13
秘密基地は、正確には廃病院の207号室だけで、四人はその他の場所にほとんど立ち入ることはなかった。五階建ての建物は、ロの字型で、真ん中に空いたスペースは中庭になっており、今では膝丈ほどの雑草がまばらに群生する、荒れ果てた様相を呈している。
そこで、慎吾は直人とキャッチボールをしていた。
ジローが楽しそうに走り回って、行きつ戻りつするボールを追いかけている。
意地悪にも高く投げられたボールを、うしろ向きで追った慎吾は、足をぬかるみに取られてそのままあおむけに倒れ、緑の敷布が、その巨体を優しく受け止めた。
捕り手を失ったボールが地面に二度跳ねて草むらに消え、夏草の香りで充満する四角い空が、ひどく窮屈なものに見えた。屋上の塗料が剥がれたまだら模様の鉄柵に「お前のいる世界はこんなに狭いんだ」と笑われているようで、ふと胸に言いようのない虚しさを覚える。
「いてて」
痛む右手を見ると、擦りむいて少し皮がむけていた。
「大丈夫か?」
直人がやって来て、呑気な声をかけてきた。
逆光で影になり、その表情はよく分からなかった。
差し出された直人の手を掴んで立ち上がった慎吾は、無言で擦りむいた右手を見せた。
「あー、ごめん。でもそんくらい大丈夫だろ」
直人の、心のこもらない言葉。
ボールをくわえたジローがやって来て、尾を振りながら直人にくわえたボールを渡した。ちょうど慎吾に尻を向けるようにしたその小型犬の黒ずんだ肛門が丸見えで、それがさらに、いらつきに火をくべる。
「ちゃんと謝ってよ」
「え? それくらいのケガで怒ってんの?」
「そうじゃなくてさ、直人の謝り方がおかしいって言ってんの! あんなボール捕れるわけないでしょ!」
「なんだよそれ。言っとくけどさ、チャーのボールだって、sぜんぜんおれのところに投げれてないぜ。お前、ジローとキャッチボールしてるのかよ?」
「う……」
一仕事を終えたジローが、舌を出してつぶらな瞳で慎吾を見つめている。
「それはどうなの?」
「……ごめん」
「べつにいいけど」
直人がもとの位置にもどり、今度は、慎吾に向けて一直線でボールを投げた。慌てながらそれを受け止め、そのコントロールの良さと自分の運動神経の無さを恨めしく思った。
「ここ。ちゃんと狙って投げてみろよ」
直人がしゃがんで、グローブを慎吾に向けた。
「無理だよ」
「無理じゃねえよ。お前、手で投げようとするから、ヘンな方向に行くんだぜ。肩とか、まあ全身を使って投げるイメージを持てば、誰だって投げれるんだって」
「でも無理だよ、ぼく、運動神経とかないし」
「あー、もう! ムリムリムリムリムリムリムリムリ! 無理とか言ってるからいつもなんでも無理なんだよ! やってみろって! ホントは器用なんだから、絶対できるって!」
直人ってこんな熱血人間だったっけ?
と、思いながら、慎吾は大きく深呼吸をして目標のグローブを見つめた。
遠くと思うな近くに感じろ。ぼくにはできるぼくにはできる。ほら、このボールだってまるで自分の体の一部。意志が通じてるような気がする。いや、通じている。ぼくの体はハガネだ。あ、ちがうハガネだと体が動かない。えっと……そうバネだ、バネ。ぼくの体はバネ。肩も腕も足も全部バネ。いける気がしてきた。ほら、直人のグローブだってそんなに遠くに見えないぞ。あそこにズバッと決まって煙とか出るような気がしてきた。そして奈緒子に「チャーすごい!」とか言われるんだ。デヘヘ。いけ! いくんだ宮瀨慎吾!
