15
廃病院の二階、その廊下を車イスで全力疾走する直人が、突き当たりで止まり、腕時計でタイムを計る奈緒子を息を切らしながら見た。
「十二秒!」
「がああ、十秒の壁が越えられねえ!」
「あと少しじゃん」
「もう腕パンパン」
慎吾はそのやりとりを見ながら、タローたちに「オスワリ」の練習をさせていた。銀色の毛をした大型犬のシローだけが言うことを聞いて、尻を床に着ける。
ここで自分の言うことを聞いてくれるのは、シローだけだ。
舌を出し、潤んだ瞳でぢっと見つめてくる顔が、頬ずりしたくなるほど可愛らしい。
八月十日。快晴。縁日まであと五日。
もうあらかたの都市伝説スポットに行き尽くした感のある慎吾たちは、それからは暇を飽かして、それぞれ思い思いのことをしながら時間を潰していた。
マンネリといえばマンネリで、平穏といえば平穏で。
「今日も何も良いことがなかったと言って嘆くよりも、今日も何も悪いことがなかったと言って喜ぶほうがいくらか建設的だ。それが平凡というやつで、本当はそんな日々がいちばん幸せなんだ」とお父さんが言っていたのを思い出す。《建設的》の意味だけがよく分からないけれど、その言葉はなぜだか覚えている。
今この時が、その《平凡》というやつならば、確かに幸せなのかもしれない。
しかめ面をして腕をさする直人、それを見ながら全世界がとろけるような最高の笑顔を見せる奈緒子、それに207号室でクモに色々なエサを試しやりしながら全世界がのけ反るような最凶の笑顔を見せるワチコ。
これが切望していた楽しい夏休みなのかは分からなかったが、確かに、幸せだった。
「なあ、チャー」
「ん?」
「お前さ、もう他になんか面白い場所とか知らないの? もうおれ《限界への挑戦》は飽きたんだけど」
「えっと……」
「まだ十秒きってないよ。もう少しなんだから頑張りなよ」
「やだよ、もう飽きた」
車イスから立ち上がり、両腕をグルグルと回しながら207号室へと向かう直人。奈緒子とそのあとを追って部屋に入ると、ちょうど羽をむしった小バエをピンセットでつまんでガラス瓶に投入しようとしていたワチコが、その手を止めた。
「どっか行くのか?」
「行きてえんだけど、チャーがどこも知らないんだってさ」
「ご、ごめん」
「たまにはチャーじゃなくて直人君が提案すればいいじゃん」
「おれはなんも知りません。あー、暇だー」
直人が悪びれもせずに言い、マットに寝転がって、コドモみたいに足をバタつかせた。
「もうなんもないんならさ、自分らで作ればいいんじゃないの?」
「作るって、なにを?」
ワチコの言ってる意味が分からないながらも、イヤな予感がして慎吾は恐る恐るたずねた。
「だからさ、都市伝説だよ、都市伝説。それを作って町に広める遊び。あたしたちが作っちゃダメってわけじゃないだろ?」
直人が起き上がり、ワチコを尊敬の眼差しで見つめた。となりの奈緒子を見ると、彼女もまた瞳を輝かせてワチコを見つめていた。
たしかに目からウロコの発想の大転換だ。だけど作るってどうやって? また、なにか無茶をさせられるのではないかと思い、慎吾は久々に大きなゲップを一つした。
「お、出たな困りゲップ」
「だからやめてよそれ」
「でもさワチコちゃん、作るってどうやって?」
「どうやってって、なんかそれっぽいオハナシを作って、それをみんなに話せばいいんじゃないか?」
「えー、それだけじゃつまんねえよ。なんかホントに怖いバケモノ作って、みんなを怖がらせたほうが面白いじゃん。チャーってば、器用だからなんでも作れるぜ」
乗り気でもないうちに、責任者にされそうなピンチ。
「ちょ、ちょっと待ってよ。どっちにしろさ、そのオハナシってのがないと、どうしようもないでしょ?」
「だから今からそれを作るんだよ。ワチコ、そのノート貸せよ」
「あたしのは自由研究ノートだからダメだバーカ」
「あ、わたし持ってるよ」
奈緒子が、ベッドの上に置いてある、花の絵がいくつかあしらわれたリュックサックから、ピンクのノートと六角鉛筆を取り出して、そのままベッドに座った。トントン拍子に進んでゆく《都市伝説作り》という遊びに一抹の不安を感じながらも、どうせ抵抗したところで無駄だと思い直して、慎吾は直人のとなりに座った。
