プロローグ
――あれがバラバラ女だと気づいたとき、すでにすべてが終わっていた。
事の発端は、私の腹についた贅肉を指して、妻ともうすぐ中学に上がる娘が「ブタみたい」と、まるで鬼の首でも獲ったかのように非難しはじめた、夏のある日。
禁煙にも幾度となく失敗し、度を越えた晩酌を妻に白い目で見られ、さらには揚げ物に目がない自堕落な企業戦士である私は、当然のように妻と娘の波状口撃に白旗を上げざるをえなかった。
こうして有罪になった私に下されたのは、《毎朝ジョギングの刑》という単純至極な肉体使役だった。
ジョギングのために妻から支給された安手の黒いジャージを身にまとって走るコースは、まず家を出て、濁るどぶ川沿いの道を抜け、犬の散歩をしているご老輩たちと挨拶を交わしながら、まだ目の覚めない住宅街を走り抜け、踏み切りを渡り、駅の北側へと出て、駅前商店街を抜け、神社へと続く長い坂道を休み休み登り。国道に出て左へと曲がり、栄えているとまではいえないが、そこそこに都会的なオフィスビル群を横目に国道を進み、通称『パンダ公園』という、さほど広くない公園に入り、その中央にある『蛇、或いは純潔の少女』と冠された、不可思議な前衛的彫刻にタッチして帰途に就く、というものである。
私はこの町で生まれ、この町で育った。この狭い世界が私の全てで、恐らくこの町で死んでいくのだ。だがこの生き方に疑問など感じたことなどない。なぜならば、私はこの町を心の底から愛しているのだから。
◆◆◆
その女に出会ったのはジョギングを始めて二週間が過ぎたある朝のことだった。
その朝も、私はいつものごとく家を出て公園へと向かっていた。
薄曇りの空を見上げ、「今日は久しぶりの雨が降るのかしら?」などと考えながら国道を走っていると、
「あの、すいません」
というかぼそい声が、どこからともなく聞こえた。
私は立ち止まって辺りを見回してみたが、どこにも人影は見当たらなかった。
首をひねり、ふたたび走り出そうとすると、また、
「あの、すいません、ここです」
と、今度はさきほどよりもすこしだけ大きく、それでいて遠慮がちな女の声が聞こえた。
ふたたび辺りを見回すと、ちょうど私の左側にある二棟のオフィスビルの隙間に、物憂げな若い女が、すっぽりと収まるようにして佇んでいるのが見えた。
夏だというのに長袖の赤いワンピースを着たその女と視線がぶつかった私は、明らかに異様な光景にもかかわらず、その淡雪のように儚げな顔立ちに思わず見惚れていた。
「芸術作品に興味はおありですか?」
「え、なんですって?」
あまりに唐突な質問に、動揺をおくびにも出さず聞き返すと、
「ですから、芸術作品に興味はおありですか?」
と、ふたたび女が、静かに重くそして氷のように冷たい声でたずねた。
「いや、あまり興味はないかもしれないね…」
そう答えながら、私は女の両胸の膨らみの頂に浮き出たものに目を奪われ、「ああ、この女はノーブラなのか」などといやらしいことを考えて、少しだけうしろめたくなっていた。
「そうですか、それは残念です。あなたにならわたしの作品を分かっていただけると思ったのですが」
気だるそうにため息をついて私をぢっと見つめる女。
私はなぜだかやましい気持ちを見透かされたような気がして、それをつくろうように、
「えっと、なんで僕なの?」
と、いたって平静を装ってたずねた。
「ええ、なぜかはうまく伝えられえないのですが、しいて言うならば、あなたにわたしと同じニオイを感じたからだと思います。この作品のテーマが『男女平等主義と女性専用車両における作為的な齟齬』ですから。あ、一つ言い忘れましたが、わたしは今日この世に産まれ落ちたのです。そしてそれは多分、あなたのおかげなのです」
……言っている意味が全く分からない。
産まれた?
私のおかげで?
それにそもそもこの女が私に感じたニオイとはなんなのだろうか?
それが、先ほどから鼻腔をくすぐる、たぶんに女から漂う、この薔薇の香りのことでないことは明らかである。
この女が言いたいのは、きっと私に同じ感性があるのだということだろう。つまり私の胸の裡にも、この女と同じような狂気が存在しているということなのだろうか?
バカバカしい!