一瞬間に思考が渦巻き、慎吾の目はギラついた男のそれへと変貌していた。
「ふんっ!」
久々に出す腹の底からの声に乗って中空に放たれたボールが、勢いよく回転する。
「あ」
声を上げ、直人が左を向いた。その視線の先には、中庭への入り口にいつの間にか立っていた奈緒子の姿。そしてボールは、その白い両手にすっぽりと収まった。
「ナイスキャッチ!」
直人がバカにしたように言って、笑い声を上げた。少し気まずそうにする奈緒子が慎吾にボールを投げ返し、それがグローブに寸分たがわず命中した。
「大丈夫、もう一回やれば届くと思うよ!」
胸の前で握り拳を作る奈緒子の応援に、胸をかき乱される。また醜態をさらした。
まだいいところなんか一つも見せていないのに、マイナスポイントだけが増えていく。そもそもやりたくもないキャッチボールにつきあわされていることまで、イヤになっていた。
ホントにマジで最悪の最悪。
「……もういいや。やっぱりぼくには無理だよ」
「そんくらいで落ち込むなよ。さっきも言ったろ、チャーって本当は器用なんだから、やろうと思えば、なんでもできるんだって。ほら、もう一回」
グローブを拳で叩いて投球を催促する直人の、なんでも知ってるような口ぶりが、腹立たしかった。
「……なんで分かるんだよ?」
「は?」
「なんでいつも、直人はなんでも分かってるみたいな感じで言うんだよ」
「べつに、分かるもんは分かるじゃん」
「友だちでもなんでもないのに? バカみたい……」
恥ずかしさから直人を突き放しているのだと気づきながらも、その言葉を止めることができず、直人のとなりで哀しそうに見つめてくる奈緒子の顔を見られなかった。
「それ、本気で言ってんの?」
睨みつける直人の瞳には、奈緒子がときおり見せる哀しみのと同じ光が宿っていた。
「そうだよ。だって今までだって、そんなに仲良くなかったじゃん」
「ああ、そっか……奈緒子、今日って何月何日だっけ?」
「えっと、八月の五日」
「もう五日か。夏休みに入って、もう十日くらい経ってるんだなあ」
「う、うん」
直人の言葉に戸惑いながら、小さく頷く奈緒子。
「そうか、おれって、十日も友だちじゃないヤツとキャッチボールしてたのか。なんかすげえ無駄な時間を過ごした気分なんだけど、いま」
静かに暗く言った直人が、外したグローブを奈緒子に預けて、そのまま構内へと消えた。
慎吾は、それをただ黙って見ていることしかできなかった。
「なんであんなこと言うの? 信じらんない」
胸にグローブを抱えた奈緒子の白い目が、胸を抉る。
「だって……だってホントのことじゃないか」
「友だちじゃないってホントに思ってるの?」
「う……」
答えなんてそんなに簡単に出やしない。奈緒子にとって、直人はつきあいの浅い間柄でしかないのかもしれないが、慎吾にとってはちょっと前までバカにされてきた存在なのだ。それに邪推かもしれないが、直人はきっと奈緒子に会いにこの廃病院までやって来ているのにちがいないのだ。
そんなヤツとキャッチボールをしてても心が通じ合うなんて思えない。
「ねえ、ホントにそんなこと思ってるの?」
奈緒子の目が怖い。ゲップが出そうだった。
「な、奈緒子はどうなのさ?」
「なにそれ? チャーって、困ったらすぐ話を変えようとするよね」
「でも、どうなのさ?」
「友だちに決まってるでしょ。直人君だってワチコちゃんだって友だちだよ」
あっさりと言う奈緒子に対して、後ろ暗い感情を覚える。
いつの間にか、二人が「奈緒子」と「直人君」と呼び合う仲になってることも気にくわない。いま頭を掻きむしったら、絶対にごっそり髪の毛が抜ける。
ぼくはただのデブだ。関係ないけど。
「謝って来なよ」
「なんて?」
「なんでもいいから!」
「う、うん」
奈緒子の命令に突き動かされて207号室へ向かうと、その床に敷かれた、どこからか運んできたマットの上で、直人はふて寝をしていた。
一階から運んできた古びた車イスに座り、ベッドに丸い蓋つきのガラス瓶を置いて、その中にいるクモの姿をノートに写生していたワチコが、慎吾に気づく。
「なんだよデブ、もう帰るのか?」
「まだ帰らないけどさ、ちょっと直人に謝りたくて」
「あ……そう、ナオちゃんは下にいるのか?」
「うん」
ワチコが部屋を出て行った。
ワチコってあんな風に人に気を遣える娘だったっけ?
