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寝坊した宮瀬慎吾は、同年代男子児童の平均体重を大きく上回る巨体を揺らしながら、通学路を無我夢中で走っていた。
体が重い。
アスファルトにそのままズブズブとめり込んでしまいそうだ。
きょう遅刻してしまえば六年生になって早くも四回目になってしまう。まだ新学期に入って二ヶ月と経たないうちに担任の町山先生に目をつけられてはたまらない。
もっとも、もうすでに目をつけられているかもしれないのだが、慎吾は、そのことは深く考えないようにしていた。
◆◆◆
予鈴が鳴りひびくなか、ようやく学校へとたどり着いた慎吾は、息も整わないうちにうわばきへと履き替え、三階の六年一組の教室へと向かった。
町山先生はもうとっくに教室にいるかもしれないと思いながら恐る恐る中をのぞくと、
「チャー、ギリギリセーフ」
と、おどけた声の林直人が気に入らないあだ名で呼びかけ、慎吾がいる教室の入り口へ、クラスメイトの視線が注がれた。
直人はいつも人を小バカにする。美容師である母親に切ってもらっているという、およそ小学生には似つかわしくないオシャレな髪型が目障りだった。
「や、やめてよ……」
恥ずかしさに顔を真っ赤にしながら自分の席へと向かうと、
「おはよう、チャー」
と、学級委員の澤田紀子に微笑みかけられた。
「う、うん、おはよう」
小麦色の肌の少女と目も合わせずに、つれなく挨拶を返して、ようやく自分の席に着くと、始業チャイムの音が鳴り響いた。
「チャー、やっぱり暑くて寝られなかったのか?」
「や、やっぱり、ってなんだよ。きのうは暑くなかったでしょ」
前の席の、不良に憧れるけんかっ早い木村太一のイヤミな質問にムキになっていると、まだ教師になって二年目だという、若いジャージ姿の女教師、町山先生が意気揚々と入って来た。
紀子の「起立!」という号令とともに皆が立ち上がり、続く、「礼!」「着席!」というお決まりの流れをすませふたたび席に着くと、
「今日は皆さんに新しいお友だちを紹介します」
と、町山先生が笑みを浮かべた。
「やったー!」
お調子者の冨田次郎が、骨折してギプスを巻いた左足なんかおかまいなしで立ち上がり、わざとらしく喚声を上げ、いくつかの笑い声がそれに応えた。
「富田くん、座りなさい。転んだらどうするの」
町山先生に諫められた次郎が渋々と席に着き、間の抜けたその顔を見て、直人だけが笑い声を上げた。
「じゃあいい? どうぞ入って」
町山先生の声にうながされて、ひとりの少女が入ってきた。
「今日から皆さんと同じクラスメイトになる、山下奈緒子さんです」
「山下奈緒子です。よろしくお願いします」
その棒読みに近い無感情な自己紹介は、ほとんどの男子生徒の耳には届いていなかった。
次郎は言うまでもなく、学年一の秀才メガネ、鈴木純平までもが、口を開いて山下奈緒子に見惚れている。
山下奈緒子は、スラリと伸びる均整のとれた身体にまとう長袖の白いワンピース、その裾から伸びる白磁のような細い脚、多感な小六男子の目を釘づけにするには十分なほどに発育した胸の膨らみ、肩まで伸びた艶やかな烏の濡れ羽色の髪、そして高い鼻梁と二重まぶたの、まるで幻想の世界から抜け出てきたかのような端正な顔立ちで構成された、非の打ちどころのない美少女だった。
「ウソだろ……」
うしろの席の岸学が漏らした声を、慎吾は聞き逃さなかった。
「えー、皆さん仲良くしてくださいね。」
そう言って町山先生が山下奈緒子に指示した席は、慎吾のとなりの席だった。
いくつかの舌打ちと嫉妬の入り混じる視線を感じながら、慎吾はその幸運に浮き足立っていた。
となりに座った山下奈緒子に、
「ぼ、ぼく、宮瀬慎吾って言います。よろしく」
と、目を合わすこともできず、緊張しながら自己紹介をすると、
「よろしく」
と、慎吾の顔すら見ず、山下奈緒子は静かに応えた。
肩透かしを食らって目を泳がせると、不意に遠くの席の直人と視線がぶつかった。ニヤニヤとする直人の視線に、アイツはいつもそんな目で人を見るんだからたまったもんじゃないよな、と思いながらいたたまれずに目を伏せると、その先に山下奈緒子の白い脚が見え、慎吾はなぜかゲップをしてしまった。