「まずはどうするの?」
「やっぱ名前からじゃねえかな。チャー、なんかないのかよ?」
「うんと、『ボコボコおじさん』ってどう? 人をボコボコにするオジサン」
「チンピラじゃねえかよ、却下」
「やっぱさ、『クモギラス』だろ。でっかいクモ。町を糸で埋め尽くす!」
「ワチコちゃんさ、それどうやって作るの? チャーでも、さすがに無理だと思うけど」
「奈緒子の言うとおり、却下」
「じゃあ、直人はどうなのさ。なんかあるの?」
「考え中」
「なんだよそれ、ズルいよ。奈緒子はなんかないの?」
「そうねー、じゃあ『バラバラ女』ってどう? 人をバラバラにするオジ、女の人」
「ちょっと待って、いまオジサンって言いかけたよね? 『ボコボコおじさん』のパクりじゃ」
「あー、でもそれイイじゃん。ナオちゃんやっぱすごいな」
「だから今オジサンて」
「じゃあ、それで決まりな! 作れそうだし」
「オジ」
「じゃあ、書きまーす」
奈緒子がノートを見開きにして、その左上に《バラバラ女》と書き記した。
キラキラとした流麗な文字と、穏やかでない内容とのギャップが異様で、ますます不安が募る。
「んで、つぎはなに? どういうことをするかとか決めんの?」
「そうだな、すげえ怖いこと考えよう! クモみたいに町を糸で」
「み、見た目とかってこと?」
「そうだな、じゃあ奈緒子みたいに白いワンピースで立ってるってどう?」
「それいい! ぼくもそれ賛成!」
「ヤダ、わたしだと思われるじゃん」
「思わねえって誰も。その役ワチコにさせればいいじゃん」
「バカかお前。あたしがやってどうすんだよ」
「ホント、ワチコってば口悪いよなあ。冗談じゃん」
「ワチコちゃん、バカって言葉を使うのはいいけど、ホントにムカつく人がいたら、そのときは、なんて言うつもり?」
「そのときは、『このクソバカヤロウ』だよ」
「あ、あんまり変ってないじゃん」
「うるせえな、このクソバカヤロウ!」
「アハハ、わたしもいつか使ってみようかな」
「ワワチコの真似なんかしない方がいいよ。それよりさ、やっぱワンピースはいいけど、白いのは、あんまり怖くないとぼく思うんだ」
「そうそう、チャーの言うとおりだよね。わたしなら、赤いワンピースにするけど」
「奈緒子って赤いワンピース持ってんの?」
「ない。白いのならいっぱいあるから、それ持ってきて絵の具とかで赤に塗ればいいじゃん」
「ナオちゃん、なんでそんなにいっぱいワンピース持ってんの?」
「それは……いいじゃん、べつに」
「そ、そうだよ。あ、そうだ。どうせ赤色にするならさ、『血塗れナース』みたく血だらけってことにしない?」
「お、それいいね。チャーって、たまにいいこと言うよな」
「たまにだけどな」
「たまにね」
奈緒子がノートに《①バラバラ女は血だらけのワンピースを着ている》と書き記した。
「じゃあ、次はどうするの?」
「そうだな、血だらけのワンピースだけじゃ、あんま面白くないから、もっとショーゲキテキな見た目にしようぜ」
「あたしいいこと考えたぞ。ナマクビを手に持ってるってのはどうだ?」
「ちょっとワチコ、ぼく、ナマクビなんて作れないよ」
「それわたしもいいと思う。怖すぎるけど」
「でもそんくらいのショーゲキがあった方がいいよな。作り方はあとで考えるとして」
「理由は? ナマクビを持ってる理由はどうするの?」
「理由なんてどうでもいいよ。チャーって細かすぎんだよな」
「でもわたしも理由は必要だと思うなあ。じゃあこうしない? バラバラ女はまだ人間だったころに誰かに殺されて、その犯人をバラバラにしたの。それでその犯人のナマクビを持ってるの。いいでしょ、これ」
「うーん、でもなあ、ムカつくほど憎んでたヤツのナマクビを大事に持ってるかなあ。逆にさ、すっげえ好きだった人のナマクビを持ってることにした方が面白くないか?」
「こ、恋人のとかってこと? いいと思うよ、それ。メチャクチャ怖いじゃん」
「だろ? じゃあおれのアイディア採用」
「えー、でも好きだった人のこと殺すかな、普通。わたしはそんなこと考えらんない」
