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契りの乙女

作者: ゆーう

 裕福でなくとも家族揃って幸せに住んでいた町に、ある日突然ドラゴンが現れた。

 そこに住まう人も、今までの歴史を積み重ねてきた町も、無慈悲に燃やし尽くされた。

 幼かったエィフィは姉のミルフィに手を引かれ、一目散に火から逃げるように、両親を探す余裕もないまま、人々の悲鳴を聞き、なにかの焼ける匂いを嗅ぎながら熱に追い立てられるように、どこへともなく、足をもつれさせながらも逃げ続けた。

 五つになったばかりのエィフィを連れた三つ上のミルフィの体力も限界だ。オレンジ色の光を煌々と灯す町並みを木々の間から見ながら、崖を背にして祈り続けた。

「ひとまずここにいましょう」

 泣きすぎたせいで疲れてしまったのか、目元を赤く腫らして眠っているエィフィに肩を貸して寝かしてあげながら、ミルフィは両親が無事であるよう、祈るだけでは足らず願う。

 なぜドラゴンが町を襲ったのか――ドラゴンには感情があり、人の憎しみや悲しみこそを最大の栄養としているのではないか、と人間の間では長きに渡り言い伝えられることも、ミルフィは聞いたことがあった。

「今日は私の誕生日だったのに……」

 二人が住んでいる海の近くにあるオットーの町は豊富な漁場のおかげで漁業が盛んで、季節ごとに飛び切り活きのいい魚が水揚げされることで有名だった。

 父はそんな暢気な町でも、家族のことを考えて今日一日の幸せよりも、未来の幸せを得るために船や網の整備のため船着場にいた。

 母は、このオットーで財産や権力を持つ男たちのところに酒を注ぎに行き仕事をもらう。

 それなのに、ドラゴンは無慈悲にも町を壊し、人を殺し、家族を引き裂いた。

「許せない……絶対に」

 ミルフィは貧乏でも幸せだって思っていた。

 父は仕事で忙しいし、母もやりくりで忙しないし、新品の服などどれぐらい買ってもらっていないかわからない。でも、継ぎ接ぎだらけ、糸の解れが見える服でも気にしない。家族が揃って笑顔でいられたから。

 立てた膝の前で拳を力強く握った時、凭れ掛かっていたエィフィの頭がミルフィの肩から外れて、膝と胸の間に落ちたが眠りから覚めることはなく、ミルフィは安堵した。

 しかしその一時の安堵すらも引き裂くように、前方の茂みが乱暴に揺れ、枝ではなく木々が折られる乱暴な音が聞こえてくる。

 ミルフィはエィフィの肩を抱いて、意識を尖らせていたが、そこに現れたのは人でも動物でもなく、鋭い牙と爪を持つ、先ほどまで町を焼いていた赤黒い皮膚を持つドラゴンだ。

「なんで……こんなところに」

 炎の明かりを背にした巨体。巨大な手は地を穿ち、そこにあった草を押し潰し、大きな口の牙の間から血生臭い息が漏れる。

 震えて立ち上がることも、逃げることもできなかったミルフィはなにもできず、ただ目の前のドラゴンを見上げていた。

「人間だな」

 怯えるミルフィに構わず、目の前のドラゴンが人語を喋りだした。

「ドラゴンが人語を解すの……?」

 ただの獰猛なドラゴンなら、猛り狂った猪のような動物の類として認識して、殺されても仕方ないなどと思える余地は寸分でもあったかもしれないが、人語を解した瞬間、それはまったく別の意味へと変わる。

「人間と同じような知恵を持つの?」

 恐怖を前にし、死を覚悟したミルフィは隣の、まだ寝息を立てたままのエィフィの無事だけを切に願い続けた。

 自暴自棄になっていたと言っても過言ではなく、無意味と思ってもドラゴンへと語りかける言葉は止まらなかった。

「娘、助かりたいか?」

 だがミルフィの言葉を無視して、どこを見ているのかわからない爬虫類と同じような目が、ミルフィにはエィフィを見て舌なめずりでもしているかのように思え、震える体を奮い立たせて立ち上がり、眼前に躍り出る。

