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その夜、布団に奈緒子から教わった細工をして、「どうか、どうかお父さんたちにバレませんように」と心中で祈りながら壁掛け時計を見ると、もう午後九時半だった。いつもなら、翌朝のラジオ体操に遅れないよう床に就いている時間だ。
両親は、もうとっくに寝ているはずの慎吾のことなどお構いなしでテレビに夢中になっているらしく、一間挟んだ茶の間からは「罰ゲーム!」というくぐもった売れっ子芸人の声とともに、お父さんの豪快な笑い声が漏れ聞こえていた。
その音の波に動きを同化させながら掃き出し窓をそっと開けると、温くもなく涼しくもないそよ風が、机の上の宿題プリントを中空に解き放ち、カサリと音を立てながら床に散らばせた。
ショックで口から漏れ出そうになるあえぎ声を必死に飲み込みながら、今はもう使わなくなったジョギングシューズで庭へ出て、ゆっくりと音を立てずにその先のアスファルト道へとようやくのことでたどり着いた慎吾は、玄関の磨りガラスの引き戸から漏れ出るかすかな蛍光灯の光をしばらく見てから、一気に駆けだした。
◆◆◆
「遅い!」
集合場所である神社への石段に着くと、すでに三人がいて、奈緒子が怒っていた。
「もう、なにやってたの?」
「う、うん、ごめん」
「まあ、来ただけいいじゃん。おれ、チャーは来ないと思ってたもん」
「な、なんでさ?」
「だってほら、チャーの父ちゃんって怖そうじゃん。おれなら無理だもん」
「でも、約束したし」
「いいんだよそんなこと。で、直人、どこでやるわけ?」
「ここからちょっと行ったとこにビルが二つ並んでるとこがあるだろ、ほら塾の近くに」
「うん」
「その隙間がさ、いい感じで暗くて怖いんだよ」
「そこでやんの?」
「うん。まあ奈緒子がそこでいいなら」
「そこでいいよ。わたしあんまりよく分からないし」
「じゃ、行こうぜ」
直人が立ち上がり、ポケットに手を突っ込んで歩き出した。《バラバラ女セット》が入った紙袋を持って追いかけたワチコがその横に並び、渋る直人に無理矢理それを持たせた。
「ほら、なにやってるの、行くよ」
「うん」
奈緒子が慎吾を急かし、二人も直人たちのあとを追った。
◆◆◆
ビルの隙間をのぞき込みながら、慎吾は「ここは怖すぎる」と思わずにはいられなかった。闇が深すぎて、なんにも見えない。このかすかな月の光すら拒むようなナニモノカが、その先にいるような気がして、背中にイヤな汗をかいていた。
ワチコが直人の持つ紙袋を乱暴に奪い取り、その中から懐中電灯を取りだして奈緒子に手渡した。
「じゃあ、行こうぜナオちゃん」
「うん」
「男子はそこで待ってろよ」
「え、なんで?」
闇に吸い込まれそうな気持ちからふと我に返ってたずねると、呆れ顔のワチコが紙袋の中から《血だらけワンピース》を取りだして睨んできた。
「あ、そっか……ごめん」
舌打ちを一つしたワチコと、そのやりとりを笑顔で見ていた奈緒子が、懐中電灯の光だけを頼りに闇の中に消えた。
「おい、どうする? 覗く?」
さっそく悪巧みを提案する直人への苛立ちを抑えながら夜空を見上げると、あと数日で満ちそうな右辺の少し欠けた月が雲間から顔を出しているのが見えた。
「……ねえ、かぐや姫ってホントに月にいるのかな?」
「さあ、どうだろうなあ。NASAの人に聞いてみろよ。月に行ったとき見たかどうか」
「電話番号とか知らないし英語も分からないよ」
「じゃあ、諦めろよ。いるわけないし」
「ロマンがないなあ」
「サンタクロースがいるって信じてるようなもんだろ、くだらねえよ」
「あ、去年は、なにもらった?」
「なんだっけ? あ、あれだよ『ジュキラスのクレイジーマシンガン』とかいうクソゲー」
「へえ、直人もゲームとかやるんだ。それ学んチでやったけど、ぜんぜん面白くなかったな」
「おれもべつに嬉しくなかったけど、喜んでるフリしたなあ。チャーはなんだった?」
「ぼくはジャージセットとジョギングシューズと万歩計。ほら、この靴がそうだよ」
