28
八月二十五日。
慎吾は疲れきっていた――
――五日前、いったん家に戻った慎吾を待ち受けていたのは、鬼の形相をしたお父さんと、いつものようにその横でなにも言わないお母さんだった。
スーパーで奈緒子と一緒にいたのを、近所のオバサンに見られていたらしい。オバサンの家にも、奈緒子と奈緒子のお母さんが訪ねてきていて、そのときの印象的な白いワンピースの少女を覚えていたオバサンは、それをお母さんに告げ口したらしかった。
当然、その話はお父さんの知るところとなり、慎吾が帰ってくる頃には、お湯でも沸かせそうなほどにその怒りは頂点に達していた。
「お前は、まだあの娘と遊んでるのか!」
いきなりの怒鳴り声に慎吾は大きなゲップを一つした。
そしてなにも言えずにうつむく慎吾の頬に、お父さんの大きな平手が炸裂した。脳を揺らすほどの衝撃に朦朧としながらも、この時ばかりは、なにか反論しなければいけない使命感に駆り立てられていた。
「……だ、だって、友だちだもん」
痛む頬をさすりながら抗弁すると、二度目の平手打ちが飛んだ。
「もう二度と、あんな娘と遊ぶんじゃないぞ!」
その大声も、慎吾にとっては十分な凶器だった。
耳をとおり抜けて、脳を、心を、胸を、全身を震え上がらせる。
涙が溢れて目の前がぼやけていた。夏だというのに震えてしまってどうしようもなかった。
だけど、この震えは恐怖に対してのものじゃない。
怒りだ。
いくらお父さんでも友だちを選ぶ権利を奪うことなんかできないはずなのに、という心の底からあふれ出す怒り。
慎吾は生まれて初めて憎しみのこもる目をお父さんに向けた。
「ぼくが誰と遊んだっていいでしょ! お父さんには奈緒子のことなんて分からないよ! 奈緒子は、奈緒子が一番そういうので悲しいんだよ! 奈緒子は悪くない!」
はじめて、お父さんに自分の思いをぶつけた。
後先なんて、考えていなかった。
なんでみんな、奈緒子を責めるようなことばかり言うんだ!
なんでみんな、奈緒子が一番辛いということを分かってあげようとしないんだ!
気づくと、目の前のお父さんの顔が、戸惑いでいっぱいになっていた。そして怒りや悲しみでいっぱいになった胸の裡をさらけ出した慎吾は、その堰の壊れた瞳から、何度も何度もこぼれ落ちる涙を拭うこともせず、ぢっとお父さんを睨みつけていた。
鼻からこぼれ落ちた液体が、茶の間の畳に赤い斑点を作る。それを見たお母さんが、ようやく慎吾に近寄って、ティッシュで鼻血を拭き取ろうとした。慎吾はその手をも振り払って茶の間を飛び出し、自室に戻ってベッドにうつぶせに寝転がり、枕に顔を埋めて泣いて泣いて泣いた。
涙の海に沈み、鼻腔に広がる血の臭いにむせびながら、ふと、失恋大樹に自分の名前が書かれていたことを思い出す。
今のこととか最近のツイてないこととかは、もしかしたらそのせいかもしれない。
直人の身に降りかかりそうになった不幸を考えると、自分の身に起こっている出来事はまだまだ甘いものなのかもしれないが、しかし《神罰》というものが本当に起こるものだとするならば、どう考えてもそうとしか考えられなかった。
でも、でも、そんなことはどうでもよかった。
自分がどんなに痛めつけられようが、辛い目にあおうが、底の底まで不幸になろうが、そんなことはどうでもいい。
奈緒子が今とてもつらい状況に立たされていて、それをどうすることもできない自分の無力がただ歯がゆかった。
夏休みが終わって、奈緒子は学校にちゃんと来られるのだろうか? 前の学校では、そのことが原因でイジメられていたと奈緒子は言っていた。そのときの奈緒子の顔が、いまでも忘れられない。
あんなに哀しい顔をする人間に出会ったことがなかった。
だから、ずっと友だちでいようと決めたのだ。
そのためなら、世界中を敵に回してもかまわない………
◆◆◆
