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店から少し歩けばトラム乗り場があり、そこからこの地区まではそれほど遠くない。
だけど成人して自分の城が欲しくなった私は無理を言って今の場所に引っ越したのだった。
住み慣れた懐かしい路地にはあちこちから美味しそうな匂いが漂っていた。
時刻はちょうど夕暮れ時だ。
港町であるここは海の幸が豊富で、ほぼ毎食魚料理が出て来ると言っても過言ではない。
イワシを焼く香ばしい匂いを嗅げば、いつもなら生まれ故郷に帰ってきた安心感に包まれる。
外で遊ぶ子供たちの声と、早く帰りなさいと余所の子でも構わずに声をかける大人たちの声。
いつものこの町の光景。
「こんばんは、アンジェロさん」
「やぁフィオナ、久しぶりだな。おかえり」
帰り道にある靴屋の主人が看板を片付けているところだった。
私がこの町に帰って来ると、このおじさんはいつもおかえりと出迎えてくれる。
隣の花屋のガラス戸の中には心がほころぶような可愛い花。
あいにくすでに店じまいしたらしく、中に人の気配はなかった。
坂道を登るにつれて私の胸はドキドキと高鳴り、海からの涼しい風が吹いているにも拘らず背中には薄らと汗が滲んだ。
坂道のせいだけじゃない。
それほど早足でもなければ息が切れるほどの急な坂でもないのだから。
夢で見た景色は子供の頃に見ていたものと寸分変わらず、それは今でもあまり変わってはいなかった。
数か月前にはなかった新しいカフェが1軒増えたくらいだろうか。
見慣れた石畳を見つめていると、またいろんな噂話も脳裏に蘇る。
『あの家には近付いてはいけないよ』
この町に住む子供たちは幼い頃からそう言われて育つ。
石畳の坂道を登り切った所に少し離れて建っている古い家。
誰が住んでるのか知らないけれど、私が小さな頃から変わらずそこにあった。
白壁の家が立ち並ぶこの町でその家だけは手入れもされずに蔦が絡んで暗く霞み、どこか異空間のような不思議な佇まいを見せていた。
誰が住んでいるのか分からないから興味も湧く。
好奇心旺盛な子供たちの多くは、謎を解明しようと勇敢にも挑んだものだ。
それでも何故か誰の口からも真相が語られることはなかった。
みんな口を揃えて「何もなかった」と言葉少なに呟くだけ。
もちろん大人たちが教えてくれる事もなく。
結局、探検する勇気のない子供たちの間でいつしか自分達の納得のできる答えが語り継がれることになる。
「あそこには魔女が住んでいる」
「だから近付いちゃダメなんだよ」
「魂を喰われてしまうよ」
そしてこの町で育った子供たちが大人になり、その子供にまた伝わるのだ、脈々と。
『緑の館には魔女が住んでいるんだよ、だから絶対に近付いちゃいけないよ』