12
平屋の木造住宅。
慎吾はそれを見ながら、ひとつの夢想が瓦解する音を聞いていた。
勝手ながら、奈緒子はもっと大きな、それこそマンガの中でしか見たことがないような大豪邸に住んでいて、爺やのお出迎えやなんかがあるように思っていた。
「お嬢様、紅茶とケーキのご用意ができています」とかが日常としてある世界。
大きな庭で、奈緒子が弾くバイオリンの音を聞きながら、口ひげをたくわえた父親がそれをキャンバスに写生しているような世界。
慎吾の住む世界から境界線をまたいだ先にある、夢と平和と愛にあふれるユートピア。
今までの短いつきあいの中で、奈緒子の家庭には、自分の立ち入れない何か後ろ暗いものがあるんだろうな、とは思っていたが、それでも慎吾は、奈緒子の家庭に漠然とした憧れを抱いていたのだ。
「さ、入って」
門扉をひらいて手招きをする奈緒子に促されて敷地に入ると、雑草が伸び放題の殺風景な庭が見えた。そこへ乱雑にうち捨てられた新聞のたばに、魚の骨がノドに引っかかった時のようなモヤモヤとした感覚が湧き出ていた。
十字にかけられたビニールひもが食い込む、いちばん上の新聞の見出しに書かれた《殺人事件》という文字が、頭の中でグルグルと回る。
「ただいま」
奈緒子が磨りガラスの引き戸を開き、薄暗い屋内に向かって言った。
「お邪魔します」
慎吾もそのあとに続き、タイル張りの三和土に足を踏み入れた。そこに一足の男モノの履き古された赤いシューズがあり、家人が中にいることを告げている。
「はいコレ」
奈緒子が、壁の帽子掛けから紫色の野球帽をふたつ外し、ひとつを慎吾に手渡した。
「えっと……」
「被って」
麦わら帽子を脱いでそれを帽子掛けに掛けた奈緒子が、申し訳なさそうに言って、自身も紫色の野球帽を被った。
「う、うん」
言われるがままに帽子を被り、少し窮屈に感じて、二、三度その位置を変えていると、
「うしろ向いて」
と、奈緒子が慎吾の両肩をつかみ半回転させた。
奈緒子に触れられると時が止まる。
直立不動で、心臓の祭り太鼓みたいな爆音を聞かれやしないかと思いながらぢっとしていると、奈緒子が帽子の調整ホックをいじって、ちょうどいい幅にしてくれた。
「ごめんね、変なことさせて」
謝る奈緒子の沈んだ声。
首筋にかかる柔らかな吐息が、心臓をさらに早く叩く。
「うん、でもなにコレ?」
「魔除けの帽子。家の中はコレ被ってなきゃいけないの」
「ふうん……」
それ以上つっこんで聞く気にはなれなかった。
いや、聞いてはいけないような気がしていた。
「じゃ、入ろ」
「うん」
靴を脱いで奈緒子のうしろについて歩きながら、慎吾は、壁や襖に張られた不思議な模様の絵をしげしげと眺めた。
「曼荼羅」
「え、マンダラ?」
「そう、曼荼羅。て言っても、コモダさんのオリジナルらしいけど」
極彩色のその絵には、中央に真っ赤な袈裟を着たえびす顔の僧侶が描かれていた。不気味でありながら力強いその曼荼羅に、慎吾はさらに不安を募らせる。
「お、ナオちゃんお帰り」
廊下の先、台所につながるドアが開き、不釣り合いな縄のれんをまくり上げた痩せぎすのオジサンが、口の端を上げて不自然な笑みを作った。斜視気味で目の焦点が合っていないそのオジサンは、頭に赤いハンチング帽を被り、赤いフランネルのシャツを羽織り、その裾を赤いチノパンに入れた、とても異様なかっこうをしていた。
「ただいま」
つれなく言い放ち、奈緒子はそのオジサンと目を合わせようともせずに、
「部屋、こっちだから」
と言って、右手にある引き戸を開いた。
「う、うん。お邪魔します」
いまだ微笑むオジサンに頭を下げて奈緒子の部屋に入ると、いつも奈緒子からほのかに漂うモノと同じ香りが、一層つよく鼻腔をくすぐった。
それがあまりにも強すぎて、慎吾は思わずむせた。
「ごめんね、ヒドイでしょ、バラの香り」
「ううん、大丈夫。へえ、バラの香りだったんだね」
「あ、やっぱりわたしも臭ってた? ごめんね、部屋にお香があってね、それをつけてないと、あのヒト怒るんだ。コレも魔除けなんだって、バカみたいでしょ?」
悲しみを隠した奈緒子の笑顔が、なんだか痛かった。
「いいよ。いい匂いじゃん。ぼくは好きだけど」