「私はどうなったっていい! だけど、この子だけは……妹だけは助けて!」

 膝がありえないぐらいに笑っている。

 立っていることが不思議だった。

「そうか。お前はどうなってもいいのだな。ならば、我と一つの約束をしろ」

「約束……?」

「ああ、約束を守ればこれ以上この町は壊さないし、人間の命も奪わない」

 信じられるはずなどないが、わざわざそんな条件を出してくることがそもそもおかしい。

 ドラゴンの圧倒的な力を持ってすれば、こんな約束も交渉もいらない。

 なにかを企んでいると幼心でもわかったが、

「わかりました。妹を助けてくれるのならば、町を壊さないで、これ以上人の命を奪わないと言うのならば、約束を交わします」

「賢い人間は好きだぞ――」

 ドラゴンはミルフィに顔を近づけて、その大きな口から紡がれているとは思えないほどに静かな声で語った。

「それでオットーの町が救われるのならば」

「素直ないいやつだ。お礼代わりに町に戻って、我に石をぶつけて追い立てろ」

「え?」

「娘がドラゴンを追い払った英雄として崇められ、貧しい暮らしからも脱するだろう?」

「そんなことまで……?」

「なあに。我は意外と優しいんだ」

 どの口がそんな言葉を言うのか、ドラゴンの口元を見るが、それ以上に嬉しかった。

「わかりました。なんでもやります」

 ミルフィは手頃な石や枝をたくさん手にして、翼を広げ、暴風を巻き起こすドラゴンの羽ばたきに負けぬように踏ん張って、手にしたそれを投げながら追い立てた。

「ぐわおぉ!」

 ドラゴンは苦しそうに雄叫びを上げながら翼を広げて、空へと文字通り尻尾を巻いて逃げ遂せる。

「二度と来るな!」

 半壊した建物と周囲を焼く炎の中、空に向かってミルフィが叫ぶと、その様子を物陰から見ていた町の人々が、恐る恐る出て来る。

 その声の主がミルフィであることを確認すると、その勇ましい姿を誰もが称えた。

 ドラゴンを追い払ったのがミルフィであるという噂は瞬く間に町中に広がり、彼女こそがオットーの町の英雄となり、誰もがこれから先、唯一の存在として崇められるだろう。

「ミルフィちゃん、落ち着いて聞いてくれ」

 しかし突きつけられた現実は、幼い二人には過酷なものだった。

 両親の死――それにより齎された現実は、さらなる災厄をミルフィに突きつけた。

「エィフィ、声……」

 両親の死を知ったエィフィは泣き叫び、倒れるように眠り続け、目覚めた時、エィフィは声を失っていた。

 医者の話では精神的な一時のものだろうと言ったが、死んだ両親が生き返らない以上、声を戻すきっかけなど掴めないまま、十年という月日が流れる。


 時間が経つに連れ、食べ物をはじめ物資は圧倒的に不足していた。

 しかしドラゴンを追い払った英雄にして両親を失ったミルフィと、その妹のエィフィには町民たちができる限りのことをして、率先して物資を分け与え、優しくした。

「私がドラゴンを追い払ったのよ! すべてを私に寄越しなさい」

 ある程度の復興が進みだした頃、ミルフィの態度が急変した。

 あのドラゴンが来るまでは優しかったミルフィは言葉が不自由で幼いエィフィにすら辛く当たるようになり、町のあちらこちらでミルフィに対する不平不満が増えていった。

 町中の人間が彼女を嫌い、疎ましく思うまでにはそう時間はいらなかった。

 そしてドラゴンの襲来から十年という月日が流れた。


「いらっしゃーいませーっ!」

 誰にでも受けるような笑顔を顔面に貼り付け、胸元を大きく露出したメイド服に身を包み扇情的な格好をした女、リシャータが銀のお盆を掲げて優美に微笑み、店内に入ってきた二人の男を空いている席まで案内する。