「これを見ていただければ、わたしたち人間がいかに高慢な生き物なのかが分かります。本来ならばわたしは夜の存在なのですが、生まれ落ちた興奮が冷めやらずあなたにお声をかけさせて頂いたのです。本当ならあなたには一仕事を終えてからお会いしに行こうと思っていたのです。わたしはまだ完成していませんから。そのことはお詫びします」
考えあぐね二の句を継げぬ私に、長々と意味の分からぬことを言って微笑んだ女の顔は、満面に狂気をはらみながらも、見惚れるにあまりあるほどの色香を湛えていた。
無性に気恥ずかしくなり、そっとアスファルトの床面へと視線を落とすと、ちょうど女の足と足のあいだあたりに、黒いしみのようなものが見てとれた。
よくよく目を凝らすと、黒く見えたそれは、赤黒い液体のようなものだった。
それを不気味に思いながら、女の白磁のような太ももに視線を移すと、その内側から蛇のように赤い一筋が伝い、その上、赤いワンピースの裾からは、それらと同じ色の液体が滴り落ちていた。
………血だ。
根拠も無く確信的にそう思い、まさか内股を伝うそれが経血ではあるまいかとバカげたことを考えながら、ふたたび女の顔に視線を戻した。
先ほどと変わらず、狂気と色香を内包させた笑みを浮かべる女の首筋にこびりつく乾いた血に慄然とした私は、今になってようやく、女が着ている赤いワンピースが、白いそれに赤黒い血が大量に付着しているものであるという、恐るべき事実に気づかされた。
「……いや、やっぱり僕は…芸術とやらには興味が無いので…見るのは…やめておくよ…申し訳ない」
「そうですか、残念ですが仕方ありませんね。強制はわたしの趣味ではありませんから。でもやっぱり残念です。見ていただければ、『言葉という虚飾と全体主義的世界構造の比較』を分かって頂けたと思うのですが」
もはや支離滅裂で、なにを言ってるのかすら分からない女に、とてつもない恐怖を覚えて膝が笑いだした私には、涼風に揺らめく赤いワンピースが、悪魔より邪悪なものに思えてならなかった。
「いや、本当に申し訳ない」
「はい……あの、最後に一つだけよろしいですか?」
「う、うん。何かな?」
「ヘビとクモ、どちらがお好きですか?」
「え?」
「地を這うヘビと糸を生むクモ。どちらがお好きですか?」
その質問に、覚えがあった。
だがそれは遠い記憶の底に沈み、なにか重要なことのようにも思えるその質問に、一瞬どう答えるべきかと困惑した。
「……えっと、どちらかというとクモかな。いや、よく分からないけどね」
「……そうですか、ありがとうございます。あなたのその言葉をわたしは、わたしはもういつだったのかも忘れるほど昔から待ちわびていたのです。クモ、クモ、クモ……」
女が、今までとはちがう意味を含んだ笑みを浮かべた。
女の言っている意味がまるで分からないながらも、何か重大な過ちを犯したのではないかと思い、暗澹とした気分になる。
「う、うん。よく分からないけどそれは良かった。じゃ、じゃあ、これで」
「はい」
私は踵を返して無我夢中で走り出していた。
そして商店街へ抜ける道までたどり着いてから、恐る恐る振り返ると、ビルとビルのあいだから首だけを突き出して、ぢっと私を見つめる女の顔が見えた。ここからでは遠くて表情は分からなかったが、それは、私を恐怖に戦かせるには、十分に足る光景であった。
それを頭から振り払いながらふたたび歩き出し、
「早く、早くここから逃げなければ」
と、私は何度も胸の裡で独りごちていた。
◆◆◆
その晩、妻の白い目に気づかぬふりをして五杯目の水割りの焼酎を呷りながらニュースを見ていると、
《頭部のないバラバラ死体が発見される》
というテロップが映し出され、この町のオフィス街で、身元不明のバラバラ死体が見つかった云々と、女性アナウンサーが淡々とした調子で伝えた。
すぐに脳裡をあの女が過ぎり、私はそれを振り払うように焼酎を飲み干した。ノドを焼きながら胃袋へと滑り落ちる冷たい液体が、私の感情の一切をも濯ぎ落としていく。
なにも考えるな。
あの女とこの事件が関係していると誰に分かる?
「これって、あなたのジョギングコースじゃない?」
「ああ、そういえばそうだな」
「大丈夫だった?」
「ハハハ、大丈夫だよ。なにかあったんなら、ここでおいしく酒なんか飲んでないよ」
妻にはなぜか、今朝のことを話す気にはなれなかった。それどころか、その一部始終を警察へ通報する気にすらならない。それがとてつもない恐怖から来るものなのか、あの女が言っていた同じニオイから来るものなのかは、自分でもよく分からなかった。
「これって『バラバラ女』がやったんだよ、きっと」
胸に座布団を抱いてソファに座る娘が誰ともなしに呟いた。
「バラバラ女?」
妻がたずねると、
「あれ、お母さん知らないの? みんな知ってる都市伝説だよ」
と、娘が笑った。
首をかしげる妻の傍らで、私は怖気の走る思いをしていた。
その都市伝説を私はおぼろげながらに知っている。
「あのね、『バラバラ女』っていうのは血だらけのワンピースを着てて」
「やめろ!」
気づくと、私は娘に声を荒げていた。
そんな、そんなバカな話があってたまるか!
あの女が、過去に流行り、そして今もまだ、子どもたちの間でまことしやかに囁かれているだけの、幼稚な都市伝説から抜け出してきたバケモノだとでも言うのか?
あれは……あれは断じてそんな架空のバケモノなどではなかった。
体温も声も、そしてあの鼻腔を甘やかにくすぐる薔薇の芳香も、確かに存在するものだった。幻覚の類いだなどと言って、一笑に付すことができぬほど、私はあの女の存在を肌身で感じたのだ。
それに――あの女は私を知っているかのような口ぶりだった。
なんなのだ?
何者なのだ……あの女は?
「……ダッセー」
そう吐き捨てた娘が、座布団を放り投げてそのままリビングを後にし、階段をドスドスと踏み鳴らして、二階の自室に戻ってしまった。
「怒鳴ることないじゃない」
あきれ顔の妻が、わざとめかしてため息を吐いた。
「……俺はああいう話は好かん。それに人が死んでるってのに不謹慎じゃないか」
背に不快な冷や汗をかきながら、また娘との間の溝が深くなったな、と私は自嘲した。
忘れよう。
あの女はきっと、私の平穏な日常にふと湧いた悪い夢だ。
この日常が壊れることなどありえない。
私は自身に何度も言い聞かせ、焼酎を飲み干した。
その翌日、娘が失踪した……