そしてその都市伝説がこの町の一部になるのを望んでいるのだ。
きっと、それまでこの町に自分がいられないのを予感しているのだろう。
「うん、分かった」
「……」
「……」
やっぱり、話が続かない。
なんなんだ、一体?
こんなとき直人やワチコがいてくれればとても助かるのだが、それも叶わない願いだった。
「……あのさ、チャーの名前を失恋大樹に書き込んだ人って、だれなのかな?」
「そんなの、ぼくが考えてもしょうがないよ」
「なんで?」
「だってさ、ぼくより頭のいい三人が考えても分からなかったんでしょ? ぼくに分かるわけないじゃん」
「でもほっといたらなにかが起こるかもしれないんでしょ?」
「うん、でも太一に殴られたのがそうだったかもしれないし、お父さんに叩かれたのがそうだったのかもしれないし、もしかしたら夏風邪をひいたのがそうだったのかもしれないでしょ。たぶんね、それくらいのことが続くんなら、十五日目にやってくるっていう、いちばん大きな《罰》ってのも、大したことないんじゃないかな? きっと、ぼくの名前を書いたヤツは、そんなにぼくのことを憎んでいないんじゃないかなって思うんだけど」
「……それは、ちがうと思うな」
奈緒子の言葉が刺すように鼓膜を揺らした。
「え?」
「だってさ、直人君が言ってたけど、チャーの名前を書いた人と、その、セト君の名前を書いた人って、たぶん同じ人なんでしょ?」
「う、うん」
「っていうことはさ、その人はセト君への憎しみよりも、もっとずっと深い憎しみをチャーに対して持ってることになるじゃん」
「え? なんで?」
「だってさ、セト君はあの失恋大樹に名前が書かれた十五日目になにかがあって、学校に来れなくなったんでしょ。それが本当に失恋大樹の罰だったのか、ただの偶然なのかは分からないけど、犯人はきっと、それが失恋大樹のお陰だと思うよね?」
「うん」
「っていうことはさ、逆に言えば、失恋大樹に名前を書き込んだら、そのくらいのことが起きてしまうんだってことも分かってるってことじゃん。それなのにチャーの名前を書き込んだってことは、おんなじことが起きてもいいや、って思ってるってことになるよね。犯人はだからきっと、チャーにすごく深い憎しみを持ってるってことになるでしょ」
吐き気を感じるほどの戦慄で、口の中にイヤな酸っぱさが広がっていた。
「誰に書かれたのか?」ということばかりを考えていて、その犯人が自分にどれほどの憎しみを抱いているのかを考えたことはなかった。名前が書かれたことよりも、そこまでの憎しみを自分に抱いている人間がいるということに気づかされたことによる、底が見えないほどの恐怖。
「で、でも今日はもう二十七日だよ。書かれたのが十七日だから、三十一日までに、なにかが起こるわけでしょ。あとたった四日だよ。大丈夫だよ、きっと」
「うん。わたしもね、本当はそう思ってるんだ。やっぱり樹に名前を書いただけで人が不幸になるなんて、信じられないもん。それにあと四日だもんね。そんなとつぜん、なにかが起こるわけないよ」
奈緒子の言葉の裏には、慎吾への気遣いがあるのだろう。
それを感じながら、話の中に出てきた正次のことに思いを馳せた。
「……あの、さ……ちょっと相談なんだけど」
「なに?」
「セト君がもうすぐ引っ越しちゃうって聞いたんだけど、やっぱり会いに行ったほうがいいのかな?」
「うーん、どうかなあ。チャーとワチコちゃんは、セト君と仲が良かったんでしょ?」
「う、うん」
「じゃあ、会いに行ったほうがいいかもね」
「やっぱり、そうかな?」
「うん。だってやっぱり、引っ越す前に、仲の良かった友だちとは会っておきたいじゃん。わたしが引っ越したときは、誰も来なかったから、寂しかったもん」
奈緒子が哀しみを隠して微笑む。
それが、痛い。
奈緒子の言うとおり、正次に会いに行くべきなんだろう。そうすることしかできないのならばそうすべきだ。だけど、一人で行く勇気はわきそうもなかった。
明日ワチコが来たら、一緒についてきてもらおう、と慎吾は思った。
それからさらにいくつかの他愛ない話をしてから、夜にまた会おうと約束をして、二人は解散した。
茜色に染まる帰り道を歩きながら、失恋大樹に書かれた名前の謎や、都市伝説の成り立ち方についてだとかを少し考えてみたけれど、そんなことよりもやはりさっきから鎌首をもたげる不安は、奈緒子と正次のことだった。
いちばんの友だちだった正次と、いちばん好きな奈緒子。
その二人が不幸で、それをどうしてやることもできない自分のふがいなさに嫌気がさす。
あと今日も含めて四日しかない夏休みのうちに、できればそんな自分を変えたかった。
夏休みが終われば、きっと奈緒子はイジメられるだろう。
そんなことから奈緒子を守るためには、強くならなければいけない。
自信はもちろん無いけれど、正次に会えば背中を押してもらえるかもしれない。
決意を新たにした慎吾は、走りたくなって、走り出していた。