 ここはオットーの町の入り口にある酒場。

 仕事に出ていた男たちが大挙として押し寄せ、海の見晴らしがいいこの町に観光や仕事で訪れた男たちは女たちで目の保養をしながらぶどう酒やビールを浴びるように飲んでは馬鹿笑いをしている。

「おおーい、リシャータちゃんビールくれ」

「はーい」

 短いスカートを翻してリシャータはテーブルの間を男を誘うような腰つきで動き回る。

「おーい、そこの姉ちゃん、こっちに来て一緒に飲もうや」

 カウンターでテーブルからグラスや食器をさげてきた黒髪のショートカット、細身の少女が胸にお盆を抱いて振り返る。

「そうそう、そこの別嬪さん。こっちに来て一緒に飲もうや」

 黒髪の少女は、明確に拒絶するでもなく幼い顔立ちを困ったような顔に変えて小動物のように小刻みに動いていた。

「お客さ~ん、あんな貧相な娘がいいの? 私みたいな妖艶な女がいるってのにさ」

 店の中を歩き回っていたリシャータが、少女を呼ぶ男のテーブルに尻をのせて、恰幅のいい男の顎を持ち上げて挑発的な目を向ける。

「そ、そうだな。リシャータちゃんの方がいいわな」

「ほらなに飲む? もっと飲みなさいよ」

「じゃ、じゃあビールを追加で」

「ビール追加ー!」

 リシャータが高い声で、客たちにも負けない大声で言うと、カウンターの中では次々と注がれていく。

「はい、エィフィちゃん。接客はしなくていいから、これをあのお客さんにお願い」

 エィフィは筋肉質なこの酒場のマスターでもある大男に笑顔で頷いてビールをお盆に載せて客席まで運ぶ。

 言葉を発することのできないエィフィは満面の笑みと愛嬌を持ってテーブルに並々と注がれたビールを置き、お辞儀をして後にする。

「いいね、エィフィちゃんは。献身的で」

「まだ十五だってのに、この店一番の働き者だよ、あの子は」

「そうなのかい?」

 カウンターに戻って次の注文を運ぶエィフィの後姿を見ながら、リシャータが馴れ馴れしく、客のいるテーブルに尻をのせ、生足を見せ付けるように組んで、テーブルのビールに手を伸ばして躊躇なく飲む。

「ほら、カウンターの上の二階席から見下ろしてる金髪の子いるでしょ」

「ああ、客じゃないようだな」

「そ。あの子はエィフィの三つ上の姉で、十年前のこのオットーの町をドラゴンから救ってくれた英雄様」

 リシャータはおどけるように言って、ビールを全部飲み干し、コップをテーブルに置く。

「で、お客さん、次はなにを飲む? 酒ならいくらでもあるよ」

「今、私の分飲んだよな」

「まあ細かいことは気にすんなって」

 豪快に笑って乱暴に背中を叩いては周りの客に笑われ、諦めろと言われる始末。


 そんな光景の一部始終を――いや、騒々しい店内を笑顔のまま、誰よりも静かに歩き回り、こんな下品な酒場にあっても、墓場に咲いた一輪の花のような場違いの笑顔を向けたエィフィの姿を、ミルフィは黙って見続けた。