「大丈夫?」
気にかける左隣の野口清実に、頷くことすらできなかった。この恥ずかしさやいたたまれなさを形容できる言葉を、小学生の慎吾は持ちえていなかったが、それでもやはり、なんとも恥ずかしい状況であることだけは身にしみていたからだ。
「じゃあ一時間目は国語だから、宮瀬君は山下さんに教科書を見せてあげて」
町山先生に言われ、慎吾は奈緒子の席に自分のそれを寄せて、国語の教科書を開いた。
「ありがと」
無機質ながら涼やかな山下奈緒子の声に、一瞬ウットリとしかけたが、チラと見た彼女の横顔がなぜかとても物憂げに見え、慎吾は舞い上がっていることに、少しの罪悪感を感じてしまった。
もちろんその日、上の空で授業内容はまったく頭に入ってこなかった。
◆◆◆
その放課後、慎吾はめずらしく次郎とともに帰っていた。
サッカー部の次郎は、普段ならこの時間は部活動に励んでいるのだが、一ヶ月前、交通事故で左足を骨折し、部活をしばらく休むはめになっていた。そもそも、その事故の原因も、紀子の気を引くために取った行動のせいだというのだから、本当にどうしようもない。
「でも、ビビったよな」
「なにが?」
「ほら、転校生の山下奈緒子。すっげえカワイイよな。おれあんなにカワイイコ、見るの初めてだよ。ゲイノウジンみたいだぜ。紀子よりカワイイかも」
鼻の穴を広げて興奮ぎみに話す次郎に、慎吾は深くため息を吐いた。
「おいなんだよ、チャーだって緊張してたじゃねえか。カッコつけんなよバレバレだったんだから」
「そりゃ、そうだけど……」
次郎の言うことは確かにもっともではあるのだが、そんなことよりも、山下奈緒子の、あの物憂げな表情が頭から離れなかった。
「でも山下さんさ、なんかすごい悲しそうな顔をしてたよね」
「うーん、そうかなあ、おれはよくわからなかったけど」
「わかんなかったんならいいや。ぼくの気のせいかもしれないし」
それから、人気少年マンガ『妖怪博士 目羅博士』の話や、「UFOは、いったい地球へ何をしに来ているのか?」などの他愛のない話をし、商店街のあたりで次郎と別れた慎吾は、いつもこの時間帯に、潰れた文房具店のシャッターの前で下手な歌を唄う、自称ミュージッシャンの、ミオカさんというごま塩頭の小汚いオジサンを横目にとおり過ぎながら、どこからか香るカレーの匂いで、無性に空腹を感じていた。
せつない想いを
とにかくキミに伝えたい
マジで愛しておくれよ
さらに百倍キミを愛すから
吐くための上手いウソなんて
グシャグシャにしてしまって
下手なホントを言いたいんだ
いつもながら耳に障る、調子外れのミオカさんの歌を聴きながら、でも家に帰っても、夕食の支度はされていないんだよな、と当たり前のことを不意に思って憂鬱な気分になった。
両親ともに働いている宮瀬家では、夕飯どきに食卓を囲むことはほとんどない。
慎吾はコンビニ弁当を下校時に買うことが日課になっていた。
帰り道に一つだけあるコンビニに寄って、『週刊少年 サクセス』を立ち読みしたあと、カレー弁当と総菜パンを二つ、それにコーラを買い、晴れ渡る茜空を見上げながら、山下奈緒子のことを考えた。
確かに次郎の言うとおり山下奈緒子はとても、とてもカワイイ女の子だった。だがやはり、あの悲しそうな表情が頭から離れない。
一体、山下奈緒子はなぜあんなにも沈んだ顔をしていたのだろうか?
転入初日の気だるさの現れにしては少々、いや、多分に悲しさを含みすぎていた。
あんなに悲しそうな顔を見たのはいつ以来だろうか。そう遠くない昔に同じような顔を見たようなおぼろげな記憶はあるのだが、それがいつのことだったかまでは思い出せなかった。
家に着き、誰もいない邸内に「ただいま」と言って、居間に入り、早速コーラをレジ袋から取りだして、昨日から出しっぱなしのコップに注いで、一気に飲み干した。
「あー、ウマイ!やっぱり最高だな!」
お父さんがビールを飲み干したあとに言うお決まりの台詞をまね、畳に腰を下ろしてカレー弁当をゆっくりと頬張った。
辛いけどウマイ、ウマイけど辛い。
これぞカレーの醍醐味。
慎吾は、一人の夕食もなかなか悪くはないな、とこの時ばかりは思うのだった。