26
登校日とはいっても昼前には終わり、慎吾と直人とワチコ、それに、うち沈む奈緒子は、廃病院へ向かって、横並びに歩いていた。
奈緒子になんと声をかけていいのか分からない。昨日のできごとがその焦燥を煽る。気にしていないというとウソになるけれど、それでもそのことを気にするつもりはなかった。
以前、奈緒子の家に行ったときに言った「ずっと友だちだからね」という言葉をもういちど心に誓った慎吾は、意を決して奈緒子にしゃべりかけた。
「やっぱさ、奈緒子がいないとダメだね」
「……」
無言の奈緒子。
その沈む横顔が痛くて、額に汗がポツリポツリと噴き出していた。
「なんでだよ、おれたちだけじゃ、面白くないのかよ」
「そ、そういう意味じゃなくて、奈緒子がいたほうが、もっと楽しいって意味だよ」
「たしかにね。直人とデブ、ちっともあたしの言うこと聞かないからな」
それはこっちの台詞だ、と思いながら奈緒子を窺うと、少しだけ顔を綻ばせているようだった。
◆◆◆
廃病院に着くと、ランドセルを無雑作に放り投げた直人がグローブとボールを手に取り、慎吾に「やるぞ」と言って、ひとり勝手に中庭へと向かった。慎吾は久しぶりに奈緒子と話せる機会を奪われたような気がして、あまりいい気はしなかったが、ここで奈緒子になにを言っても困らせるような気がして、グローブを手に取り、直人のあとを追った。
「今日はチャーからな」
いつもの場所に立つ直人が、慎吾にボールを投げてよこした。
「う、うん」
慎吾もいつもの位置について、勢いよく直人へボールを投げた。それがいつものように直人から遠く離れた壁に当たり、いつものように直人がため息を吐いた。
「いつになったらできるようになるんだよ」
「ご、ごめん」
「べつに謝らなくてもいいけど、チャーさ、ミオカさんに石を投げた時ってさ、あれは顔を狙ったわけ?」
「うん」
「ああいうときはちゃんと上手く投げれるんだな。なんでだよ」
「さ、さあ。あ、でも知ってる直人? ミオカさん逮捕されたんだって」
「ホントかよ?」
「うん。やっぱり変質者だったらしいよ、危なかったね」
「まあ、でもチャーのお陰だな。アレがなかったら、どんな目にあってたか分からないしな。それに、もう失恋大樹には×印をつけたから大丈夫だろ」
「直人、そういうの信じてないんじゃなかったっけ?」
「……どっちにしろ、もう大丈夫だろ」
「ねえ、わたしもやりたいんだけど」
気づくと、眩しそうに手を目の上にかざした奈緒子が、入り口に佇んでいた。
「じゃ、これ」
グローブを奈緒子に渡して、拾い上げたボールを、意地悪く慎吾に思い切り投げつける直人。慌てて胸にかまえたグローブに、パシンと音を鳴らしてボールが収まった。グローブ越しの手がジンジンと痛む。
「はい」
奈緒子がグローブをかまえて微笑んだ。
その笑顔は、精一杯がんばって顔に浮かび上がらせたものにしか見えない。
「じゃあ、いくよ」
そのグローブだけを見つめながら、奈緒子の前で恥をかきたくないという思いを胸にボールを放ち、慎吾は祈るように目をつむった。
その祈りに、グローブの革の乾いた音が応えた。
「おお!」
直人が感嘆の声を漏らす。
恐る恐る目を開くと、奈緒子のグローブにすっぽりとボールが収まっていた。
「へえ、上手くなったんだね」
「奈緒子がいないあいだに、頑張ったからね」
「ふうん」
奈緒子がボールを投げ返し、やっといつもの笑顔になった。
「でも、あれだぜ、おれとやってると、ぜんぜんダメなんだけどな」
「あれ、そうなの?」
「ち、ちがうよ、上手くなってるもん」
ふたたび投げたボールが、また上手いことグローブに収まった。
「ほ、ほら」
「奈緒子とだからだろ、おれにはボールを捕らせたくないんだよ」
わざとらしい直人の仏頂面に誘われて、中庭に響き渡る奈緒子の涼やかな笑い声。
それが、楽しい日常を呼び戻してくれる魔法みたいだった。
それからしばらくキャッチボールを続けていると、ワチコも中庭に出てきた。
「なにやってんだよ、一人にするなよ」
「べつにそういうわけじゃねえよ」
「ナオちゃんさ、今日、なんか学校で暗かったけど、なにかあったのか?」
学校での奈緒子の態度に気づいていたらしいワチコが、なんの気なしにたずねた。
「うん、ちょっとね……」
奈緒子の投げたボールが手前で落ちてバウンドし、慎吾の顔に直撃した。あまりの痛さに思わずうずくまると、慌てた様子の奈緒子がすぐに駆け寄ってきた。
「ごめん、大丈夫?」
「う、うん、なんほか」
鼻に違和感を覚えながら言葉も上手いこと出せずに見上げると、奈緒子が小さく悲鳴を上げながら慎吾の鼻を触ってきた。激痛が走り顔をのけ反らせ、鼻の下に感じる冷たいものを思わずグローブで拭うと、そこに血が着いていた。
「鼻血だ、大丈夫かよ、デブ」
奈緒子のうしろからのぞき込んで、心配そうに言うワチコ。
直人はその悲惨な光景を指さして笑っていた。
信じられない。
「わ、わらははいでよ」
「ごめんごめん、はいこれ」
直人が、取りだしたポケットティッシュを慎吾に投げてよこした。それを鼻に詰めると、その顔がよっぽどおかしかったのか、ワチコと直人が笑い出し、目の前で心配そうに見つめていた奈緒子がそれを諫めた。