と、思いながら慎吾は直人に近寄った。
「なんだよ?」
目をつぶったままの直人がぶっきらぼうに言う。
「あの、ごめん」
「なにが?」
「さっきのこと、全部」
「いいよもう。べつに友だちじゃないんだろ?」
「ちがうよ、その、よく分かんないけど、さっきのは……」
そのあとに続く言葉が浮かばない。
直人になんて言えばいいんだろう?
「……ごめんな、おれいつもあんなだから」
「え?」
直人が、いつの間にか半身を起こして、慎吾を見ていた。
「分かってるんだよ、そういうのがおれの悪いとこだってさ」
視線を落とした直人が、つぶやき加減に独りごちる。
慎吾はそれを黙って聞いていた。
ここで一緒に遊ぶようになって、直人の色んな一面を見るようになった。つきあい始めるまでは本当にただのイヤなヤツでしかなかった直人が、少しだけいいヤツに思えてきていたのも事実。それにさっきの言葉だって本音なんだと思う。顔もかっこよくてオシャレでアタマもいい直人に、慎吾は、いや、クラス中の男子が嫉妬していたんじゃないかと思う。実際、直人のことが好きなんだろうなと思わせる女子がいっぱいいて、いくら鈍感な慎吾でも、そのことはひしひしと感じていた。
だからこその嫌悪感だったのかもしれない。
自分の卑屈と嫉妬心が今さらながらに恥ずかしかった。
たぶん、ここに直人が来るようになって、奈緒子とのあいだに、かないようもない強敵がズカズカと割って入ってきたような気になっていたのかもしれない。だがそれはきっと、間違っていたのだ。直人は本当にただ友だちが欲しかっただけなんだろうな、と今は思える。
自分と対極にいるはずの少年が感じる孤独は、実際のところ自分のそれとまったく同じものなのかもしれない。
「分かんないけどさ、ぼく、キャッチボール、がんばるよ」
「は? なんで急に……いや、いいや。やる気あんの?」
「あるよ。さっきのはほら、ちょっと恥ずかしくなっちゃったっていうか」
「ああ、奈緒子がいたからな」
「ち、ちがうよ。そんなんじゃないよ」
「いいよいいよ、分かってるから」
「だから、そういうとこ反省してたんじゃないの?」
「あ、そっか、そうだよな」
笑う直人。
慎吾もなぜだかおかしくなって、気づくと笑っていた。
ガラス瓶の中のクモがせっせと作る幾何学模様の巣が、夏の日差しに照らされてきらめいている。
直人が立ち上がり、窓から中庭を見下ろした。それに続いて中庭を見ると、奈緒子とワチコが、キャッキャと楽しそうにキャッチボールをしていた。
「……どっか行こうぜ」
「え?」
「またさ、都市伝説のあるとこに」
「う、うん。でもどこにする?」
「ほら言ってたじゃん、前。バケモノネズミが出るとかって場所」
「あ、『のいず川のドクロネズミ』のこと?」
「そうそうそれそれ」
直人が言う『のいず川のドクロネズミ』は、都市伝説と言うよりも、ただの目撃談だった。
そんなところに行っても、あのUFOを見たときのような不思議な体験をするとはとても思えない――
『のいず川のドクロネズミ』
この町にある野伊豆川。
最近そこで、猫ほどの大きさのネズミがたびたび目撃されているという。
そのネズミの背中には、ドクロ状の模様があるとかないとか言われている。
――直人が眼下の奈緒子たちに、
「おーい、今からのいず川に行こうぜ!」
と呼びかけた。
「なんでー?」
奈緒子が大声でそれに応える。
「ドクロネズミを捕まえに!」
奈緒子が慎吾を見た。
慎吾は笑顔で頷いて、胸の前で握り拳を作った。
それを見て奈緒子もおなじく握り拳を作った。
そして、直人もワチコも。
慎吾は空を見上げた。
四角く切り取られた空が、いまはもう窮屈には見えなかった。