精一杯のウソを吐きながら、慎吾は部屋を見渡した。
なんにもない部屋だな、と慎吾は思う。
四方の壁に、例の曼荼羅が飾られているだけの、女の子らしいモノが一つもない部屋。
すみに置かれた勉強机だけが、逆に場違いに思える。
洋服箪笥の扉が少し開いていて、その中には白いワンピースがいくつも掛けられていた。
「ちょっと待っててね」
奈緒子が部屋を出て行った。
ひとり残され、所在なく部屋を歩き、勉強机に目をやると、机の上のクリアシートの中には、《邪悪体ヲ遠ザケル五ヶ条》と書かれた、小汚いわら半紙が入っていた。
一、外出時、邪悪体ノ入魂ヲ防グタメ、身体ヲ露出セザルガ吉ナリ
二、マタソノ折ニハ、護封色第二位色デアル《清白》ヲ身に纏ウガ最モ吉ナリ
三、室内ニオイテハ護封色第三位色デアル《天紫》ヲ纏ウガ吉ナリ
四、マタ部屋ノ四隅ニハ盛塩ヲ3~5センチ大ニシテスエルトナホ吉ナリ
五、マタ婦女子ノ場合、護封花デアル薔薇ノ薫香ヲ室内ニ充界サセルガ吉ナリ
以上ヲモッテシテモ必ズシモ邪悪体ヲ完全ニ遠ザケルコト能ワズ、入魂セシ折、護封色第一位色デアリマタ総覇色デモアル《覇赤》ヲモチイテ入魂者ノ身体カラ邪悪体ヲ追否サセルコトモデキルガ、コノ最終奥義デモアル《追否ノ儀》ハ功徳ヲ積ミシ聖悟師ニヨッテシカ執リ行ウコトガデキズ。
怖気が、走っていた。
見てはいけないものを見てしまったのではないかという、悔悟の念にからめ取られながら、部屋の四隅を見渡すと、盛塩があった。
一つ、大きなゲップが出た。
「大丈夫?」
グラスをふたつ乗せた丸盆を手に、奈緒子が戻ってきた。
どうやらゲップを聞かれたようである。
「う、うん。なんか、すごいね、奈緒子んチ」
「おかしいでしょ。全部コモダさんがやらせてるの」
「コモダさんって、あの、さっきの人?」
「そう」
座って慎吾にグラスを差し出しながら、奈緒子が答えた。
奈緒子に対座してグラスを覗くと、泡のはじける真っ黒な液体がナミナミと注がれていた。得体の知れないそれを飲むこともできず、手持ち無沙汰に、敷かれた座布団を撫でる慎吾の眼前で、奈緒子がゴクゴクとそれを飲んでゆく。喉仏のない透きとおるように白いノドが、異性であることをイヤでも意識させる。
「どうしたの? 飲みなよ」
「う、うん……でもこれ、なに?」
悲しみの光が、サッと奈緒子の瞳に宿った。
慎吾は、すぐにその無思慮な言葉を恥じ、
「あ、ごめん。ちがうんだ……」
と、謝るのが精一杯だった。
「怖いの? 大丈夫だよ、それただのコーラだから」
「あ、え、コーラ? コーラって、コーラ?」
「コーラって、コーラ」
呆ける慎吾に破顔する奈緒子の二重の瞳に、もう悲しみの光はなかった。
「じゃあ、いただきます」
少しためらいながらグラスを手に取り、恐る恐るそれを口に含んだ。知っている味が口内を駆け巡り、ノドに炭酸のつぶてを当てながら胃袋にすべり落ちていく。
「あー、ウマイ! やっぱり最高だな!」
「なにそれ、オジサンみたい」
慎吾の口癖に吹き出す奈緒子。
それを見て、慎吾もようやく笑うことができた。
「でもさ、あの人ってなんなの? お父さん、じゃないよね?」
「やめてよ、あのヒトはそんなんじゃないよ。お父さん……もう死んでるから」
耳を閉じたい。心に傷跡を残す真実なんて聞きたくなかった。
奈緒子に初めて会った日の、あの物憂げな顔が脳裏を過ぎる。
その謎が解けたような気がして、それなのに、心は何故かかき乱れていた。
「…………四年生の時にさ、お父さん交通事故で死んじゃって、わたしも、わたしもそのとき車に一緒に乗ってたんだけど、なんでか知らないけどちょっとした打撲だけだったんだ。お母さんは一緒じゃなかったんだけどさ、そのときお母さんって妊娠してたのね。でもショックで流産しちゃって、もともと体が弱かったってのもあると思うんだけど。それから少しおかしくなっちゃって、ううん、おかしくって言ってもべつに前とそんなに変わらなかったんだけど、それでもやっぱりなんかどっか、心だと思うんだけど、おかしくなっちゃったんじゃないかと思うの。