14
淀んだ川面を眺めながら、慎吾は、ため息を吐いた。
臭い。
こんなどぶ川を見つめていても、なにも起こらないのは分かりきっている。
それなのに、横の奈緒子や直人やワチコは、転落防止の若草色の手すりから身を乗り出して、真剣にドクロネズミを探している。
自分よりもアタマの良い三人のその行動に、慎吾は笑いをこらえきれなくて、思わず吹き出した。
「なんだよ、なにがおかしいんだよデブ」
「みんなマジメに見てるのが、ちょっとおかしくて。ワチコなんて、口が開いてたよ」
お決まりの肩パンをうけて、肩が今日もジンジン痛む。
だがそれすらもおかしかった。
「やっぱいないのかなあ」
意気消沈とした奈緒子が、手すりから離れ、手についた土埃を払った。
その横の直人は、まだ諦めずに川面を眺めている。
「でもさ、川の中にいるっていうか、河原とかにいると思うんだけど」
「そこってここからけっこう歩くんでしょ?」
「うん、まあそうだけど」
「……あ、ほらあれドクロネズミ!」
直人が指さす先に、黒い影が浮いていた。川面をたゆたいながら流れてくるそれは、生きているものにはとても見えなかった。ちょうど眼下に来たときによくよく見てみると、果たしてそれは黒いゴミ袋だった。
それを見て落胆した直人がネットリとしたツバを垂らし、それが糸を引いて、濁るどぶ川とつながった。
「汚えなー、なにやってんだよ」
声を荒げるワチコの仏頂面が、ふたたび慎吾の笑いを誘い、奈緒子もまた顔を綻ばせた。
「あー、ホントにいたら、捕まえて自由研究に使おうとか思ってたのに」
口をぬぐいながら、悔しそうに言う直人。
「まだお前、自由研究やってないのかよ」
「考えるのめんどくせえじゃん。ワチコみたいにクモの研究するなんてイヤだし」
「これか?」
ワチコが紙袋からガラス瓶を取りだして、直人の顔に近づけた。
「や、やめろよ。ていうか、なんで持ってくるんだよ、置いてこいよ」
「犬に食われたらかわいそうだろ」
「タローたちはそんなことしないよ、ワチコちゃん」
「そうかな。でもだって食べたくなるくらい可愛いぜ」
ワチコがガラス瓶を撫でながら笑うと、巣の中央のクモがその愛情に応えるように長い足を少し動かした。
その時、手すりに背をあずけて並ぶ四人の前に、けたたましい金切り音を上げて一台の自転車が止まった。
「なにやってんんだよ、お前ら」
太一だった。日焼けした鼻の皮が剥けている。そして、なぜか後部のアルミ座席にはショートパンツ姿の紀子が、うしろ向きで跨がっていた。
「ドクロネズミを探してたの」
奈緒子がこともなげに答える。
「へえ、ヒマジンなんだな、お前ら」
太一が、奈緒子ではなく、慎吾を見ながら言った。
その目が怖い。
「いた?」
笑顔で直人に訊く紀子。
「べつにいいじゃん、お前らには関係ないよ」
直人がそっぽを向いて面倒くさそうにため息を吐いた。
「えー、ひどい。教えてくれてもいいじゃん」
笑いながら言う紀子。その顔が、なぜか少しだけ哀しそうに見えた。
「い、いなかったよ」
慎吾はいたたまれずに口を挟み、すぐにそんな自分を後悔した。
「あ、やっぱりいなかったんだ。でも、直人にワチコにチャーに山下さんってなんか変な組み合わせ。そんな仲良かったんだ?」
「お前だって太一とそんな仲良かったっけ?」
「べつに……仲が良いっていうか、塾まで乗せてもらってるだけだから」
「太一って塾とか行ってるんだな、バカなのに」
無神経なワチコの言葉。
「うるせえな、夏期講習だけだよ」
太一が奈緒子をチラと見て、すぐにまた慎吾を睨みつけた。
「山下さんは来ないの?」
「うん、わたしは普通の中学でいいから」
「ふーん、頭いいのにもったいないよ……直人だってワチコだってホントは頭いいんだから、来ればいいのに」
