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次の日、慎吾はラジオ体操に遅刻しそうになって、家の近所にある集合場所の空き地まで、無我夢中で走っていた。
走りながら、《遅刻が少し目立つので、早寝早起きをするようにしましょう》という、通信簿に書かれた、町山先生の言葉を思い出す。
夏休みの初日でこれじゃあ、二学期が思いやられる。
昨日は、遅刻が多いということが両親にバレて、大変な思いをした。
まだ少し腫れる赤い頬を撫でて、なにもぶたなくてもいいじゃないか、と、慎吾は思う。
お父さんは厳しすぎる。
昨日は一発ですんだけど、また遅刻したら、今度はなにが待ってるか分からない。
「だから、お前はダメなんだ!」と、お父さんは言った。
「だからって言えるほど、ぼくのこと見てないじゃないか!」と言いたかった。
「お父さんもお母さんも、ぼくが図工の時間に褒められたのを知らないじゃないか!」と叫びたかった。
褒められたことなんか、一度も無い。
過去にはあったのかもしれないが、それはいつのことだか思い出せないほど、昔の話。
ダメなところを叱るのが趣味のお父さんと、それを横で聞きながら、慎吾の擁護を一切しないお母さん。
共働きで家を空けていることが多いから、躾を厳しくしないと、グレてしまうとでも思っているのだろうか?
本当は、ちがう。
そんなことをされて、両親を尊敬の対象として見ることなんかできない。褒められることもなく、なにかあればぶたれるだけ。
そんな悲しい関係性のまま、大人になってしまうのがとても怖かった。このままだと、本当に両親を嫌いになりそうで、それを思うと心の底から憂鬱になる。
◆◆◆
「チャー、なんだよお前、今日も遅刻かよ」
空き地に着くと、慎吾を見つけた直人が、笑いながらとなりに並んできた。
「まだ始まってないよ。ていうか、なんで、となりに来るんだよ?」
「いいじゃんかよ、ほかに誰もいないし」
たしかに、この地域のラジオ体操に来る六年生は、慎吾と直人しかいない。
そういえば直人とは家がそんなに離れていないな、とふと思い出す。
それほど直人とは仲良くない。
近所だからという理由だけで仲良くできるほど大人じゃないし、正直、どちらかというと、直人のことが苦手だった。
昔から勉強ができるのとはちがう意味で頭の良かった直人が、なぜか好きになれなかった。直人としゃべっていると、自分のすべてが見透かされてしまうようで、すごく居心地が悪くなる。
たぶん直人にはなんでもバレてしまうのだ。ちょっとした情報で、人の秘密や知られたくないことを言い当てる。
ここがどこかの呪われた山村で、そこで不可思議な密室殺人でも起きれば、直人はきっと、少年探偵よろしく事件を解決してしまうのかもしれない。
だけどここは田舎とは言っても、東京だし、密室殺人なんて、フィクションの代名詞だ。
だから、解決すべき事件のない少年探偵は、人の秘密を暴くのが趣味になる。
「お前さ、夏休みも、山下と遊ぶの?」
「え、なんで?」
「気をつけろよ、太一とかにさ」
「太一? 奈緒子のこと好きなの?」
「好きかどうか知らないけど、お前が山下と喋ってるとき、いつもチラチラ見てるぞ」
「それを、直人は見てるんだ?」
「太一が好きなワケじゃないぞ」
「分かってるよ」
「それに太一だけじゃないからな。お前いつもバカにされてるんだから、わざわざ一コ理由を作るなよ」
「大丈夫だよ、ただのトモダチだもん。女子とか男子とか関係ないよ」
「……あ、そ、じゃあ今日は、おれも一緒に遊ぼうかな」
「え?」
慎吾はグルグルと回す腕を止めて、直人を見た。
「どういう意味?」
「おれもお前と山下と一緒に遊ぼうかなって意味」
グルグルと腕を回しながら笑う直人。
ハメられた。
