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バラバラ女  作者: ノコギリマン
バラバラ女
3/42

 その日も寝坊した慎吾は通学路を無我夢中で走っていた。


 お父さんとお母さんは早くから仕事に出かけるから、朝、慎吾を起こしてくれるひとは誰もいない。毎朝のように、我が子が無我夢中で学校へと急いでいるのを両親は知らない。


 しかし去年までそんなことはなく、まいあさ決まった時間に起きて、悠々と学校に行っていたのだ。


 なのに、今年に入って、もうこれで四度目か五度目の寝坊。

 原因は分かっている。

 夜、眠れないのだ。


 九時過ぎには床に就くというのに、悶々(もんもん)と色んなことを考えて眠れなくなる。


 来年はもう中学生だ。両親や町山先生の言う、“将来”というものに思いを馳せると、たまらなく不安になった。「将来、自分は何になりたいのか?」と自問自答すればするほど、ワケが分からなくなる。そしてその不毛なる思索の果てに、「このまま何者にもなれずにオトナになってしまうと一体どうなってしまうのか?」という、とてつもない恐怖に心を苛まれてしまう。


 だから眠れない。


 クラスのみんなが同じ不安を感じていないのが、不思議でたまらなかった。

 次郎なんかはサッカーと女子の視線ばかりが気になるようだし、学なんかはテレビゲームやマンガのことで頭がいっぱい。純平はもうすでに《将来設計》ができているらしく、毎日、塾、塾、塾。そして直人に至ってはもはや何を考えているのかすら分からない。


 自分だけが将来のことを思い悩み、悩んで悩んで気がついたらみんなに置いてけぼりを喰らっちゃうんじゃないかと、ときどき思う。その悩みとさえ言えない悩みが、四六時中頭のまわりをグルグル回って授業に集中することさえままならなかった。


 それに加えて、山下奈緒子だ。

 彼女が今日もとなりにいるのかと思うと、嬉しさの反面どうしようもないほどの憂鬱(ゆううつ)を感じる。


 いっそのこと今日は学校をサボってしまおうかとも考えたが、そんなワルいことができるほどの度胸がないのは、痛いくらいに分かっていた。


◆◆◆


「チャー、ギリギリセーフ」


 お決まりの台詞を吐いて笑う直人を無視して、自分の席へ向かうと、


「おはよう、チャー」


 と、紀子にいつものように微笑みかけられた。


 慎吾は、もちろんのこと、目を合わせることもできずに挨拶(あいさつ)を返した。


 紀子は、成績もよくてスポーツ万能、性格も容姿も申し分のない学級委員で、全身コンプレックスの慎吾が、気軽に言葉を交わせるような相手ではないのだ。

 実際、紀子のことが好きなヤツはたくさんいる。

 下手に親しげにしゃべって無闇(むやみ)にそんな連中を刺激するわけにはいかない。

 だから挨拶ですら本当はしてほしくないのに、紀子はそれを知ってか知らずか、まいあさ声をかけてくる。

 「もうぼくに挨拶はしないで」と言えたらどんなにか楽か。だがそんなことを紀子に言える度胸があるのならば、そもそも挨拶をされることなんて、気にもかけないのだろう。


 席に着くと、うしろの学が、


「昨日の『妖怪博士 目羅博士』読んだか?」


 と、意気揚々と話しかけてきた。


「うん、読んだよ」

「昨日のは面白かったよな、まさか目羅博士がミスターヌラリの子どもだったなんて思わなかった」

「そうだよね、ぼくもビックリしちゃったよ。でもあの展開は、かなり強引だよね。だってさ、目羅博士が妖怪だったら、今までの戦いがなんだったのか分からなくならない?」

「そうかな、おれよく分かんないや」


 学が首をポキポキと鳴らしながらこたえると、慎吾のとなりの席から、クスリと笑い声が聞こえ、見ると、山下奈緒子が声を押し殺して笑っていた。


「えっと、山下さん、『妖怪博士 目羅博士』読んでんの?」


 ここぞとばかりに学が山下奈緒子に話しかけた。


「うん、わたしも読んでる」


 体を慎吾たちの方へ向けて笑う、今日も白いワンピースを着た山下奈緒子からは、よく分からないが、甘やかな香りが漂っていた。それに鼻を心地よくくすぐられながら、「ああ、今日も授業に集中できないな」と、慎吾は思う。


