17
「ねえ、これ本当に大丈夫?」
奈緒子が不満顔で慎吾に言う。
先日、ついに完成した《バラバラ女の血だらけワンピース》を着たその姿が滑稽に見える。想像していたような怖い感じとはほど遠いその姿に、慎吾は苦笑した。
「やっぱね、無理があったんだよ、絵の具で塗ったくらいじゃ」
「そうかな。おれは大丈夫だと思うけど」
直人が笑いをかみ殺しながら、明らかなウソを吐く。
慎吾はおかしくて、それが悟れらぬよう、うつむいて肩を揺らした。
「笑ってるじゃん、二人とも」
奈緒子がしかめ面で腰に手を当て、袖から、固まった絵の具のかけらがいくつか剥がれ落ちた。
「ナオちゃん似合ってるよ。ほら、包丁とナマクビ」
ワチコが奈緒子の左手にナマクビ、そして右手に包丁を持たせた。その二つが合わさることによってますます滑稽な姿になった奈緒子を見て、慎吾は耐えきれずに吹き出し、その声につられて、直人とワチコも笑い出した。
「ちょっと笑わないでよ! これ絶対、失敗じゃん!」
奈緒子もおかしさに耐えきれなくなったらしく、笑いをこらえながら文句を言った。
八月十三日。快晴。縁日まであと二日。
「なんか安いオバケ屋敷みたいだな。ぜんっぜん怖くねえ」
奈緒子を指さして、さらに笑う直人。
「オバケ屋敷よりひどいよ。これチャーが悪いんだからね」
「だってやっぱ無理だよ。絵の具で怖くなんてできないって」
腹がよじれて痛かった。
「どうするのこれ? わたしこんな格好で外に行くのヤダよ」
「大丈夫だってナオちゃん。ナマクビはけっこう怖いし、包丁だってホンモノだからな。それに夜だろ、そのカッコで人を脅かすの。暗けりゃ分かんないって」
「そうかなあ……」
「そうだ! 地下室に行こうよ。アソコなら暗いから怖いかどうか実験できるよ」
「チャー、いいこと言った。じゃあ地下室に行こうぜ」
直人がさっそく立ち上がり、みんなを笑顔で見渡した。
一階に降りて、なぜか半ばの段に四本の松葉杖が一段ずつ壁に立てかけられた地下室への階段を降りた先に、白いドアが見えた。錆びついて塗料がところどころ剥がれ落ちたそのドアに鍵はかかっておらず、ここへ肝試しに来る者にとっては、この先の暗闇に閉ざされた地下室がメインスポットになっていた。
院長のオザキの悪行の全てが行われたと言われている場所。
ハナからそんな話は信じていなかったが、それでもその扉を前にすると、股間が縮み上がるような気分になった。
「チャーが言い出しっぺなんだから先に行けよ」
不気味な威圧感にひるんだ直人が、背中をグイグイと押してきた。
「う、うん」
冷たいドアを少し開けて、頼りない陽の光に照らされた薄暗い廊下を覗きこむと、久方ぶりの来訪者を歓迎するかのような、夏とは思えないほどヒヤリとした冷気が頬を撫でた。
怖い。
踏み入ることを両足が拒んでいる。
この先に、身の毛もよだつようなナニモノカがいるだなんて微塵も思わないけれど、胸の奥底の本能が、恐怖に警告音を鳴らしている。
分かっている。
ここに入ったところで、なにも起こらないのは。
でも、怖い。
「どうしたんだよ、早く行けよ」
直人の声が、慎吾を急かす。
「うん。だけどここでも十分暗いからさ、奈緒子がそこに入ればいいんじゃない? みんなで入ることないんじゃないかと思うんだけど」
「怖いのかよデブ」
「ち、ちがうよ!」
「でもチャーの言うとおりだよね」
奈緒子が薄暗い廊下へと踏み入り、そしてゆっくりと振り向いた。
そこに――
――バラバラ女がいた。
薄闇のなか、全身に狂気を纏う奈緒子。
その端正な顔立ちを、ここまで怖いものと感じたのは、これが初めてだった。
もともとそこに存在していたかのように、闇に溶ける白磁の女。
その顔に浮かぶ儚げな笑みが、慎吾の足を竦ませていた。
「ヘビとクモのどちらがお好きですか?」
「え?」
「もう、ちゃんとやってよ」
「うん、ご、ごめん」
「地を這うヘビと糸を生むクモ、どちらがお好きですか?」
「なんだよそれ」
直人が、奈緒子の思いつきの台詞を笑う。
慎吾はそれでも、目の前の赤いワンピースの女が、別世界からの使者のように思えてならなかった。
「あたし、クモが好きでーす」
ワチコがその質問におどけて答えた。
三人が笑う。
慎吾も笑おうとしたが、どうしても笑えなかった。
この、たまに取り残される感じが、本当にイヤになる。
「ああ、でもさ、なんか暗いとこにいればけっこう怖く見えるよな」
けっこうなんてものじゃない、と思いながら、直人に頷くことしかできなかった。
「じゃあ、どうする? 今日からやる?」
薄闇の中の女が微笑んだ。
「うん。そうだな。でも夜からじゃないとできないよな。おれは家を抜け出せるけど」
「あたしも、たぶん大丈夫だな」
「ぼ、ぼくは」
「まさか来ないわけないよね?」
奈緒子の久々の有無を言わせぬ言葉に、当然のように大きなゲップが出た。
「困りゲップしないでよ。わたしが強制してるみたいじゃん」
いつの間にか定着してしまった《困りゲップ》を非難する奈緒子。
「うん、大丈夫だと思う……」
「ほら、わたしずっと前に教えてあげたじゃん、部屋を抜け出す方法」
慎吾は、だいぶ前に奈緒子から教えてもらったその方法を思い浮かべて、成功する確率の低さを心中で嘆いた。
「敷き布団の上に丸めた毛布かなにかで人型を作り、掛け布団を被せて家人の目をごまかす」なんて方法がバレずにすむわけがない。
奈緒子のような特殊な家庭環境ならばそれも容易いのかもしれないけれど、慎吾の、あの厳しい両親が、そんな三文小説でも使わないような稚拙なトリックに騙されるとはとてもじゃないが思えない。
だがどちらが怖いかが問題だ。
両親からの痛みをともなう叱責か、この三人からの罵倒の嵐か。
無論のこと後者だ。
いくら叱られようが、両親との血のつながりは無くならない。だが、友情はすぐに切れてしまうクモの糸。
「友情は儚い陽炎のようなものなのかもしれない。だがそれでもオレはキミを信じるよ」と目羅博士は言っていたけれど、そんなカッコイイ言葉を信じる余裕なんてない。それに、結局その台詞のあった回で、目羅博士は友人だと信じていたトオノ君に裏切られたし、やっぱり友だちがいなくなるのは寂しい。
「……分かった。なんとかしてみるよ」
「やった! チャーがいないとつまんないもんね」
慎吾の気持ちを知ってか知らずか、安堵した奈緒子がホッと息を漏らした。
その永遠に見ていても飽きない笑顔を見ながら、自分と同じように奈緒子もまた宮瀨慎吾をかけがえのない存在として見てくれているようで、それだけが救いだった。