『お姉ちゃん、ご飯持って来たよ』

 言葉は出ずとも、なにを言いたいのかは誰にだってわかる。

 手にしたお盆に載せられた乾いたパンと白い湯気の立つシチュー。エィフィは客に向ける以上の笑顔をミルフィに向けて、テーブルにお盆を置こうとする。

 ミルフィはいつもと変わらぬエイフィの姿を奥歯を噛んで睨み、乱暴に腕を振るってお盆を弾き飛ばした。

 食器の割れる乱暴な音が店中に響き渡り、包んでいた喧騒が一瞬のうちに晴れる。

「あんたが私にそうするのって哀れみかなにか?」

 ミルフィの声は震えていた。

 恐怖でも悲しみでもなく、怒りでだ。

 エィフィは腕を胸に抱いて首を振る。

「あんたは誰からも愛されて、大切にされて、いいご身分よね。喋れないから、可愛いからって色んな人に優しくしてもらえてさ!」

 必死にエィフィがなにかを訴えかけようと、潤んだ瞳を向けてくる。

「あんただってさ、こんな私がいなければ、もっといい生活できるもんね。あんたにとってのお荷物よ、私は」

 震える下唇を噛んだエィフィ。

 その背後から騒ぎを聞きつけ、先ほどから客の間を行き来していたリシャータがやってきて、無言でミルフィの頬を叩く。

「あんた店の迷惑だよ。部屋に戻りな」

 勝気なリシャータの鋭い目に睨まれて、ミルフィも黙って睨み返して踵を返す。

 立ち去る途中、床に零れたシチューを片付けるエィフィを見て眉間に皺を寄せるが、なにも言わずにその横を通り抜けて、奥の部屋へと消える。

「すいませーん。お騒がせしましたー。みなさん、どうぞお酒を楽しんでくださーい」

 そう言って客の調子を取り戻させて、一階からは死角となった場所へとしゃがみ込んでエィフィの片付けを手伝う。

「酷いお姉さんだね。……ごめん」

 無言で見つめられてリシャータは気まずそうに視線を逸らすが、この場にいた者は誰だってどっちが悪いかなんて明確にわかる。


 十年前の英雄はもうこのオットーの町には必要とされていない。

 それどころか不幸な少女エィフィが献身的に働くその姿こそ、町の誰もが応援し、英雄ではなく、町の娘的な存在として愛している。

「だけどそれに引き換え、姉の方は」

 かつての英雄だって、ドラゴンが来ない町にはもう必要ない。この十年、世界には平和が訪れ、十年前まであちらこちらで頻発していたドラゴンによる被害は皆無。それどころか、その姿を見た者がこの十年いないのだ。