「完全にダイエット用じゃん。イヤミなサンタさんだな」
「お待たせ」
他愛のない話題で盛り上がってる二人に、すでにバラバラ女に成りきった奈緒子の氷みたいな声が闇の中から囁きかけた。
声だけで十分にヒヤリとする。
「まだだからな」
先に姿を現したワチコが、逸る二人を制して意地悪く口を歪めた。
「じゃあ、バラバラ女さん、どうぞ」
眼前の、どこまでも続いているような暗闇から、バラバラ女が姿を現した。
右手には包丁、左手には生首を抱えて。
「地を這うヘビと糸を生むクモ、どちらがお好きですか?」
頭からつま先までを冷たく貫く氷のような声。
その女の無機質な笑みのどこにも、昼間のよく笑う少女の面影はなかった。
「……もう、なんか言ってよ。わたしがバカみたいじゃん」
聞き慣れた少女の声色に戻ったバラバラ女が、生首で慎吾の肩を優しく小突いた。
「う、うんごめん。すごいね」
「……それだけ?」
闇に溶ける奈緒子。
それが、怖かった。
「すっげえよ、マジで怖いじゃん!」
突然、興奮気味の直人が鼻息荒く大声を上げた。
「あ、うん、ありがと」
「じゃあ、お前らこっちに隠れろよ」
懐中電灯を点けたワチコが、手招きしながらふたたび闇の裂け目へと姿を消した。
慎吾と直人も慌ててその後を追う。
奥まで行くと、どちら側のビルの荷物なのか判然としない雨ざらしの段ボール箱がいくつか積まれて、不格好なトーテムポールみたいになっていた。その影にしゃがみ込み、背を向けて佇むバラバラ女の方を見やると、そこはここよりも幾分か明るく、車道を挟んだ向こう側にある街灯の赤黄色い光が煌々(こうこう)と照っているのが見えた。
「ねえ、奈緒子にだけやらせてぼくらは見てるだけなの?」
「だって、おれらがいてもしょうがないじゃん」
「大丈夫だよ、ナオちゃんはもうバラバラ女になりきってるからな」
「しっ、誰か来たぞ」
静寂の中にカツコツと足音が聞こえ、スーツ姿の男がとおりかかった。
「あの…すいま…地を…ヘ…と…を…むクモ…ちらが…き…すか?」
バラバラ女の刺すように冷たい呟き声が、ここまではハッキリと聞こえない。だがその男の顔色が見る見る間に青ざめていくのが分かる。
となりの直人がその光景を眺めながら、嬉々としてイヤな笑みを浮かべていた。
「いや……ぼくは………だから」
平静を装いながら奈緒子に答える声がかすかに震えている。
奈緒子の完璧な才能は、大人に『バラバラ女』を信じさせてしまうほどの演技力までをも有しているらしい。
奈緒子に何事かをつぶやいた男は、手を二三度手を振ってから逃げるように去っていった。
ビルの隙間から顔だけを出してその後ろ姿を目で追っていた奈緒子が、満足げに振り返り、「どうだった?」と、闇の中に身を伏せる慎吾たちに言った。
その顔は、逆光で影になって見えなかった。
「すごいよ、うん、ホントにすごい。あのオジサン信じてたもんね」
「チビりそうだったもんな」
直人とワチコが声を殺して笑った。
唐突にえもいわれぬ罪悪感を胸に覚えたが、それを言う気にはなれなかった。
それから奈緒子は、何人かの通行人に同じように語りかけ、皆一様にこの世ならざる者を見てしまったかのような青ざめた表情を浮かべて逃げていった。
「もういいんじゃない? けっこういっぱい脅かしたでしょ?」
「まだまだ」
慎吾の忠言に、奈緒子がかぶりを振った。
先ほどからの奈緒子を見ていると、なぜかは分からないがすごく乗り気で、脅かす人が十人を越えた頃には、すっかりバラバラ女が板に付いていた。
近くで見ても、知っている少女の面影がふと消えてしまいそうな危うさがある。
「でも、さすがにそろそろバレると思うよ。ほら、そういうのにはなんだっけ、あれがあるって言うじゃないか」
「潮時だろ、デブ」
「そうそうそれそれ」
「確かにもういいんじゃないかな。おれそろそろ帰りたいし」
飽きた様子でアクビをしながら、慎吾の提案に賛成する直人。
「いま何時? ワチコちゃん」
「あ、うん。えーっと、十時五十分」
ワチコが手に持った目羅博士の腕時計を見ながら答えた。
