10
住宅街の一角にある、色を失った廃屋。
その前に立つと、テスト用紙を目の前にしたときよりも不安になった。
直人とワチコはなぜだか笑っていて、麦わら帽子に顔が隠れた奈緒子の、その表情は分からなかった。
「早く入ろうぜ、誰かに見つかったら、怒られるし」
直人が、まともなことを言う。
最初に動いたのは、意外にも奈緒子だった。
赤茶けた柵の扉を押し開け、なんのためらいもなく、敷地の中へ入っていく。
その光景にしばし呆けていた三人も、そのあとに続いた。
玄関のドアはなぜか開いていて、直人が「きっと肝試しに来た誰かが、中から開けたんだろ」と言った。家の中に最初に入ったのは、ワチコだった。こういうときワチコは頼りになるのかもしれないな、と思いながら、慎吾はまだすこし躊躇していた。
「じゃ、お先」
直人がワチコに続く。
タイミングを失って、チラと奈緒子を見ると、今まで目を合わせてくれなかった奈緒子が、慎吾をぢっと見つめていた。
耐えきれず目を逸らし、すぐにまた奈緒子を見て、
「怖いの?」
と、慎吾は冗談めかした。
「チャーだって怖いんじゃない?」
「ぼくは……ぼくは平気さ。怖くないよ」
「じゃ、先に行ってよ」
奈緒子がやっと微笑んでくれた。
その笑顔で、ようやく今日がはじまったような気がして、太陽がまぶしかった。
「じゃあ、先に行くよ」
「うん」
慎吾の言葉に応えた奈緒子の声色は、すっかりいつものそれになっていた。
慎吾は、意を決して蒸した廃屋へと足を踏み入れた。
奈緒子がそのあとに続く。
中に入ってまず最初に目に入ったのは、埃だらけの靴箱の上に乗る、水の涸れた水槽だった。下に敷かれた砂利に、得体の知れない小動物のミイラ化した死骸が転がっている。
その横の赤べこの張り子が、不気味なリズムで首を揺らしていた。
たぶん、直人かワチコの、どちらかが揺らしたのだろう。
奈緒子の静かな息遣いを背に感じながら、靴も脱がずに上がりかまちに足をかける。
玄関は、薄暗い廊下に続いていた。
壁に掛けられたいくつかの額縁のガラスがすべて割れている。
慎吾は一呼吸してから、廊下をゆっくりと歩き出した。ギッ、と廊下を踏みならす音が後ろから聞こえ、奈緒子もあとをついてくるのが分かる。
廊下のすぐそこには、階上へと上がる灰色の絨毯敷きの階段があって、二階のようすは深い闇に閉ざされて分からなかった。
暑くて、押しつぶされそうになる。
怖くて、押しつぶされそうになる。
開け放されたトイレの、磨りガラスの小窓から射し込む陽光が、ひどく頼りなかった。
不意にTシャツをなにかが引っ張った。ギョッとして振り返ると、奈緒子がその裾を掴んでいた。
慎吾は額の汗を拭い、ゆっくりと歩を進めた。
廊下の先には、リビングへと続くのだろうドアがあって、その木目のいくつかが、人の、亡霊の顔に見えた。
ドアノブが、遠くに感じる。
しかしそれを開けなければ、目的の場所にはたどり着けない。
意を決してドアノブを掴み、ヒヤリとするそれをひねると、緩んでいるのか、二三度回してようやくドアは開いた。
入ってすぐの、リビングの中央にある、どす黒いシミに目を奪われた。
火あぶりにされたという長男が脳裏をよぎる。それを頭から振り払い、さらに中へと進んだ。
埃だらけの床に着いた足跡が、直人やワチコのものなのかは分からなかった。
そのとき、焦げ茶色のダイニングテーブルの下から伸びた手が、慎吾の足を掴んだ。
「ギャッゲフ!」
腰を抜かした慎吾は、素っ頓狂な声を上げながら尻餅をつき、奈緒子の柔らかな太ももに、その頭が触れた。
目を白黒させながら視線をダイニングテーブルの下にやると、直人とワチコが腹をかかえて笑っていた。
「ギャッゲフだって、ギャッゲフ!」
「ヒヒヒ、デブ、お前ビビりすぎ!」
二人の笑い声に誘われて、奈緒子も笑い声を上げた。
慎吾は恥ずかしさを感じながらも、薄暗いリビングに響き渡る笑い声に、救われたような気もしていた。
「や、やめてよ」
立ち上がり、ズボンをはたきながら言うと、
「気を抜いてるからだろ。お前が悪い」
と、直人が悪びれもせずに返して、ダイニングテーブルからワチコとともに出てきた。
「それよりさ、ここつまんねえよ。なんにもないじゃん。幽霊でも出てくりゃいいのに」
口をとがらせるワチコ。
「でも分かんないでしょ。まだ二階があるし、UFOが出た屋上だってあるじゃん」
「じゃ、行くか。デブが先頭な」
「え?」
「怖いのか?」
「べ、べつに怖くないよ。だってウソだもん、こんな話」
ワチコがニヤけながら顔をのぞき込んできた。心を見透かされたような気がして目を逸らすと、視線が奈緒子とぶつかった。
「わたしが、先に行こっか?」
奈緒子が、意外にも名乗りを上げた。
怖くないのか? と、慎吾は思ったが、すぐにその思いを打ち消した。
奈緒子はあの廃病院にだって一人でかよっていたのだ。そこに比べて十分に明るいこの廃屋に、恐怖心を抱くはずがない。
じゃあ、なんで奈緒子はTシャツの裾を掴んだのだろうか?