自分だけ名前を挙げられなかったことに萎縮しながら川に目をやると、そこに、最悪のタイミングで川面から顔を出した大きなネズミが、不格好に泳いでいる姿が見えた。その背中の黒いドクロ模様が不気味に笑っているようで、慎吾は少し身震いしたが、このおかしな雰囲気で、そのことを誰にも伝えることができない。
「夏期講習だけの人もいっぱいいるのに。次郎とか学とかもそうだし。純平は、ずっといるけどね」
「あいつ勉強が趣味だからな」
太一が笑う。
「そうそう、それに純平って、最近は夜まで残って勉強してるんだよ。わたしはそこまではできないなあ」
「おれは行かねえよ。勉強とかどうでもいいし」
「そう、じゃあしょうがないね…… あ、そうだ、縁日は行くの?」
「さあ。あんまり行く気しないけど」
「縁日があるの? 行きたいね、みんなで」
奈緒子が目をランランと輝かせた。
「でもべつに面白くないぜ」
ワチコがそれに応える。
「また意地張っちゃって。ワチコちゃんも行こうよ」
「……行こうぜ、縁日」
直人が一瞬、紀子を見て奈緒子に言った。
「じゃあ決まりね。チャーも行けるでしょ?」
「う、うん」
破顔する奈緒子。
その透きとおるような笑顔に、太一が見惚れている。
「……じゃあ、縁日で会えたらいいね。ごめん、もう行かなきゃ」
「べつに引き留めてねえよ」
なんで、直人が紀子に冷たく当たるのかよく分からなかった。
紀子が口をとがらせて太一の背に頭をもたせかけた。
ハンドルを掴む太一の手が硬くなるのを、慎吾は見逃さなかった。
あんなに怖かった太一も、本当は自分と変わらない人間なんだなと思い、それが無性におかしくて、慎吾はうつむいて笑いを押し殺した。
「じゃあ、バイバイ。行こう」
「ああ。じゃあ」
自転車が走り出し、すぐに小さくなっていった。
手を振る紀子に、奈緒子以外の三人は応えなかった。
「仲いいね、あの二人」
手を下ろして、羨ましそうに言う奈緒子に、
「……紀子は、誰とでも仲いいからな」
と、不機嫌そうに直人が応えた。
「でも直人君、沢田さんになんか冷たかったね」
「べつに」
奈緒子が含み笑いを浮かべ、手を頭上に組んで、気持ちよさそうに体を伸ばした。
「えっと……あのさ、ドクロネズミいたんだけど」
「え?」
慎吾に言われて三人が慌てて川を見た。
しかしすでにドクロネズミの姿はなかった。
「ホントにいたのかよ?」
「ホ、ホントだよ。さっき泳いでたんだから。みんながしゃべってたとき」
「なんで、そのとき言わないんだよ?」
「言えないよ」
「だからなんでだよ?」
「あーもう、二人ってすぐケンカになるね」
奈緒子があきれ顔で仲裁に入る。
「でもだってチャーが」
「いいじゃんどっちでも。わたしは信じるけど」
「ナオちゃんデブに優しいな」
「だって友だちだもん」
その言葉を、一生の宝物にしようと慎吾は胸に刻み込んだ。
「……まあ、どうでもいっか。これからどうする?」
「わたしはまた病院に戻りたいけど」
「じゃあ、ぼくも」
「そっか、じゃあチャーはおれとキャッチボールの練習な」
「う、うん」
「あたしも病院に戻るよ」
「ワチコちゃんってこれから行くとこあるんじゃないの?」
「病院にノートとか忘れてきたからな」
「なんでそっち忘れんだよお前」
「生き物は大切にって町山先生も言ってたろ」
「ぼくは殴るのに?」
「デブはいいんだよ」
本日二発目の肩パン。もう慣れた。
慎吾はこの他愛のない会話がとても好きだった。
とても心地よいリズムで心の裡に渦巻く孤独感を溶かしていくから。
「よし、じゃあみんなで病院まで競走しようよ。それー!」
なんだか嬉しくて楽しくて、思わず走り出していた。
額の玉のような汗を拭って「ぼくが一番だ」と思いながら振り向くと、他の三人はまださっきの場所にいて、苦笑しながら慎吾を見ていた。
いつもの空回りも、今は楽しかった。