 屋根裏部屋のような天井の低くなった小部屋に、二台のベッドと申し訳程度の小さなタンスの置かれたミルフィとエィフィ、二人が住み込んで働く部屋。

 そのベッドにミルフィは寝転がり、小さな明り取りの窓から見える満天の星空を見た。

「私なんて……誰からも嫌われて、疎まれて、死んでしまえばいい。そうすれば……」

 ぎゅっと拳を握り、店の方の賑やかな声から逃げるように枕に顔を埋めた。

 かつての英雄は地に落ち、かつて英雄の背中に隠れて泣いているばかりだった弱い少女はすっかり町の人気者。

 当時を知っている人にだって、あの二人がこうも変化するなんて誰にも想像できない。

「明日で、あれから十年――私の誕生日」

 それから半年以上をかけてどうにか人が生活できるようにまで修復させたが、それはとりあえずの表面的なものでしかなく、実際にはこの十年経った今でも復興の最中だ。

 それでも人は漁に出るし、建築や片付けなどの力仕事はあるし、店が開けば商売もある。そうすれば人は物を買い、金を得るために働き、物を食べ、酒を飲んで労を労う。

 みんな仕事をすることで生きていることを実感しているのがオットーの民だ。

「お父さんとお母さんが死んで十年……私がここにいられる最後の日」


 あの日から十年が経った日の朝。

 町には楽しい音楽が鳴り響き、正午までには漁に出ていた船が戻ってきて、町民が全員揃って、十年前の犠牲者の冥福を祈る。

 部屋の小窓からその様子を見ていたミルフィは、室内に恐る恐る入ってきたエィフィに目配せをして、すぐに視線を外に戻す。

「なに?」

 喋れないエィフィには学がないため、文字の読み書きもできないが、その手には一枚の紙が握られていた。

「なにこの下手くそな字」

 エィフィはおどおどした表情で、自分を指差した。

「あんたが書いたの?」

 二度、三度と大きく頷く。

「酒場の客か、リシャータに教わったのね」

 酔っ払ったミミズが這ったような文字を、目を凝らして確認する。

「だ、い、す、き……大好き? この下は誕生日おめでとうって書いてあるのかしらね」

 怯えながらも、両手を胸に抱いて何度も頷いた。

「そう。私は大嫌いよ!」

 もらった手紙を乱暴に破り捨てて、泣き出したエィフィの横を通り抜けて部屋を出、開店準備をしている酒場の方へと顔を出した。

「あらミルフィ。働きもしないで、どこかにお出かけかしら?」

 大量のパンが入った布袋を持ったリシャータが例に違わず挑発的な格好のまま近寄って来ては皮肉の言葉をぶつける。

「あなたには関係ない」

 ミルフィはそれ以上の会話を続けることなく店の一階へと下りていく。

「可愛くない子」

 そんなことをぼやきつつ、エィフィを呼ぼうと二人の部屋に顔を出せば、エィフィが声なく小さな体を震わせて泣いていた。

「あいつ!」

 手にしていたパンの袋を床に落とし、店の外に出て行こうとするミルフィの背中を追いかけた。

 しかし外に出たミルフィの足は思った以上に速く、その姿はすでに見えない。

 そこかしこで老若男女問わず、酒瓶を傾けて歌っては踊り、踊っては笑っている。

 そんな楽しい空気に町が包まれていても、目の前にミルフィが現れると、誰もが黙りこくり、彼女に対して道を開ける。

 陰口を叩くわけではないが、彼女と目が合えば逸らし、彼女の背中をこっそりと眺め、誰もが疎ましく思う。

 ミルフィはこの十年の間、町を救ったという事実を恩着せがましく言って、物資の少なかった町から、食べ物も、住まいも、着る物だって優先して、奪うようにしていた。

 それが声を失ったエィフィのため、というのならば誰もが納得できただろうが、ミルフィはエィフィにだって冷たかった。

 両親を失い、姉からも見放されたエィフィを助けたのは同じようにあのドラゴンの襲来により両親と弟を失ったリシャータ。彼女はエィフィを実の妹のように可愛がった。

 酒場での住み込みでの仕事はリシャータからの誘いで、そんなミルフィを一人にできなかったエィフィは無理を言って、一緒に住まわせてもらうこととなった。

 一応家は、家族と住んでいた場所に建て直してあるが管理をしていないため朽ちている。

「ここも」

 町中を歩き回っていたミルフィは、家の中に入り、ドラゴンに壊されず、唯一偶然残った一枚の壁の前に立つ。

 壊されずに残った物はどの建物でもそこを補う形で補修・改修されている。

 今はいない両親との記憶や匂いが残った一枚の壁をそっと撫でると、ざらざらとした壁の表面から細かい土埃とともに砂が落ちる。

「お父さん……お母さん……ごめんなさい」

 十年という時間、エィフィのために我慢していた涙が溢れ出してきた。

「ちゃんとエィフィの居場所もできたから。約束も守ったから」

 ひっぐ、と喉を鳴らしあえぎながら震える奥歯を必死に噛んで、覚悟の言葉を紡ぐ。

「あの子にちゃんと嫌われたから。でも、離れられなかった。本当はあの子の誘いなんて乗るべきじゃなかったのに……! ずっと私は長女として、ここにいるべきだった」

 エィフィの笑顔が脳裏に蘇る。

 同い年の子よりも一回り小さい体で、声を出せないというハンデを背負いながらも、それを跳ね除けるような笑顔で献身的に働き、誰からも愛され、誰からも助けられる、ミルフィが願う以上の存在となった。