「意外だな、女子で読んでる人がいるなんて」


 わざとらしく驚いた学を見て、山下奈緒子が微笑んだ。


「わたし、ああいう、妖怪とか都市伝説とかに興味あるから。ほら、この時計も目羅博士のなんだよ」


 山下奈緒子が長袖をまくって、淡雪(あわゆき)のように白い肌に巻きつけた腕時計を見せてきた。文字盤に目羅博士がプリントされたその腕時計は、一昨年の夏に限定発売されたヤツで、慎吾も学も、ノドから手が出るほど欲しくて仕方がなかったものだった。


「うわ、すっげ! じゃあ、『妖怪博士 目羅博士』のファンなんだ?」

「うん、でも微妙かな。変なとこあるし」

「変ってなにが?」

「タイトルが」

「ええ、タイトル? よく分かんないや。どこが変なの?」


 矢継(やつ)(ばや)に繰り広げられる二人の会話になかなか入れない慎吾は、答えを言わず、意地悪そうに微笑む山下奈緒子を伏し目がちに見ながら、タイトルの謎について考えを巡らせた。


 あんな、ぼくらと歳の変わらない少年が博士と名乗っていること? いや、そんな設定のことじゃないはずだ。じゃあなんだろう。うーん、分からない。


 チラと横目で学を見やると、眉間(みけん)にいくつものシワを寄せて天井を見上げていた。学よりも先に真相にたどりついて山下奈緒子に感心されたい……でもやっぱり全然わからない。


「どうした? アホみたいな顔して」


 そこに直人がやって来て、学の真剣な顔を見て苦笑した。


「山下さんが、『妖怪博士 目羅博士』のタイトルが変だって言うんだけどさ、よく分かんないんだよ」

「ふうん、お前らあんなくだらないモンまだ読んでんだ」

「く、くだらなくないよ。面白いんだから」


 慎吾が思わず抗弁(こうべん)すると、いつもの人を小バカにしたような顔を作り、


「ああ、そう。でもタイトルの変なとこに気づいてないんだろ?」


 と、直人はこともなげに言った。


「じゃあ、お前は分かんのかよ?」


 言葉に(きゅう)した学が、ヤケクソ気味に直人へたずねた。


「当たり前じゃん。てか、なんで分かんないの? 山下の言うとおり変じゃないか」

「だから、それが何かって」


 学の声をさえぎるように、始業チャイムが鳴り響いた。それとともに教室に入ってきた町山先生に気づき、直人はそそくさと自分の席に戻ってしまった。


「ちぇ、なんだよ。おれやっぱなんかよく分かんないけどアイツ嫌いだ」

「でも、林君だっけ? 林君は気づいてるみたいだね」


 含み笑いを浮かべた山下奈緒子が、机をスッと慎吾のそれにくっつけて、


「教科書見せて」


 と、微笑んだ。


「う、うん」


 急な行動にドギマギとしながら、慎吾は、算数の教科書を机と机のあいだに置いた。山下奈緒子が机の中から取りだした、ピンクのノートの表紙に書かれた《算数》という文字がとてもキレイで、自分のノートに書かれた汚い文字が無性に恥ずかしくなった。