………ハッとして目を開けると、部屋が暗かった。
いつの間にか眠りこけてしまったようだ。
しまったと思いながら、枕元にある目覚まし時計を見ると、すでに九時を回っていた。
花火の約束。
そのことを思い出して起き上がり、アタフタと部屋を抜け出す準備を始めると、
「慎吾」
と、ドア越しにお父さんに呼びかけられた。
騒がしくしたのが聞こえたようだ。
「な、なに?」
恐る恐るドアを開けると、いつもの威厳をどこかに忘れてきたかのような、ぎこちない笑みを浮かべたお父さんが立っていた。
「すまなかったな、さっきは」
「う、ううん。ぼくも、ごめんなさい」
「ゴハン、食べなさい」
「う、うん」
お父さんに促されるままに食卓へと向かった慎吾を、茶碗にゴハンをよそぐお母さんが笑顔で迎えた。
むず痒い。とても。
だが目の前の豚カツを見ると、とても空腹だということに否が応でも気づかされる。
慎吾はイスに座り、「いただきます」を言うのも忘れて、それを口いっぱいに頬張った。美味しい。本当に、本当に久しぶりのお母さんの手料理に舌鼓を打つ慎吾に、対座する両親が、不気味にも感じるほどの微笑を浮かべて暖かい眼差しを向けていた。その意味するところは分からなかったが、三杯目のおかわりを平らげる頃には、すっかりそんなことは気にもならなくなっていた。
「どうだ、今日は久しぶりにお父さんと風呂に入るか?」
「え?」
「イヤか?」
「イヤ、じゃないけど」
壁掛け時計が、電子音のチャイムで十時を告げた。
奈緒子たちは、まだ待っててくれているだろうか?
早く行かないと怒られてしまう。
今はただ、奈緒子のそばにちょっとでも長くいたいのに、それを、眼前の見慣れない笑顔のお父さんには口が裂けても言えない。
風呂に入り、どこか気まずく上滑りしてゆく会話を、筋骨隆々のお父さんと交わしてようようのことで出ると、今度はお母さんが、
「今日は一緒に寝る?」
と、ほがらかに笑んだ。
逃げられない。
きっと両親は、夕方のあの口論を激しく悔いて、今まで忙しさにかまけて失ってしまっていた、一家団欒というやつを取り戻そうとしているのだ。
正直、いまはそのことが、ありがた迷惑だった。
こんな時でもなければ少し、いや大いに嬉しいことなのだが、今夜はまずい。
だがやはり口が裂けてもそれを言えるはずもなく、唯々諾々(いいだくだく)とお母さんの提案に首を縦に振らざるをえなかった。
六年生にもなって、両親と一緒に寝ることがあるなんて思ってもみなかった慎吾は、川の字の真ん中で、それでも奈緒子たちのことが気がかりでしょうがなかった。
無情にも、襖の向こうから台所の壁掛け時計が十一時を告げた。
薄暗い寝室の天井をぢっと見ながら、右で眠るお母さんから漂うシャンプーの香りを胸一杯に吸い込み、左に眠るお父さんの豪快ないびきを聞いているうちに、「当たり前だけどこれがぼくの家族なんだな」とふと感じ入り、急に胸がホンワカと暖かくなった。
◆◆◆
次の日も、そして次の日も、両親のどちらかがつきっきりで、なかなか病院に行きたいことを言い出せずに、ズルズルと二十三日になっていた。
共働きのはずの両親が、どういう風にして時間に都合をつけているのか分からなかったが、さすがになんの連絡もせず、三日も廃病院に顔を出さないのはまずい。
そう思ってラジオ体操の時に直人を捜しても、たぶんサボっているのだろうその姿は、見当たらなかった。
「ね、ねえ、お父さん」
「ん?」
遅々として進まない算数の宿題を目の前にした慎吾は、それにつきっきりのお父さんに意を決して話しかけた。
「あのさ、ぼく髪を切りたいんだけど」
「そうか」
「な、直人のとこのお母さんの美容室に行きたいんだけど」
「そうか。お前、いつもそこで切ってたっけ?」
「う、ううん。そうじゃないけど。たまにはオシャレに気を遣ってみようかな、なんて思っちゃって」