「ナオちゃん分かってないな、そういうバケモノは意味が分かんないから怖いんだよ」
「じゃあ、うん、それでいっか」
奈緒子がまだ納得がいかぬという顔を作りながら《②バラバラ女は好きな人の生首を持っている?》とノートに書き記した。?マークがせめてもの抵抗らしく、その文字が無性に可愛らしかった。
「次は武器だろ、武器」
「武器ってなんだよ? 直人お前、バラバラ女を誰かと戦わせる気か?」
「だってさ、人をバラバラにするんだろ? じゃあ、なにか持ってなきゃ」
「ああ、そういうことね、じゃああたしがテーアンするのはでっかい斧だな」
「斧を持ってナマクビも持ってるの? ヘンなの」
「黙れデブ!」
「ごめんなさい。肩パンはやめて下さい!」
「そこはさ、どこにでもありそうなものにした方がいいとわたしは思うな。包丁とかそういう方が、本当にいそうで怖いと思うけど」
「包丁か、それいいね。おれもそれに賛成。痛さが想像できそうだもんな」
「じゃあ、包丁にしまーす」
《③バラバラ女は片手に包丁を持っている》と書き記す奈緒子。
ワチコが無理矢理その下に《④もしくはオノ》と書かせた。
「でもさ、バラバラ女はさ、誰をバラバラにするわけ?」
「チャーを」
「や、やめてよ」
「ビビんなよ。おれはあれだな、夜、一人で歩いてる人をバラッバランにするのがいい」
「えー、突然そんなことするの? それってなんか反則なような気がするな、わたしは」
「ぼく思うんだけどさ、バラバラ女はまず歩いてる人に話しかけてさ、質問とかするの」
「おー、それいいな。なんか、ぽいよそれ、ぽい」
「どんな質問にする? 『あなたはバラバラになりたいですか?』とかそういう感じ?」
「奈緒子それ単純すぎ。そんなもん、誰でもイヤに決まってるじゃん」
「例えばじゃん。じゃあ直人君は良いアイディアあるの?」
「考え中」
「なにそれー、逃げるのウマイなあ、直人」
「あれがいいんじゃないのか、ほら前にナオちゃんが言ってた『ヘビとクモ』のやつ」
「あ、それいいね。ぼく、ワチコに賛成」
「どっちかが好きなら助かるわけ? それつまんねえよ、二分の一じゃん」
「じゃあチャーみたいにさ、どっちも嫌いって答えた人が助かることにしよっか?」
「それ、ぽいぽいぽいぽい。難問だよな、普通はどっちか答えるもんな」
「じゃあ、ヘビって答えたヤツはすぐにバラバラにされて、クモって答えたヤツはそいつの家族が順番にバラバラにされていくのってどうだ? まるでクモのようにジワジワと追いつめていくのだ!」
「なんだよワチコ、お前そんなにクモっぽいことさせたいの?」
「でもそれ面白いよね。わたしはそれでいいと思うけど」
「ちょ、ちょっと待って、クモって答えた場合さ、最後はその人もバラバラにされちゃうわけ?」
「さあ、どっちが怖いんだろ? おれはどっちでもいいけど」
「あ、あたしいいこと考えたよ。クモって答えた人の家族が行方不明になって、それをその人が見つけるわけ。それでバラバラ死体の前で座り込んで泣いてたら、後ろから人影がー!」
「ギャアアアアッ!」
「うわ! もう急に大声出さないでよ直人」
「ハハハ、チャーてばホントにビビリだよな。でもさ、それいいよ。都市伝説って、大体そうやって、最後まで教えてくれないもんだもんな」
「じゃ、じゃあさ、うしろに人影が現れたらバラの香りがするってどう?」
「デブお前それダジャレじゃねえの?」
「でもそのほうが怖くない?」
「わたしもそれいいと思う。だってバラの香りってイヤじゃない?」
「でもおれ、バラの香りって嗅いだことねえよ」
「バカだな直人。ナオちゃんからしてるニオイってのがそうだよ」
「え、そうなの? 奈緒子って香水とかつけてんの?」
「そんなわけないじゃん。家でバラのお香を焚いてるから」
「へえ、オシャレだなあ、奈緒子んチ」
「わたしのことはどうでもいいでしょ。それでどうするの、バラの香りは?」
「いいんじゃねえの、そのほうが怖いんなら。おれはよく分からないけど」