◆◆◆
207号室に戻ってベッドに寝かせられ、眼前で心配そうにしている奈緒子に申し訳ない気持ちになりながら、ふとこれくらいのことが失恋大樹から下された罰だったら助かるのにな、と慎吾は思う。
「チャーってば、ホントに運動神経ないよな。おれだったらあんなのすぐに避けられるのに」
「ほ、ほれは」
「血が止まるまでしゃべらないほうが良いよ。ちゃんと寝てて」
奈緒子に言われると、そうせざるをえない。久しぶりに奈緒子が来たっていうのに、こんな醜態をさらしてしまう自分に、ほとほと愛想を尽かしそうになる。
「じゃあ、まあ、チャーの血が止まるまでヒマだな」
一ミリも心配していない直人が、つまらなそうにアクビをする。
「じゃあ、ナオちゃんがいなかったときのことを教えてあげよっか」
ワチコの提案に乗り、あおむけの慎吾の傍らに腰掛ける奈緒子に、『失恋大樹』で起きた事件の顛末と、ミオカさんに襲われかけた話を嬉々として話す直人。それを興味津々に聞きながら、奈緒子が何回も相づちを打つ。
直人のとなりのワチコは終始無言で、どうやら楽しかった話を奈緒子に聞かせるというより、奈緒子にも、失恋大樹へ新たに書き足された《宮瀨慎吾》の名前を書いた犯人を推理してほしがっているように見えた。
「どう思う?」
ワチコの心境を知ってか知らずか、語り終えた直人が奈緒子に意見を求めた。
「うーん、どうって言われても困るんだけど。いままでの話を聞いてたら、そのときまでに、チャーの名前を書くことのできる人がいなくて、あとは時間があっても書く理由がない人ばっかりってことでしょ?」
「うん。ナオちゃんなら、なにか分かるんじゃないかな」
「みんなが分からないのに、わたしに分かるわけないじゃん」
「でも考えられるだけ考えたぜ。あと、クラスメイトで、そのときになにをしてたのか分からないのは、一人しかいないし」
「じゃあ、その人が、犯人なんじゃないの?」
「ありえないな、それだけは」
「どうして?」
「だってよ……」
チラと気まずそうに慎吾を見る直人。
「だ、だれはほ?」
「チャーは、しゃべらないで」
「ほめん」
「で、だれなの?」
「瀬戸……瀬戸正次」
ありえない。正次がそんなことをするわけがない。
「それは、ないんじゃないかな。だって、そのセト君の名前も書かれてたじゃない。直人君は、二人の名前を書いた人は同じだって思ってるんでしょ。じゃあ、自分の名前を書いたっていうの? ありえないでしょ、それは」
「まあ、ありえないよな。ごめん、ちょっとそう思っただけだからさ。でもあれだぜ、その犯人が女か男かは分かるよ」
「どうやって?」
「だからさ、チャーのことを好きな女子なんているはずないから、犯人は、好きな女子が好きなのがチャーだって勘違いしたヤツってことになるじゃん」
「ちょっと待って。その、チャーのことが好きな女子がいないなんて、なんで分かるの?」
「だってほら、ねえ、チャーだよ」
「それは理由にならないでしょ。好きな女子がいるかもしれないじゃん」
「だれだよ?」
「え、えっと、それは分かんないけど」
「……まあ、いいや。あれだよ、奈緒子がチャーのことを好きだったとして」
「ちょ、ちょっと待ってよ、なんでわたしがチャーのこと好きとか言うの?」
「だから例え話だってば。チャーの名前を書く理由があるとしたら、奈緒子のことが好きなヤツが、奈緒子は実はチャーのことが好きなんじゃないのかと思って書いたってのが、いちばんありえる話だと思うんだよ。べつに勘違いでもいいんだろうし」
「わたしたちが仲良く遊んでるのを知ってるのは、塾で沢田さんにそのことを聞いた人たちってことでしょ? そしたらまた話が戻っちゃうじゃん。書くことができた人がいないってことになるよ」
「そうだよな、だから困ってるんだよ。結局、また元に戻っちゃうんだ。クラスのヤツだけじゃなくて六年全体を考えたら、四クラスだから百二十人だろ、大体。もう無理かもしれないな、犯人を探すのは」
結局、奈緒子が加わっても、元の木阿弥、藪の中、堂々巡りの五里霧中だ……
それからしばらく、慎吾をのぞく三人は、ああでもないこうでもないと言いながら、そのことについて推理を展開させたが、やはり答えが出ることはなかった。
諦めた直人が、一つため息を吐いて、
「まあ、あんなもん偶然だから、そんなに信じなくてもいいよ」
と、白々しく笑った。
「うん。ぼくもあんまり気にしなくてもいいと思うんだ。ほら、ミオカさんのことは、やっぱり偶然だと思うんだよね」
鼻血のおさまった慎吾は、起き上がりながら直人に言って、ベッドから下りた。
「どこ行くの?」
「久しぶりに奈緒子が来たんだからさ、駄菓子屋さんに行って、アイスでも食べようよ」
「それいいね。じゃあ、ジャンケンして誰かがオゴることにしようぜ」
「う、うん」
直人の提案でジャンケンをすると、これまたツイてないことは重なるもので、慎吾は喜ぶ三人を見ながら左手のチョキを恨めしく思った。
本当に、最近はツイてない。