これは苦しい賭けだった。
普段なら、そんな軟派な理由をお父さんが許すはずはなかったが、この数日の優しげな態度を鑑みるに、五分五分の確率になっているような気もしていた。
本当の理由は、直人に会って、しばらくは廃病院に行けないと伝えることと、それからあの花火をすると約束した日は大丈夫だったか? と訊くことだった。
「そうか。じゃあ、お父さんも一緒に行こう。髪も伸びてきたしな」
「え、一緒に?」
「イヤか?」
「イヤ、じゃないけど」
渋々と同伴を受け入れた慎吾は、お父さんと連れだって、直人のお母さんがやっている美容室へと向かった。
「いらっしゃいませ……あら、慎吾君」
「こ、こんにちは」
「慎吾君のお父さんも珍しいですね。今日はお仕事は?」
「今日は休みです。気分転換にね、久々に髪を切ろうかと思って。慎吾もよろしくお願いします」
「はい。分かりました」
さきに髪を切ることになった慎吾は、セット椅子に座らされ不慣れな腕を通すタイプのクロスで身を包まれながら、
「あの、直人は今日はいますか?」
と、待合スペースで、手持ち無沙汰に婦人雑誌へ目をとおすお父さんに聞こえないよう、小声でたずねた。
「ああ、直人ならどっか遊びに行っちゃったわよ」
「そ、そうですか」
「なにか伝えておくことある?」
「いえ、べつにいいです」
「そう。あの子、あんまり友だちいないみたいだから、仲良くしてあげてね」
「は、はい」
髪を、今までやったこともないくらいにオシャレな感じにしてもらった慎吾は、その違和感に戸惑う鏡の中の自分と目を合わせながら、どうしていいかも分からないままにそのままシャンプーをすませ、お父さんの前に立った。
雑誌から目を上げたお父さんは、
「おお、似合ってるじゃないか。二学期からモテモテだな」
と、下手な冗談を言って、そのままカットを始めてしまった。
もうなんのためにここへ来たのかも分からなくなっていた慎吾は、未だお父さんの温もりが残る籐椅子に腰掛けて、本棚に一冊だけの『妖怪博士 目羅博士』の九巻を手に取ってパラパラとめくった。
「あ、そういえば聞きました?」
「なにをですか?」
「いえね、あの駅の北口を出た先の、ほらビル街があるでしょう」
「ええ」
「あそこにね、赤いワンピースを着た女の幽霊が出るんですって」
「ハハ、まさか」
「きっと子どもたちの噂話なんでしょうけど、その幽霊を見たっていう人がここ最近、増えてきてるんですよ」
「へえ、そうなんですか」
「まあ、それが本当に幽霊とかただの噂話ならいいんですけど、なんか頭のオカシイ女の人とかだったら怖いわ、とかね、最近はここへ来る人は、みんなその話をするんですよ」
「夏ですからね、そういう怪談話が出てくるのもおかしくないでしょう」
「ええ、そうなんですけどね」
『バラバラ女』の話を耳の端に捉えて、胸が早鐘を打つのを感じながら、気もそぞろに漫画本に目を落としていた慎吾は、
「そういえば、瀬戸さん、ちかぢか引っ越すらしいですよ」
という直人のお母さんの言葉に、ハッと頭を上げた。
「はあ、そうですか。まあ、あそこの、正次君でしたっけ、彼も大変らしいですからねえ。ぼくは、あそこのお父さんの田舎に引っ込むとか聞きましたね、そういえば」
「そうなんですか。実家はどちらなんですか?」
「さあ、そこまでは聞きませんでしたけど、ほら、やっぱり少し聞きづらいでしょう。聞いた話では正次君、理由も分からずに部屋から出てこなくなってしまったそうですし」
「そう、ですよねえ。なにがあったのかしら?」
チラとこっちを向いた直人のお母さんと視線がぶつかった慎吾は、すぐに目を落とし、気が気でなくなりながら正次のことを思った。
一番仲の良かった正次が引っ越してしまう。
やはり会いに行くべきなのだろうか?
