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直人が持ってきた、美容師が練習用に使う首だけのマネキンが、イヤに不気味で、慎吾は少し身震いした。
その横にはワチコと奈緒子が買ってきた、小ぶりの包丁と白いワンピース。
ベッドに並べられたそれらの物が、なぜか宝物みたいに思えた。
「チャーは、ちゃんと持ってきたのかよ?」
「う、うん。赤の絵の具だけ、五本も買ってきたよ」
慎吾は、自身の青いリュックサックから、水彩画用の太筆と水を入れる黄色いバケツ、それに小遣いをはたいて買ってきた赤色の絵の具を取りだして、ワンピースの横に並べた。
八月十一日。快晴。縁日まであと四日。
「じゃあ、さっそく作ろうぜ」
「う、うん」
とは言っても、実際の作業はワンピースへの色つけと、首だけのマネキンをナマクビのように細工することだけ。
ジャンケンでグループを決め、ワチコが慎吾とペアになった。
水を入れてきたペットボトルをリュックから取りだしてバケツに注ぐ慎吾に、
「じゃあ、一緒にやってても面白くないからさ、おれと奈緒子は屋上でやるわ」
と、いろいろな工作道具を胸に抱えた直人が言った。
「え、屋上って行けるの?」
「行けるよ。この前ワチコと一緒に探検してて行ったもん」
「ふうん」
「デブ、ナオちゃんがいなくなるのがイヤなんだろ?」
「そ、そんなことないよ。やめてよ」
「じゃあ、行こっか。完成したら見せるからね。チャーとワチコちゃんも頑張って」
胸に首だけのマネキンを抱えた奈緒子が、慎吾の気も知らずに微笑んだ。その姿がまるで未完成のバラバラ女に見えて、ふと背筋をヒヤリとしたものが撫でた。
「……あーあ、デブと一緒だとつまんねえよ」
「なんだよそれ、屋上に行きたいんならそうすればいいじゃん」
「……なんだよ、怒ったのか?」
「べつに怒ってないよ。ワチコの悪口には慣れてるから」
水気を極端に少なくした赤の絵の具を、敷かれた新聞紙の上に置いたワンピースに塗りながら、慎吾はワチコに言った。
今日は風もなくて、いつもなら涼しい207号室がとても不快だった。
「……デブさ、マサツグともう会ってないのか?」
「な、なに言ってんだよ、急に」
唐突にワチコの口から出た瀬戸正次の名前が、胸を抉る。
「マサツグ。会ってないの?」
「会ってないよ、会えるわけないじゃん」
「そっか」
ワチコがマットに座り、足を放り投げてつまらなそうに天井を仰いだ。
「……セト君のこと、気になるの?」
「うん、まあね。好きだったから」
信じがたいワチコの告白に、手がすべって筆をバケツの中に落としてしまい、撥ねた水がズボンに赤いシミを作った。
「あ、う、うん、す、好きだったんだ」
こんな話題に不慣れな慎吾は、平気でそんなことを言えるワチコに驚いて、上手い返しができなかった。
「この傷さ、覚えてるだろ?」
ワチコが、右のふくらはぎの古傷を慎吾に向けた。
それを見て、あの日の雨の臭いが鼻をくすぐった。
◆◆◆
小三の、エロ本を初めて読んだ日の、一ヶ月前のことだった。
その日は雨がイヤになるほど続いた土曜日で、四時間目の図工の授業を終えたクラスのみんなが帰り支度をしているときに、その事件は起こった。
その頃からすでにワチコはワチコと呼ばれていて、クラスの男子にあまり好意的には見られていなかった。
だが正次だけはちがって、ワチコと気軽にしゃべっていて、慎吾はそれが不思議でしょうがなかった。
「ねえ、セト君、行こうよ、アソコ」
「うん。じゃあまたなワチコ」
「なんだよデブ、まだあたしがしゃべってるだろ?」
「あ、うん、ごめん」
「ひどいなあワチコ。そんなんだからみんなに嫌われるんだよ」
「どうでもいいよ」
「よくないって。ワチコって、ちゃんとしゃべったら面白いんだから」
正次がワチコを見て笑い、そしてランドセルを背負った。
「なんだよ瀬戸、お前またワチコとしゃべってるのかよ!」
太一が遠くから、みんなに聞こえるように大声で正次をからかった。
「太一としゃべってるより面白いからね!」
その言葉を悪意と受け取らずに、正次が冗談で返す。
慎吾にはその正次の明るさや素直さが、いつも輝いて見えていた。
正次のようになりたかった。
誰にでも分け隔てなく接する正次のように。
そしてその正次が自分を一番の友だちとして扱ってくれるのが唯一の誇りでもあった。
「なんだよそれ、バカにしてんの?」
太一が自分のことを棚に上げて、正次に噛みついた。