「ちゃんと私の代わりも出来たから」

 そっと戸口の方を振り返れば、そこには覗き見ることに真剣になって隠れることを忘れていたリシャータが立ち尽くしていた。

「あなた……いえ、ミルフィ」

「リシャータ、あの子をお願い」

「どういう、つもり?」

 今まで見たことのないミルフィの姿を見て、言葉を失っているリシャータは、涙で塗れたミルフィの顔を直視できなかった。

「私は今日、このオットーを出て行く。十年前のあの時から、リシャータは実の妹のようにエィフィを気にかけてくれた。少なくとも、私よりはあなたが姉に相応しい」

「そんなことない! 私は……あの日に失った弟の代わりに、あの子を……」

「それは知ってる。リシャータを見てれば、年下の子を放っておけないんだってわかるから。優しいね、リシャータは」

「なんでそんなこと言うの? いつもみたいに嫌なこと言いなさいよ! 不遜な態度でいなさいよ! 悪態を吐きなさいよ! 私のこと嫌いなんでしょ? 昨日のビンタの仕返しをしなさいよ! あんたは……」

 リシャータはミルフィの今までの態度のすべてが今日に繋がっていたことを察した。

 察して、涙を流した。

 この子はなにかのために町中の人から嫌われようとしている。そんな中でも唯一守らなければならないエィフィの居場所だけはしっかりと確保している。

「あんたのこと、私はエィフィと同じぐらい好きだったんだからね……。心配していたんだからね」

「ありがとう。でも、私のことは嫌いでいて。あと、一つお願い」

 ミルフィはゆっくりと戸口に近づく。

 そのタイミングを見計らったかのように、家の外で人の悲鳴が無数に聞こえてきて、リシャータは跳ねるように外に振り向いた。

「エィフィの将来をお願い。それが私のたった一つだけのお願いだから」

「ミルフィもしかして……」

 ミルフィは家の外へと出て町の中心部に歩みを進める。

 そんな中、人の悲鳴は止まず、何人かがミルフィの存在に気づかないほどに逃げることに必死になって肩をぶつけてよろける。

 ミルフィの歩む先にいるのは、翼を大きく広げ、口から覗く牙の間から火の粉を散らす巨大な赤黒い皮膚のドラゴン。

 十年間、その存在を確認されていなかったドラゴンが十年経った今、このオットーの町にやってきた。

「ドラゴン、私はここよ」

「十年も経てば、それなりに成長しているんだな。逃げたかと思ったぞ」

 すっかり人気のなくなった町の中心でミルフィは両手を広げてドラゴンの前に立つ。

「十年前の約束、忘れてないでしょう?」

 十年前、あの時ミルフィがドラゴンと交わした約束はたった一つ。

 エィフィを助けること。

 その約束の見返りもたった一つ。

「この十年、あなたに言われた通り、町中の人間から嫌われた。これがあんたの望みでしょ? それでなにをさせたいの?」

 幼い頃にはそれになんの意味があったのか、それすら考えずに目先の助けると言う言葉に縋ったが、十年経ってもわからない。

 そんな様子のミルフィを見て嘲笑うかのようにドラゴンが笑った――ように見えた。

「我の望みは一つだ。お前、我の気持ちがどんなかわかるか?」

「……最低」

 人に好かれれば嬉しいが、嫌われれば寂しいし、直接投げかけられた言葉でなくとも誹謗中傷は胸に痛い。

「そうだ。それが我の気持ちだ。人間は我に心がないと言い、我らを殺そうとする。我がなにもしていないのにだ」

 その存在を恐れられるのは人間の習性だ。

「私にあんたと同じ気持ちを味わわせてなにをしたいの? 私を殺すの?」

 十年前はドラゴンが人類の敵であり、それを追い払ったミルフィは英雄となった。

 だがこの十年でドラゴンの驚異は去り、平和な町オットーにあって唯一町民の懸念、共通の敵、疎ましい存在として挙がるのはミルフィだ。