でも、どうして不登校になったのかも分からないのに、なにを言ってやれる?
なにがあったのかなんて聞けないし、ましてや「頑張って」なんて軽々しく言えるはずもない。
髪を切り終えたお父さんと美容室を後にした慎吾は、まだ違和感の残る前髪を撫でながら、ため息を吐いた。
正次に会いに行くべきかを、奈緒子たちに相談したい。
だがやはりそんなことをお父さんに言えるわけがなかった。
「……慎吾」
「え?」
「この前は悪かったな。お父さん、反省してる」
「う、うん。いいよ気にしてないよ」
「慎吾の言うとおりだな。友だちを決める権利は、お前にしかない」
「う、うん」
「あの娘、お前と本当に仲がいいのか?」
「うん。五月に転入してきたから最近の友だちだけど、なんか、みんなと壁みたいのがあってさ。ぼくとは仲良く遊んでくれるけど、やっぱりお家があんなでしょ。だからさ、ぼくは、ぼくくらいは友だちでいたいんだ」
「……そうか。そうだよな……あの娘は……なにも悪いことをしていないもんな」
「うん」
「……」
急に歩幅を広げたお父さんが、慎吾を置いてズンズンと先へと行ってしまった。
すこし上下に揺れているような背中を見ながら、慎吾はゆっくりとそのあとを追った。
◆◆◆
八月二十四日。
「もうゆるしてください!」と、慎吾は胸の中で何度も何度も叫んでいた。
今日は両親ともに休みで、都内の映画館まで足を伸ばすことになってしまっていた。
映画館の、子どもにはまだ少し大きいフカフカの座席に深く体を預けながら、慎吾は紙コップに入った薄いコーラをストローで何度となく飲んでいた。
ポップコーンはノドを渇かす悪魔だ。
そのせいで、上映時間が半分を過ぎた頃には、もうすっかりコーラを飲み干してしまっていた。目の前の大きなスクリーンで、外国の筋肉スターが、縦横無尽、八面六臂の大活躍をしている。
まるで面白くなかった。
去年も、その前の年にも観たことのあるような、ステレオタイプのアクション映画には興味を持てるはずもない。
となりのお父さんに気づかれないように小さくため息を吐いた慎吾は、冷房の効きすぎた場内にも辟易として身を震わせながら、半袖のTシャツで来てしまったことを激しく後悔していた。
映画なんか嫌いだ。
大きな画面でウソを流すということは大ウソってことじゃないのか?
そんなバカなことをふと思い、慎吾は苦笑した。
映画が終わり、近くのファミレスで食事をすませて車の後部座席で一息を吐く頃には、もうすっかり空は茜色へと様変わりしていた。
車内へと射し込む茜色が、手に持つミネラルウォーターのペットボトルを、おなじ色に染め上げている。
今日も廃病院には行けそうもないな、と思いながら満腹感に眠気を誘われた慎吾は、そのままウツラウツラと頭を揺られながら眠りに落ちた……
……肩をお父さんに揺さぶられて目を覚ますと、いつの間にか家に着いていた。
車から出た慎吾は不意に悪寒を背筋に感じた。
そして大きなクシャミとともに、鼻水が宙を舞った。
映画館と車内の冷房のせいで、どうやら風邪をひいてしまったらしい。
「大丈夫?」
お母さんが、心配そうにして慎吾の額に手を当てた。
暖かい感触が、なんだかくすぐったかった。
「熱はないみたいね」
「そうか、今日はもう寝なさい。疲れてるだろうからな」
「う、うん」
慎吾は言われるがままにすぐに布団に入り、部屋の電気を消して出て行くお父さんのうしろ姿を、なんとはなしに見送った。
それにしても今日は疲れた、と心の底から思い、車でいっぱい寝たはずなのに、すぐ眠気に袖を引かれてそのまま夢の中へ沈んでいった。