直人は始めからそのつもりで近づいてきたのだ。あのやりとりのせいでそれを断る理由がなくなってしまった。
たぶん直人にとっては、奈緒子と遊ぶことに、あまり深い意味はないのだ。
単なる暇つぶし。
直人にとっては、この世のありとあらゆることが、ただの暇つぶしなんだ、と慎吾は思う。普段から暇をもてあます直人にとって、夏休みは、慎吾とはちがう意味で苦痛なものなのかもしれない。
「気にすんなよ、暇つぶしだから」
直人は本当に人の心を読み取る能力があるのではないかと思い、背筋がヒヤリとした。
「でも、でもさ、ぼくと直人って、そんな友だちじゃないじゃん。奈緒子とだって」
「だからさ、これから仲良くなればいいじゃん。町山先生も言ってたろ、『クラスメイト同士仲良くしましょう』って」
言葉に窮し、大きなゲップが出た。
ホントにマジで最悪の最悪。
「出たな、困りゲップ」
「変な名前つけないでよ。分かったよ、連れてけばいいんだろ」
「連れてく? なんだ、お前ら秘密基地とかあんの?」
目を輝かせる直人。
コイツには勝てないと思い、慎吾は深いため息を吐いた。
◆◆◆
今日は本当にツイてない。
理由は三つ。
一つ目は、直人がついてきたこと。
二つ目は、奈緒子の機嫌がまだ治っていなかったこと。
そして三つ目は、奈緒子が本当に誰かを連れてきてしまったこと。
「なんでいるんだよ?」
207号室の、埃まみれのベッドの上でアグラをかき、ニヤニヤと笑うワチコに、そう聞かずにはいられなかった。
「ラジオ体操の時に、ナオちゃんに誘われたから。お前には関係ねえよデブ」
「デ……やめろよ、そんな汚い言葉」
ワチコにいらつきながら、背を向けて窓辺に立つ、白いワンピースの少女を見やった。
白いリボンのかかる大きな麦わら帽子をかぶる奈緒子は、ここに来てから、まだ一度も口をきいてくれない。
「なんなんだよ!」と慎吾は、心中で毒吐いた。
「まあまあ、仲良くしようぜ」
入り口に立つ直人が、適当なことを言いながら、部屋の中央に座る五匹の犬たちのもとまで行き、その中の一匹、茶毛の小型犬ジローの頭を撫でた。
自分には懐いていないくせに、直人には頭を許すその態度にもイライラが募る。
「でもワチコも直人もさ、こんなところにいても、ヒマだと思うよ」
「あたしはいいんだよ、どうせヒマだし」
「おれもヒマー。お前らさ、いつもここにいて、なにやってんの?」
「犬にエサやったり……本を読んだり……」
「はあ? なんだよそれ楽しいのかよ?」
「べつに楽しいとか、そういうことじゃなくて……」
「なんかやろうぜ。キャッチボールとか」
「グローブとかないよ」
「おれんチにあるから、明日は持ってくるよ」
直人が明日も来るらしいのを知って、慎吾は眉間にシワを寄せた。
「それよりなんで山下、なんにもしゃべらないの? まさか怒ってんの?」
それに気づかぬふりをして、直人が小声でたずねた。
「さあ、分かんないよ」
「なんか、居づらいって言ってたぞ。デブがなんかしたんだろ。謝れよ」
「ぼ、ぼくは何もしてないよ。謝ってほしいのはこっちだよ」
ワチコが立ち上がって奈緒子のもとまで行き、その両肩を掴んだ。
「ナオちゃん、デブがなんか言ってるぞ」
むりやり正面を向けさせられた奈緒子が、伏し目がちに慎吾を見て、
「……ごめん」
と、意外にもしおらしく謝った。
先手を取られ、慎吾はただ黙って頷くことしかできなかった。
「なんだよ、ナオちゃんが謝んのかよ」
その予想外の展開にワチコがつまらなそうに口をとがらせた。
「なんか分かんねえけどさ、そんなことどうでもいいから、なにかやろうぜ」
直人が慎吾の戸惑いを察したのか、話題を変える。
「そうだな、ナオちゃん、なんか面白いこととかないのか?」
「え? うん……」
チラと慎吾を見てから、