 もうこの町では生きていけない。

 失った信用など取り戻せるわけがない。

「もうこの町に、いたくはないだろう?」

「ええ……十年前、なぜあんたが私を助けたかは知らない。あんたの希望したように、私は人間に嫌われ一人になった。この世で生きていながら、不幸になった!」

 涙が溢れてきた。

 八歳はなにもわからない子供ではない。

 町が大変な時に、自分のわがままで贅沢な暮らしをし、誰かが悲しんでいても、見てみぬ振りをし、施しなど与えない。

 他人を不幸にしてきたミルフィが味わう孤独は、集団の中で生きる人間にとっては最大の不幸だ。

 町がどんなに笑顔になろうと、どんなに幸せを感じようと、ミルフィだけはそこに加わることを許されない。

「お前の不幸、我がもらおう」

 ミルフィは言葉を失い、見下ろすドラゴンのなにを映しているのかわからない目を覗く。

 不意にドラゴンが顎を地面につけて伏せる。

「背中に乗れ。我とともに、誰も来ぬところに行こう。それですべて終わりだ」

「どういうこと……?」

「我はお前を気に入った。あの小さな人間が、それ以上に小さな人間を守るために命を懸ける。仲間内で殺し合いをした仲間よりも、お前の方が我に相応しい」

 この十年という時間は、人語を介すドラゴンが与えた、死ぬことを許さず、それでいて希望を奪いながらに生きることを諦めさせた。

死を覚悟したミルフィはドラゴンの言葉に従い、ドラゴンに手を伸ばし、歩を向ける。

 そんな時、どこからか飛んできた小石がドラゴンの頭にぶつかる。

「エィフィ、なんで」

 涙で塗れた顔でなにかを喋ろうと、喉をひくつかせるが、声が出ないもどかしさをエィフィから感じる。

「だ、め……お、ね、え、ちゃ、ん……す、き、だ、か、ら」

 擦れた声を一言一句、必死に吐き出す。

「ミルフィは誰からも嫌われてなんかない」

 ミルフィの背後から怯えたリシャータが現れ、巨体を見上げるが震えは止まらない。

「よくこんなのと交渉できたものね……。当時たった八歳の子供がこの十年の世界の平和を守り、ドラゴンを大人しくさせたなんて」

 どれだけのものを一人きりで、その小さな背中で背負い、誰にも言えない、頼ることもできないままに抱えてきたのだろうか。

 想像するだけで言葉を失う。

「あんたなんかにミルフィは渡さない!」

 リシャータが怒鳴るように叫ぶ。

 すると、ドラゴンが十年前と違い町を破壊しないことにも、咆哮が聞こえないことに違和感を覚えた町民たちの何人かが戻ってきて、農具や漁具を手にして、エィフィやリシャータを守るため――その二人が守ろうとするミルフィを守るため――もしくは十年前、愛する人を殺された仇を取るため、一丸となって勇気を振り絞り結託した。

「人間なんていつ裏切るのかわからないんだぞ。約束なんてすぐに違えるんだぞ。それなのになぜ、お前たちに酷いことをしたこの娘一人のために命を捨てられる?」

 ドラゴンの声に誰もが驚く。

「捨てるんじゃない! 十年前の私のように愛する人のためならば、命を懸けられる!」

 ミルフィはドラゴンに告げる。

「もう、ここにはあなたの求める私はいない。たった一人にでも愛されてるから。エィフィと離れたくないから!」

「そうか……。くだらんな、人間は」

 ドラゴンは起き上がらずに目を閉じた。

 孤独なドラゴンが欲した物はにか。

 ドラゴンは抵抗することなく、一丸となった町民たちの手により、命を奪われた。

 人語を介す彼の口から本当の目的を聞けることはなかったが、もしかしたら……。

「誰かに隣にいてほしかったんだよ」


                 (了)

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