「うわ、ヤバイよそれ、ぼくももう帰らなきゃ」
「そうね、じゃああと一人だけやって終わりにするね」
そう言ってまた背を向けた奈緒子が、バラバラ女に戻った。
それから五分ほどまんじりともせずに通行人を待っていると、背丈が奈緒子とあまり変わらない影が前を通りかけた。
「あの、すいません」
「はい?」
リュックを背負ったその人影が、奈緒子を見た。
一瞬見えたその顔は、よく知るクラスメイトのものだった。
「あ……」
思わず奈緒子の口から、戸惑いの声が漏れ出た。
「おい、あれ純平じゃねえか?」
ワチコが小声で慎吾に耳打ちする。
「う、うん」
「なにやってんだ、アイツ?」
直人が自分たちのことを棚に上げて舌打ちをした。このままではバレてしまう。いくら真に迫る演技をしていても、クラスメイトにそれは通じない。
顔がバレている。
奈緒子の顔を覚えていない男子なんているはずがないのだ。
「もしかして山下さん?」
「あ、うん、えーっと……」
言葉に窮した奈緒子が、明らかに助けを求める顔で視線をうしろに走らせた。
「なにやってるのこんなところで?」
「うん……なに、っていうか……その……」
「一人ってワケじゃないよねそこに誰か隠れてるんでしょ? チャーとか」
自分のあだ名を呼ばれ、慎吾の口からお決まりの困りゲップが出た。
「……やっぱりいるんだ」
直人に肩を小突かれて見やると、顎をクイクイと動かして無言のうちに「出て行け」と命令していた。となりのワチコも、意地の悪い笑顔で慎吾を見ている。
「……分かったよ」
観念し、それでも納得のいかない態度を取りながら奈緒子のとなりに並ぶと、うしろの裾をそっと掴まれた。
だけど、そんなこと、いまはどうでもよかった。
「なにやってんのこんなとこで?」
メガネをわざとらしく上げながら、純平が威圧的な態度で睨みつけてきた。
「えっと、その……あ、そうそう、自由研究」
「なんの?」
「オバケの格好で、人がどんくらいビビるのかっていう……」
「それ面白いの?」
「うん、まあ」
「マジでお前らってヒマなんだな。紀子が塾で言ってたよ直人とかワチコも一緒になって遊んでたって」
「二人は、か、関係ないじゃん」
「どうせうしろに隠れてるんだろ?」
「い、いないよ。二人だけだよ」
「ふうん、べつにいいけど興味ないし」
思わず、「興味ないんだったらもう行ってよ」と言いかけた慎吾は、純平の左手にどっしりと鎮座する分厚い参考書に気づき、すぐにその言葉を飲み込んだ。奈緒子の手に力が入り、Tシャツがうしろに引っ張られ、襟が喉元に食い込んで息が苦しかった。
「鈴木君さ、こんな時間まで塾にいたの?」
「……うん、おれ頭が悪いからね」
奈緒子の言葉を悪意と受け取った純平が、イヤミに口の端を上げた。
「純平さ、このことみんなには内緒にしててくれる?」
「最初から言う気なんてないよ」
「ありがと、鈴木君」
「あ、うんいいよべつにお礼なんて」
奈緒子に微笑みかけられた純平が、うつむいて小声で呟いた。
「じゃあもう行くからさ」
意外にもすんなりと納得した純平は、目もくれずに去っていった。そのうしろ姿が曲がり角を右に折れて見えなくなってから、慎吾はようやく安堵した。
「ああ、危なかったね。ありがとう、さすがチャー」
すべててをチャラにしてしまいそうな笑顔を向けてくる奈緒子に、
「よ、良かったじゃないよ。だからもうやめた方がいいって言ったじゃん」
と、胸の早鐘を悟られないよう、なんとか抗弁することしかできないのが惨めだった。
「でも純平もすごいな、こんな時間まで勉強してるんだもんな。おれには無理だよ」
背後の暗闇に隠れていた二人も、姿を現して笑った。
「もう、なんかぼくだけ損したみたいになってるんだけど」
「ナオちゃん、どうでもいいけど手、離した方がいいよ。首に食い込んでるぜ」
「あ、ごめん」
「頼られてるなあ、うらやましいなあ」
いつものようにからかう直人の横で、楽になった首をさすりながら、これもまた奈緒子の楽しい思い出の一つになればいいな、と慎吾は思った。
切れた雲間から射す柔らかな月の光が、なぜか心地よかった。