「うるせえよバカ! お前バカだからバカなんだよ!」
ワチコがおかしな言い分で太一に怒鳴った。
急に声を荒げたワチコに正次も慎吾も驚いていたが、太一はその言葉が逆鱗に触れたらしく、威嚇するようにズンズンと足を踏み鳴らしながらワチコの前に立った。
「お前、殺す」
「やってみろよ!」
一歩も引かないワチコをただオロオロと見ていることしかできない慎吾は、横目で正次をチラと見やった。
「やめろよ二人とも。ワチコさっきからヘンだよ。どうしたんだよ?」
「お前は関係ないだろ」
正次の肩を押してどかす太一。
「なにすんだよ、このクソバカヤロウ!」
それを見ていたワチコがさらに声を荒げた。
ついに堪忍袋の緒が切れた太一が、思うさまワチコを突き飛ばした。
机の角に腰を打ちつけたワチコが、そのまま飛び散る彫刻刀とともに床に倒れ込んだ。
「イテエ!」
一本の彫刻刀がワチコのふくらはぎから生え、その根元から赤い筋が伝っていた。
ことの重大さに気づいた太一は、一つ舌打ちをして、悪びれもせず教室を出て行った。
ざわつく教室で、慎吾はどうすることもできずに、ただ突っ立っていることしかできなかった。
「大丈夫か、ワチコ」
「大丈夫じゃっ、ねえっ、よっ」
涙にむせびながら正次に答えるワチコ。
「わたし、成田先生呼んでくる」
紀子がそう言って、保健室へと走った。
それでも慎吾は、まだ動けなかった。
「ワチコ……」
差し伸べられた正次の手を振り払い、
「触んなよ! 見んなよ!」
と、鼻水まみれのワチコが喚きちらした。
言葉を失って、ただ心配そうな目でワチコを見つめている正次。
慎吾はその光景を見ていられなくなって、そっと窓の外へ目を逸らした。
いつもは活き活きと咲き誇る桜の花が、雨に打たれて萎れていた。
◆◆◆
「あのときさ、あたし、なんであんなに怒ったのか自分でもよく分からないんだよ」
古傷をさすりながら呟くワチコ。
「セト君がバカにされたのがイヤだったんじゃないの?」
「そうかな、分かんねえや。あのときにもう好きだったのかな?」
「それは……分からないけど。ぼくはワチコじゃないから」
純平に噛みついて額につけられた古傷が、かゆみ出していた。
たぶんワチコはあのときの自分と、おんなじ気持ちだったんだろう。
だがそのことをワチコには黙っていようと思い、慎吾は額の古傷を掻いた。
「でもマサツグのことが好きだって気づいたのは、もっともっと、あとだったんだよ」
「いつ?」
「小五の三学期」
「けっこう最近じゃん」
「あの時さ、マサツグって塾に行きだしただろ。純平とか紀子とかと同じとこ」
「セト君、アタマよかったからね」
「そんで、それから紀子と急に仲良くなっちゃってさ。あんまり話せなくなったんだよ」「うん。ぼくもそう」
「それがなんかムカついてさ。なんでこんなにムカつくのか、考えてたんだよずっと」
「うん」
「そんで気づいたんだよ、あたしはマサツグのことが好きなんだってさ」
「へえ、それでどうしたの?」
「どうもしねえよ、紀子には勝てないからな」
「でも、聞いたの?」
「なにを?」
「セト君にさ、その……紀子のこと好きなのかって」
「聞けるわけねえじゃんバカ。それに聞かなくても見てたら分かるし」
ワチコが、哀しく笑った。
「そ、そう?」
「そうだよ。デブはバカだから分かんなかったかもしれないけどみんな分かってたよ」
それを聞きながら、「本当にそうだろうか?」と慎吾は思う。てっきり紀子は直人のことが好きなんだろうなと思っていたから。
でも本当のところは分からない。鈍感な自分にはみんなの心の揺らぎを察することなんてできやしないのだ、と慎吾は思う。
「そんでさ、これはデブに言っとかなきゃいけないと思うんだけど、神社の」
「あ、サボってる!」
とつぜん現れた奈緒子が、二人を見とがめて眉間にシワを寄せた。
「あ、ごめん」
「なに話してたの?」
「い、言えないよ」
チラリとワチコを見ると、おかしそうに笑いを押し殺していた。
「言えないって……どうせわたしの悪口でしょ!」
「ち、ちがうよ。ていうか、なんで戻ってくるんだよ」
「忘れ物したの!」
奈緒子が怒り出した理由が、まったく分からなかった。
ベッドに転がるハサミを取り、慎吾を一睨みして、奈緒子はまた屋上に戻っていった。
「なんだよ、意味が分かんないよ…… で、なに?」
「ああ、もういいや。デブは関係ないからな。さっきの話もぜんぶ忘れろよ」
ワチコがいつもの最凶の笑顔を見せた。
「なんだよそれ?」
慎吾には、奈緒子とワチコの心がまるで分からなかった。