「ね、ねえ、山下さん」

「ん?」

「なにが変なのか教えてよ」

「うん。でもべつに難しいことじゃないし大したことでもないから、聞いたらがっかりするかも」

「いいよ。教えて」

「うん。タイトルのなかに《博士》が二個も入ってるってところ」

「え、それだけ?」

「それだけ」


 ポカンとする慎吾を見て、山下奈緒子が口の()を緩めた。


 そんな些細なことにすら気づけず、それを教えてもらった今でもイマイチよく分かっていない慎吾は、きまりが悪くなって思わずゲップをしてしまった。


「宮瀬君、大丈夫?」


 町山先生が心配そうに声をかけてきた。それがまたどうしようもなく恥ずかしくて、ふたたび、今度はさらに大きなゲップをしてしまい、みんなの笑い声が教室中にドッとわき起こった。


「で、でもさ、その時計ってオトコモンでしょ?」

「うん。でもこれは大切な物だから」


 微笑む山下奈緒子に頬を赤らめた慎吾は、初めておしゃべりできたことと、彼女の笑顔を見られた幸せに、天にも昇るような気持ちになっていた。


◆◆◆


 それからというもの、山下奈緒子のことが気になって気になってしょうがなかった。


 山下奈緒子は、国語算数理科社会、それに音楽と図工において、とても優秀な成績を残した。国語の授業では、彼女の、淀みなく紡がれる春風のような音読にウットリとし、算数の授業では、黒板に書かれてゆく、彼女の容姿そのもののように均整のとれた数式に嘆息し、そのほかの授業でも、彼女の存在に圧倒されない者はいなかった。


 平等主義の町山先生ですら、図工の時間に山下奈緒子が提出した、『犬たち』という、絶妙な構図と、今にも吠え出しそうなほど精緻(せいち)に描かれた五匹の犬の絵を見たときには、思わず「すごい……」と声を漏らしていたし、とにかく山下奈緒子が転校してきてから一ヶ月と経たないうちに、彼女はこの六年一組の生徒のほとんどを虜にしていた。


 例外的に、なにを考えているのか分からない直人、クラス一の変わり者にして《ワチコ》というノリだけでつけられたあだ名を持つ高島(たかしま)佐智子(さちこ)、教科書が友だちで勉強が趣味だと顔に書いてある純平、それに、あくまでも対等な関係を崩さない学級委員の紀子なんかは、山下奈緒子という存在をなんとも思っていない風だったが、それも本当に少数の例外。


 慎吾は、どんな顔なのかも知らない神様に、山下奈緒子のとなりの席という幸運を心の底から感謝していた。


 山下奈緒子から優しく漂う、甘やかな香りは自分しか知らない。そう思うだけで胸が早鐘を打って、暑くもないのに、額には玉のような汗をかき、そのたびに太一や直人にからかわれた。だが不思議なことにそのからかいも気にはならず、それどころか、みんなが知らない山下奈緒子の魅力に気づいている優越感に酔ってさえいた。さらに不思議なことに、今年に入ってからの一番の悩みの種である不眠症がウソのようになくなり、さらにさらに不思議なことに、身長がこの数週間で2センチも伸びていた。


 すべてが順調で世界が輝いて見え、あの山下奈緒子の笑顔を見るたび、クリスマスが一気に百万回来たみたいな喜びが胸一杯に広がり、「恋だ。恋なんだ。これがぼくの初恋なんだ!」と、一日のうちに何度も胸の裡で叫ばすにはいられなかった。


 目羅博士が濡れ女のヌレヨちゃんに恋をした時に言った、「おれは君が何者であってもこの命ある限り君を愛す」という台詞を、もし山下奈緒子に格好良く言えたとしたら、どんなにかステキなことかと思ったりもした。


 幸せだった。


 自分みたいなダメダメな男子のことを、山下奈緒子が好きになってくれるわけがないなんてことは痛いくらいに分かってはいたが、そんなことはどうでもよかった。山下奈緒子が自分を好きかどうかじゃなくて、自分が山下奈緒子に恋をしているということ。それだけが輝かしい事実で、山下奈緒子がとなりで優しく微笑んでいてさえくれれば、ほかに何もいらなかった。