……分からない。
「……ああ、じゃあそれで。ワチコ、お前が一番目な」
急におかしなことを言い出す直人。
「なんでだよ?」
当然のように、ワチコが噛みついた。
「女子が先で、男子がそのあと。山下は二番目で」
「うん」
「いやいや、意味分かんねえし」
「いいから行けよ、ほら」
渋々とワチコがリビングを出て、もと来た廊下を戻っていった。
奈緒子がそのあとに続き、直人が慎吾の前を行く。
最後尾はそれでまた怖い。
冷や汗に湿る背中を誰かに見られているようで肌が粟立っていた。
階段をワチコが上がっていく。
奈緒子も、うしろを一瞥してから続いた。
しかし奈緒子が半ばにさしかかる頃になっても、直人は階段を上がろうとはしなかった。
「どうしたのさ、早く行ってよ」
「見ろよ」
階段を見上げながら、直人が口の端を緩めた。
いぶかりながら階段を見上げ、すぐに直人の意図することが分かった。
一段一段をたしかめながら、薄暗い階段を上がる奈緒子。
その裾が揺らめいて、危うく下着が露わになりかけていた。
慎吾はすぐに目を逸らした。
「な?」
直人が慎吾の肩を叩く。
それを振り払い、直人を押しのけて、慎吾は階段を駆け上がった。
階下から聞こえる、押し殺した笑い声が耳に障る。
信じられない。あんなことを考えるなんて。
やめろよ。
気づくと、殺してやりたいほどはらわたが煮えくり返っていた。
「林君は?」
二階に上がると、なにも知らない奈緒子が不安げにたずねた。
「うん……すぐに来ると思うよ」
「そう」
その顔を、見られなかった。
「お待たせ。どの部屋が、金田鉄男クンの部屋なわけ?」
遅れて来た直人が、目の前の三つのドアを見渡して、何事もなかったかのように言う。
「分かんねえよ」
ふくれ面のワチコ。
先頭が気にくわなかったらしい。
「真ん中じゃないかな? 次男だったんでしょ?」
奈緒子が直人に言った。
「じゃあ、真ん中だな」
「今度は、お前が先に入れよ」
ワチコに言われて、直人がそのドアを開けた。
中に入ると、そこは日に焼けた勉強机いがいには何もない、殺風景な部屋だった。
「なんだよ、つまんねえ。ぜんぜん怖くねえよ」
直人が勉強机まで行って、おもむろに一番うえの引き出しを開けた。
「げっ」
しかめ面でその中を凝視する直人に近寄って、引き出しの中を見ると、散乱するグレートマンシールに混じって、足の異様に長いクモの死骸が、三つ転がっていた。
「けっ、クモなんかにビビんのかよ」
ワチコがそれに動じた様子もなく、直人のしかめ面を笑った。
「なんだよお前、クモ怖くないのかよ?」
「怖くねえよ」
奈緒子がワチコの肩を叩き、
「ごめんワチコちゃん、それ一枚だけ取ってくれる?」
と、申し訳なさそうに頼んだ。
慎吾は、「そういえば、奈緒子もクモが嫌いだとか言ってたな」と思い出し、意を決して、大嫌いなクモの死骸に触れぬようにしながらシールを一枚とって、奈緒子に手渡した。
「あ、ありがと。でもチャーって、クモも苦手じゃなかった?」
「も? もっ、てなんだよ」
言葉の違和感にすぐに気づく直人が、癇に障る。
「人間にはさ、ヘビが好きな人と、クモが好きな人の、二種類がいるんだってさ」
「へえ、おれはヘビが好きだな」
「げ、お前ヘビとか好きなのかよ。気持ち悪い」
「あ、すげえ、それあってるかもな。おれも誰かに聞いてみよう」
「面白いでしょ?」
慎吾は、奈緒子の存在を忘れて得意げに言った。
「わたしが教えたんだけどね」
肩下げのポーチにシールを入れた奈緒子が、すぐにそのお株を奪う。
「あ、そうなの? じゃあ、なんでチャーってば、自分の手柄みたいな顔してるんだよ」