こうしてノートに《⑤バラバラ女は、「ヘビが好きかクモが好きか」という質問をしてくる》《⑥ヘビと答えた人はその場でバラバラにされて殺される》《⑦クモと答えた場合、その人の家族がさらわれてバラバラにされる》《⑧そして、質問をされた人がそのバラバラ死体を見つけて泣いていると、うしろからバラの香りがただよってきて黒い人影が現れる》という項目が書き足された。
「こんなもんか」
直人が言い、
「うん、そうだね。あんまりごちゃごちゃさせても流行らないよ」
奈緒子が応え、
「じゃあ、まとめようぜ」
ワチコが鼻を鳴らし、
「うん」
慎吾は頷いた――
『バラバラ女』
ある日、一人の女が何者かによって殺された。
その女はいつも白いワンピースを着ていたが、殺されたときその白いワンピースが血で赤く染まった。
その女には好きな人がいた。だけどそれは片想いで、男の方はその想いに気づいていなかった。女は死んで《バラバラ女》というバケモノに生まれ変わり、その好きだった男を殺してバラバラにして、「これでいつまでも一緒ね」と言ってその生首を胸に抱えた。
そして次にバラバラ女は、自分を殺した犯人のもとへと向かう。
「ヘビとクモのどちらがお好きですか?」
とバラバラ女は犯人に聞いた。
「クモ」と答える犯人にバラバラ女は微笑んだ。
望んだとおりだったから。
バラバラ女はヘビと答えたらすぐにその犯人をバラバラにするつもりだった。だけどクモと答えた場合は、犯人の家族を順々にバラバラにするつもりで、そのほうが復讐がいっぱいできるから嬉しかった。
バラバラ女は犯人の家族を順々にさらってバラバラにしていった。犯人は町を探し回って家族のバラバラ死体を見つけて絶望して泣いた。
その後ろに人影が現れた。そして周りにはバラの香りがいっぱいになった。
犯人は自分の罪を後悔して、そして観念した。
犯人をバラバラにしたバラバラ女は、それでも飽きたらずに自分を助けてくれなかった世界中の人間をバラバラにしてやろうと思っている。
バラバラ女は夜な夜な街角に立ち、道行く人に、
「ヘビとクモのどちらがお好きですか?」
と質問する。
ヘビと答えたらすぐにバラバラにされてしまい、クモと答えたら家族をバラバラにされてから最後にバラバラにされる。
助かる方法は一つ。
それは、「両方とも嫌いだ」と答えることである。
――奈緒子がノートに書いた『バラバラ女』のおぞましいストーリーに肌が粟立つのを感じながらも、その出来に嘆息せずにはいられなかった。
「すごいね、これ。うん、ホントすごい」
興奮を抑えきれずにそう呟いた慎吾は、みんな同じように満足げな顔をしているのを確認して、胸がくすぐったくなるような高揚感を覚えた。
もしこの『バラバラ女』が本当にこの町で流行って、子どもたちがそこかしこで恐怖におののきながら話す光景を想像するだにおかしくてたまらない。それを作ったのがここにいる四人で、その事実を知っているのもこの四人だけ。
夢のような秘密。
そしてそれを共有することで、より四人の結束が強まるのだという期待。
みんなでバンザイ三唱をしたい気分になった慎吾は、そこではたと重要なことを思い出した。
「えっとさ、この話はすごい面白いと思うんだけどさ、ホントにコレを作るの?」
「当ったり前じゃん。そのために考えたんだから」
直人が慎吾をいつものように小バカにする。
「ナマクビってどうやって作るの? それと包丁は?」
「包丁は、誰かが買ってくればいいんじゃねえの?」
「じゃあ、包丁はあたしとナオちゃんで買ってくるよ」
「え、わたしも?」
「そのほうがさ、家庭科で使うとか言って、買いやすいじゃん」
「あ、そっか。ワチコちゃんアタマいいね」
「こういうときだけな。直人はあれだ、美容室から首のニンギョー持ってこいよ」
「お前、そんなこと言うけどさ、おれの母ちゃん怖いんだぜ。美容室のモノに触ったら殺されるよ絶対」
「使ってないのあるだろ」
「うん、まあ探してみるけど」
「ぼくはどうすればいいの?」
「デブはナオちゃんが持ってくるワンピースを、いい感じで血だらけにするっていう重大な使命があるだろ。それがいちばん難しいんだからな。覚悟しとけよ」
ワチコに脅されているような気がして、慎吾は大量の脇汗が袖を濡らすのを感じた。