前みたいに笑わなくなったし、わたし、お母さんの笑い声が好きだった、今でも好きなんだけど、それでもやっぱりあんまり笑わなくなったし、お父さんが死んじゃってから、お母さんってばちょっとのあいだは窓からボーッと空ばかり見てて、天国なんてここから見えないのにね、それがおかしくて、でも悲しくてさ、わたしも一緒にお母さんのそばで空ばっかり見てた。あの頃はよく分からないけど、しょっちゅう泣いてたな、わたし。それからさ、お母さんが急に元気になって、でもやっぱりあの笑い声が聞けなくて、なんでかな、とか思ってたら、あのヒトを連れてきたの。あのヒト、最初からあんな格好でさ、わたしも最初はビックリしたけど、それ以外はべつに普通だったのね。変なことはいっぱいさせられるけど、ほら、このワンピースだってあのヒトが、コレを着なさい、って言うから仕方なく着てるんだよね。最初はそれもイヤだったんだけど、そうしないとお母さんが怒るの。ジャアクタイは交通事故の時にどこかへ行っちゃったけど、まだ奈緒子を狙ってるんだから、とか言ってさ。その時のお母さんの目がね、おかしいの、わたしを見てるんだけど見えてないって言うか、よく分かんないけどそんな感じ。あのヒトと同じ、キモチワルイ濁った目をしてて、それでさ、わたし、分かったの。ああ、お母さんはもうわたしの知ってるお母さんじゃないんだって。それからさ、今まで友だちだったみんなに無視されるようになって、友だちのヒロミちゃんとかはそれでもしばらくはわたしと遊んでくれてたんだけど、その時にね、奈緒子のとこにいるあの変な人って変な宗教とかやってるの? とか言うの。わたしさ、なんて言ったらいいのか分からなくて笑ってごまかしたなあ。それからヒロミちゃんも遊んでくれなくなっちゃって、気づいたらわたし…………イジメられてたの。それで学校に行かなくなっちゃって、そしたらお母さんが、奈緒子はまたジャアクタイにニュウコンされたかもしれない、とか言ってさ、変な儀式とかいっぱいさせられたりして、それで、それでまあお母さんは満足したみたいでなんとかなったんだけど、あのヒトが、ナオちゃんのために、あのヒトわたしのこと、ナオちゃんって言うんだよ、イヤだよね。ワチコちゃんに言われてもなんとも思わないんだけど、あのヒトに言われたらなんかイヤでさ、うん、あ、ちがうなんの話だっけ? あ、そうそうあのヒトがさ、ナオちゃんのためにもこの町を出よう、とか言うの。わたしはイヤだったんだけど、お母さんはあのヒトの言いなりだからすぐに引っ越しが決まっちゃって。それでさ、この町へ来たの。この家もね、あのヒトの知り合いの家なんだって。あのヒトの知り合いって沢山いてさ、時々ここに集まったりして、変な呪文っていうかお経っていうかずっと言ったりしてるの。なんだったかな、ケルビムの炎がマリシテンにナントカカントカ、とかね、そういう感じ。ナオちゃんにはまだ早い、とかあのヒトが言うからわたしはまだその中にいないけど、大きくなってもわたしは絶対に参加しないって決めてるんだ。だってそうでしょ、バカみたい。わたしは大人になったら日本から飛び出して世界中を旅したいんだ。フランスとかイタリアとかドイツとか、あ、全部ヨーロッパだけど他の国も行きたいな。とにかくあのヒトとか集まってくる変な人とかと一緒にいたくないの。べつに何かされたわけじゃないけど、あのヒトね、時々、わたしをぢいっと見てくることがあるの。それが本当にキモチワルクて。それから笑って、ナオちゃんは可愛いね本当に天使みたいだね、ジュンケツがシコウだよ、とか言うの。それもお母さんがいないときにしか言わないから、わたしあのヒトと二人になるのがイヤなの。だけどお母さんは仕事で夜にしか帰ってこないからさ、あのヒトなんでか分かんないけどずっと家にいるしね。わたし、だから本当にチャーと友だちになれて良かったって思ってる。それに今日からワチコちゃんと林君もいるし。今は、お父さんが買ってくれたこの腕時計とみんながわたしの味方なの。この時計もね、男子のヤツだからお父さんにもらったときはイヤで着けてなかったんだけどね。やっぱり、なんでかな、今はコレがないと不安になるんだ」
心の底からあふれ出す、今までため込んでいたのであろう奈緒子の長い独白を、無言で頷くことしかできずに聞き終えた慎吾は、ようやく話し終え、大きく深呼吸をする奈緒子を見ていることができなくて、グラスに目を落とした。