「あー、うん、ちがうよ、これからそう言おうと思ってたんだよ」
「どうだかな。デブってそういうとこあるもんな」
三人が笑い、慎吾は小さくなる。
「じゃあさ、山下は、ヘビとか平気なわけ?」
「うん、わたしと林君は、おなじ種類の人間ね」
「おお、ナカーマ」
「ナカーマ」
直人と奈緒子の距離が近づいたようで、気が気でなかった。
奈緒子にいいところを見せようとした結果がこれだ。
バカな貧乏くじ。
「なんだよ、じゃあデブはあたしと同じかよ? イヤだなあ」
「ちがうよ、チャーは、クモもヘビも嫌いなんだって」
「ちょっ、奈緒子!」
「ああ、よかった。デブなんかと一緒じゃなくて」
ワチコが、これ見よがしにホッと息を吐いた。
「じゃあ、チャーはなんなの?」
「新人類です。おめでとうございます」
「おめでとうございます」
「おめでとうございます」
三人から意味の分からない祝福を受け、ただ押し黙ることしかできなかった。
奈緒子は言い過ぎたとでも思ったのか、
「そんなことよりさ、屋上に行こうよ」
と、すまなそうに慎吾の顔をのぞき込みながら、言った。
「う、うん」
その距離の近さにドギマギとしながら、しかし、どうやって屋上に上がるのかが分からなかった。
「あっちに階段があるぜ」
いつの間にか、掃き出し窓からベランダに出ていた直人が、先を指さした。
ベランダに出て、それを確認すると、
「今度は男子が先な」
と、ワチコが肩を押した。
もちろんそのつもりで、直人にそれを目顔で伝えた。
「……分かったよ」
直人を先頭にして、カンテカンテンと音を立てながら鉄階段を上りきると、風雨にさらされて黒ずんだ、なんにもない屋上に出た。
それぞれに、辺りを見渡しながら中央まで足を運んだが、そこは特になにも変わった様子のない、ただの屋上に過ぎなかった。
「なんだよ、なんだよ、ここハズレじゃねえか」
直人が、ため息を吐いて、床面のひび割れをつま先でなぞった。
「ホントだよな。デブ、なんとかしろよ」
とんでもないことを言うワチコ。
「わたしは楽しかったけど」
やっぱり、奈緒子の言葉にはいつも救われる。
だけどやっぱりここはハズレだったな、と慎吾は思う。
バカな噂話は、本当にただのバカな噂話でしかなかった。信じていたわけではないし、そもそもこの噂話は、バケモノが出ると言ったような類の話ではない。肝試しで来るには、不向きな場所だったのかもしれないな、と思い、奈緒子たちに対して、申し訳ない気分になった。
「ごめん」
と、小さく謝ると、
「まあ、いいや。ここに行こうって言ったの、おれだし」
と、あくび混じりに返した直人が、つまらなそうに体を伸ばした。
「でもアレじゃない? ここでUFOが来るオマジナイをみんなで言えばさ、UFO来ちゃうかもよ」
奈緒子が微笑んで、慎吾に目配せをした。ここに来てから、なに一ついいところがないのを庇われているのだと思い、嬉しさと惨めさが胸に芽生えた。
「それいいね。ていうかそれでUFOが来なかったら、デブはなんかおごれよ」
ワチコが、嬉々として奈緒子の提案に乗った。
おかしな条件付きで。
「あ、いいねそれ。よっしゃ、やるか。呪文ってどんなんだっけ?」
「イサダクテキーホーユー……」
「それそれ。んで、どうすりゃいいの?」
「それは……」
「みんなで円になって、手をつないでやればいいんじゃない?」
「ああ、ぽいね、それ」
奈緒子の提案に従って、四人は円を作った。
奈緒子は直人と右手を、左手をワチコとつなぎ、慎吾はそれに対面するかたちで、直人とワチコと手をつないだ。