◆◆◆


 だからこそ、


「席替えをします」


 という、町山先生の明るい言葉が、世界崩壊を告げる鐘の音にしか聞こえなかった。


 クラクラとする頭を抱えながら、バカの一つ覚えみたいに「やったー!」と叫ぶ次郎に心をかき乱された慎吾は思わず、


「せ、先生」


 と、そのあとに続ける言葉を考えもせず、町山先生に呼びかけた。


「なに、宮瀬君?」


 めずらしく発言した慎吾に驚きながらも、いつもとおなじ優しい声できく町山先生。


 集まるみんなの視線に胸を締めつけられ、


「うう……」


 と、ノドの奥から漏れ出るつぶれたカエルのような声を恨みながら、慎吾は二の句を継げずにいた。

 とてもじゃないが「席替えなんてイヤだ」なんて言えない。九九すら知らない一年生だって、そんな自分勝手なワガママが通じないなんてことは分かるはずだ。それも理由が「山下奈緒子が隣でなきゃイヤだ」なんだから、なおさら言えるわけがない。


「……トイレ、行ってきてもいいですか?」


 首を引っこ抜いて死んでしまいたかった。あまりにもバカで底抜けにマヌケな言葉。顔が火を噴いてしまうんじゃないかと思うほど、熱くなっていた。久々の自己嫌悪。ただひたすらに恥ずかしい。


「いいわよ。早く戻ってきてね」

「はい」


 行きたくもないのにトイレへと走り、個室に入って、トイレットペーパーをメチャクチャに引きちぎって、そのうちの何枚かを重ね合わせて、思いきり鼻をかんだ。

 ブビーブビーとこだまする、壊れたラッパみたいな音を聞きながら「諦めるな、次もまた山下さんの隣の席を引けばいいだけじゃないか。確率は十五分の一だ」と言い聞かせ、慎吾は背筋をピンと張って教室に戻った。


 そして頭の中で、「意志の力が強ければ、奇跡は自ずとやって来る」という、目羅博士の名台詞を何度も呟きながら、回ってきたくじ引きの箱に手を入れ、エサをねだる猫のように手にまとわりつく一枚の紙片に、全人生を()けた。


 11、とサインペンで汚く書かれた紙片を何度も確認し、勇気を出して、


「山下さん、何番だった?」


 と、何気ない風をよそおって()くと、


「うん、わたしは5だよ。宮瀬君は?」


 こともなげに言って、山下奈緒子が微笑んだ。


 5と聞いた瞬間、もうどうでもよくなってしまった。5番と11番じゃあ全然ちがう。前の方と後ろの方だ。

 となりの席という理由だけで話してくれているであろう山下奈緒子と、これでお別れなんだと思うと、なにもかもがイヤになった。


「ぼくは11だ、です……」

「そう、じゃあちょっと離れちゃうね」

「うん……」

「お前どこになったの?」


 学の問いかけに慎吾は答える気にもならず、無言で移動の準備をはじめた。


 慎吾は窓がわのいちばん前の席で、山下奈緒子は廊下がわから二番目の一番うしろの席。絶望的な距離だ。そしてそこへ移動してさらに頭が痛くなった。うしろの席には、ガリ勉メガネの純平、となりの席には、あまりしゃべったことのない、バレーボール部の桑田吉乃(くわたよしの)

 ぜんぜんいい席じゃない。


 ため息を()いて、山下奈緒子の席を見やると、そのまえの席はワチコで、右どなりは太一、そして左どなりは直人だった。

 ますます近づけやしない。直人も太一も苦手だし、ワチコには近づきたくもなかった。


 こうして、短いバラ色のひとときに、完全なる終止符が打たれたのである。


 絶望に顔をこわばらせながら窓の外に目を走らせると、黒い梅雨雲がとおくで低い雷音を(とどろ)かせていた。


 慎吾は、胸のなかで「また眠れなくなるかもしれない」と独りごち、これから始まる大嫌いな夏を思っては、ため息を吐かずにいられなかった。


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