泡は、もうはじけていなかった。
「……そうなんだ。よく分かんないけど、ぼくは……ぼくはずっと友だちだからね」
「うん。ありがと……」
「……」
「……」
「……」
「……」
なにも話すことがない。聞きたかったことや聞きたくなかったことを、奈緒子はすべてしゃべってしまった。それに応えるだけの悲しみを背負っていないことが、なぜか恨めしかった。「ぼくも一緒だよ」なんて、口が裂けても言えやしない。
口を開かないのは奈緒子も一緒で、もしかしたら全てをしゃべってしまったことを後悔しているのかな、と思いながらそっと窺うと、うつむいたままの奈緒子は、グラスについた水滴を人差し指でなぞっていた。この家でないどこかから、風鈴の涼やかな鈴音がかすかに聞こえてくる。
「……あ、そうだ。お父さんの写真とか見る?」
奈緒子が立ち上がって机まで行き、そのいちばん上の引き出しを開けた。脳裏を、あの『金田鉄雄の家』の机の引き出しの中の光景が過ぎる。それを振り払って、慎吾も奈緒子のもとへと近寄った。
「ほら、お父さん」
奈緒子が取りだしたのは、アルミ製の写真立てだった。
その中には、まだもっと小さかった頃の奈緒子と一人の太ったオジサンのツーショット写真が飾られていた。オジサンは満面に笑みを浮かべ、そのTシャツの裾を掴むショートヘアーの奈緒子も、あどけない笑みを浮かべながらピースサインをしていた。
「うん……」
それしか言えなかった。
他に掛ける言葉が見つからない。
「……あ、そうそう、《都市伝説コレクション》も見る?」
ヤケに明るく言った奈緒子が、一番下の大きい引き出しを開け、目顔でその中を見るように促した。
「う、うん」
中には、薄汚れた聴診器と赤錆びた五寸釘だけが無造作にころがり、奈緒子のこの町での思い出が少ないことが、手に取るように分かった。奈緒子のためにも、この思い出の空間をいっぱいにしてあげたいと思いながらも、果たしてそれをしてやれるのかと、慎吾は不安になった。
「これも今日から仲間入り!」
ポーチから取り出したグレートマンシールを引き出しの中に入れた奈緒子が、
「どう、すごいでしょ?」
と言って、ニッと白い歯を見せた。
キレイに並ぶ純白を見ながら、ふと、奈緒子はもしかしたら自分とおなじで、あの透明な壁のこちら側でみんなを見ているのかもしれない、と慎吾は思う。
「ただいま」
玄関から女の人の声がし、奈緒子が腕時計を見た。
もう七時を回り、よく見ると部屋の中も薄暗くなっていた。
「ごめん、お母さん帰って来ちゃった」
「うん、じゃあもう帰ろうかな」
慎吾は残ったコーラを一気に飲み干した。 ぬるくて気の抜けた液体に「早く帰れ」と言われているような気がして、胸が苦しかった。
引き戸が開き、オバサンになった奈緒子――のように錯覚するほど、よく似た雰囲気の大人の女性――が顔を覗かせた。
長袖の白いブラウスに、白いスラックス、そして頭には、紫色の野球帽。
たまらず目を逸らし、奈緒子が自分のTシャツの裾を掴んでいるのに気づいた。
「あら、お友だち?」
「こ、こんばんわ」
「こんばんわ」
「宮瀨慎吾くん。学校で一緒のクラスなの」
「そう。この娘、ちょっと変わってるけど、よろしくね」
「あ、はい」
「ごはんは、もう食べた?」
「あ、まだです」
「よかったら食べてく?」
「あ、えーと」
「もう帰るから、宮瀨君。ね?」
「うん。そうです。帰るんだったんです。帰ります」
「そう。またいつでも遊びに来てね」
「は、はい」
「行こ」
奈緒子が裾を引っ張って無理矢理に歩かせた。敷居をまたいで奈緒子のお母さんとすれちがうと、かすかに奈緒子と同じバラの香りが鼻をくすぐった。
玄関までやって来た奈緒子と慎吾は、しばらく無言でいて、
「じゃあ、またね」
「うん。また明日」
とだけ言葉を交わして、慎吾は奈緒子の家を後にした。
すっかり夜の帳の降りた細道を歩いていると、雨が降り出してきた。
カサを借りるのを忘れたな、と思いながら夜空を見上げると、そぼ降る雨が街灯に照らされて、バカみたいにキレイだった。
その下で、二匹の蛾が踊っていた。