「都市伝説の場所を巡るのとかってどう?」
と、奈緒子が小声でワチコに言った。
《都市伝説巡り》が、二人だけの秘密の遊びだなんて思っていなかったけれど、それをワチコや直人にやろうと言った奈緒子に対して、少しだけ寂しさを覚えた。
「お、それいいね。おれもそういうの好き」
「どっか行きたいとことか、あんのか?」
もうすっかりその気になっている直人とワチコ。
「うーん、わたしはこの町のことまだあんまり知らないから、よく分からない」
「あ、そっか、そうだよな。じゃあ、おれが面白そうなところ教えてやるよ」
「なに?」
「あれだよあれ、殺人鬼の家。なんだっけなあ」
「それって『金田鉄雄の家』じゃない?」
置いてけぼりにされるのがイヤで、思わず話に入ってしまった。
「おお、それそれ。さすがチャーだな」
「さすがだなデブ。無駄に太ってないぜ」
「だからデブってのはやめてよ」
うつむく奈緒子の表情は、麦わら帽子のツバに隠れて分からなかった――
『金田鉄雄の家』
五年前に起こった、ある惨劇。
住宅街の一角にある、ごく普通の一軒家で、それは起きた。
金田家は、父、母、それに長男と次男、末の長女の五人家族だった。
両親ともに教師の金田家では、高校生の長男と小学生の長女のそれぞれが優秀で、学年でも常にトップクラスだった。
だが中学生の次男、鉄雄だけはちがった。
《グレートマンシール》という、お菓子のオマケシール集めだけが趣味という根暗男子の鉄雄は、なにをやらせてもダメで、学校でも家でもバカにされる劣等生だった。
次第に世の中のすべてに、どぶ川のように濁る殺意を抱き始めた鉄雄は、ある冬の日、かねてからあたためていた《殺害計画》を実行する。
まず、リビングで両親を包丁でメッタ刺しにして殺害。
次に、自室でくつろぐ長女の首をしめて殺害。
最後に、帰宅した長男の後頭部を金属バットで殴打して昏倒させ、火あぶりにした。
長年の悲願を達成させた鉄雄は、屋上に上がり、
「イサダクテキーホーユー、イサダクテキーホーユー」
と大空に両手を伸ばしながら呪文を唱えた。
すると雲間からUFOが現れ、鉄雄はそれから伸びる一筋の光で包まれた。
そして鉄雄はUFOに吸い込まれ、いずこかへと消えた。
――自分で語りながら、心の底からその話をバカバカしいと、慎吾は思っていた。
慎吾の知る限りで、最も稚拙な作り話である。
とにかく結末が突飛すぎる。
小学生でも鼻で笑ってしまうような出来だ。途中まではまだいい。抑圧された少年には思うところはあるし、共感や同情も覚える。
だけど、UFO。それだけがこの話の中で浮いている。
屋上の行為が、そういう心理状態にまで追いつめられた少年の奇行とするならば、まだ分かる。
だけど、本当にUFOは現れる。
そこだけがどう考えてもおかしい。
そしてだからこそ不気味だった。それをこの町の子どもたちは感じている。いや、そこに引っかかっている者は少数なのかもしれないが、この話を知らない子どもはほとんどいない。
それほどまでにこの話はこの町に浸透しているのだ。
バカバカしいけど、怖い。
「ありえねえよな」
その思いを、直人が一蹴した。そもそもオカルトな話をあまり信じないタチらしい。
ベッドでアグラをかくワチコは、興味深げに目を輝かせていた。
奈緒子は……分からない。
「でも直人さ、そういうの、好きなんでしょ?」
「好きだけど、べつに信じてるワケじゃねえよ」
「信じてるとかどうでもいいんだよ。ナオちゃんは、そこでいいのか?」
「うん、わたしはそこでいいよ」
「おいデブ、ここから遠いのか?」
「ううん、森荻のほうだから、そんなに遠くないよ」
「じゃあケッテーだな。行こう」
直人の言葉に促され、三人が207号室を出て行った。
ひとり取り残された慎吾は、実のところ、あまり乗り気ではなかった。