「じゃあ、わたしの合図で一緒にね」
奈緒子が、正面の慎吾を見ながら言った。
声もなくうなずくと、直人とワチコもうなずいた。
「せーのっ!」
奈緒子の合図に合わせ、
「イサダクテキーホーユー、イサダクテキーホーユー……」
と、何度も唱えながら、四人は空を見上げた。
そこに――
――照り射す太陽だけの雲一つない夏空に、小さくナニカが光っていた。
「ウソだろ…」
思わず、声を出すワチコ。
それからしばらくのあいだ、皆が一様に声を失って、その光をただ呆然と見上げていた。
ノドをゴクリと鳴らす音が聞こえたが、それが誰のものなのかは分からなかった。
虹色にきらめきながら幾度か左右に揺れて、唐突に光が消え、張りつめた空気が緩んだ。
「なに……アレ?」
目を輝かせた奈緒子に見つめられたが、ただ首を横に振るだけで、なにも言うことができなかった。
チラと右を見ると、ワチコは口を開けてまだ空を見上げていた。
「……UFO、かな?」
直人もまた、動揺を隠せずに不確かなことを言った。
直人が冷静さを欠くのを見るのは、これが初めてだった。
いつもの、あの人を小バカにするような笑顔も消えている。
「やったじゃん、UFO!」
奈緒子がひときわ大きな声で喜び、直人の両手を掴んではしゃいだ。
まんざらでもない直人の顔が、なんだか許せなくて、
「ちょっと待ってよ。ホントにあれUFOなわけ?」
と思わず水を差すと、ピタリと動きを止めて直人の手を離した奈緒子に、キッと睨みつけられた。
「意味分かんない。なんでそんなこと言うの?」
「だってさ、ちょっとできすぎじゃない?」
「できすぎでもなんでも、いたじゃん」
「でもアレ、人工衛星とかかもしれないよ」
「なんでUFOじゃダメなわけ? それでいいじゃん」
「いや、でもちゃんとそうだっていう証拠がないと……」
「証拠ってなに? じゃあチャーはアレが人工衛星だっていう証拠があるわけ?」
「そ、それは……」
どうして奈緒子と言い争っているのか、さっぱり分からなかった。それに加えて、直人がその様子を楽しそうに見ているのも、気にくわなかった。
イヤになった。なにもかもが。
「……じゃあいいよ、UFOで」
「じゃあってなに? じゃあって」
怒る奈緒子。
それはそうだ、怒るに決まっている。
「まあまあいいじゃん、どっちでも」
「よくないよ。林君も信じてないわけ?」
「いやあ、おれは人工衛星もUFOも見たことないから、分かんねえ」
「ワチコちゃんは、どう思うの?」
「んあ?」
まだ口を開けて空を見上げていたワチコが、気の抜けた声を出した。
「聞いてる?」
「ん、うん。アレはUFOだよ」
断言。そんなバカな!
「ほら、二対二」
「おれもチャーの仲間かよ? じゃあおれもUFO派で」
裏切り。そんなバナナ!
「ほら、三対一」
奈緒子ににらみつけられ、UFOに連れ去られたい気分になった。
「あー、でもチャーは人工衛星派でいいや」
直人がいつもの不快な笑顔で言った。
「なんでさ?」
「それだとさ、チャーはUFOを見なかったんだから、おれたちになんかおごることになるもんな」
言い出しっぺはワチコなのに、結局は自分がバカを見る。
「……いいよ、それで」
「じゃあおれはアイスな」
「あたしもー」
「ちょっと待って話がズレてるんだけど」
「いいじゃんいいじゃん、行こうぜナオちゃん」
ワチコが、まだ納得のいかない表情の奈緒子の肩を押して、鉄階段を下りていった。
「山下って、意外と怖いんだな」
直人が慎吾を憐れんで、そのあとに続く。
ひとり残された慎吾は、ため息を吐いて空を見上げた。
そこには、もうなにも見えなかった。