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彼氏と妹が私を賭けの対象にして、家族全員が私が転ぶのを見て大笑いした 

作者: 熾星
掲載日:2026/11/05



秋の連休まで、あと二週間。仕事を終えて帰宅した私は、リビングの前で足を止めた。母と、幼い頃から付き合っている恋人の相原直樹が、旅行の話をしていたからだ。


「紗季は行かなくていいでしょ。予約を譲ってもらえば、私たちは旅行代を払わずに済むんだから」


「ホテルも交通手段も手配済みなんだろ? そのまま使わせてもらえばいいじゃないか」


 直樹まで、当たり前のように同意していた。


 私はドアの前で立ち尽くした。三か月も残業を続けて、ようやく取った旅行の予約だった。連休初日には両家の親が顔を合わせ、私たちの婚約について話し合う予定だったのに、二人の口から出てくるのは旅行のことばかりだった。


 私は一度息を整え、リビングに入った。


「紗季、おかえり。ちょうど旅行の話をしていたの。あとで予約の資料を出しておいてくれる?」


 母は何事もなかったように笑った。


「その旅行、私が三か月も残業して取ったものなんだけど」


「だから何? 家族で行くんだから、いいじゃない」


 直樹はスマートフォンを操作しながら、莉央に五万円を送金していた。画面をこちらに向け、軽い調子で言う。


「莉央に服を買ってやるんだ。旅行先で写真を撮るなら、かわいい服があったほうがいいだろ。そんなに気にするなよ。みんなが帰ってきてから婚約の話を進めればいい。数日くらい待てるだろ?」


 私は返事をしなかった。


 これまで何度も、彼の言葉を信じて待ってきた。そのたびに後回しにされるのは、いつも私だった。



1



 直樹とは幼い頃から一緒だった。十歳のとき、両親が莉央を養子に迎えた。それ以来、家の中で私が譲る場面は少しずつ増えていった。


 莉央は私の制服に落書きをして、クラス中から笑われるきっかけを作ったことがある。成人式の前には振袖の小物を隠され、出かける直前になって慌てた。大学の卒業前には、私のUSBメモリを勝手に持ち出し、論文のデータを書き換えたせいで、発表の場でも恥をかかされた。


 そのたびに、両親は同じことを言った。


「お姉ちゃんなんだから、莉央に譲ってあげなさい。あの子は繊細なんだから、少しくらい気を遣ってあげてもいいでしょう?」


 直樹も決まって、私が真面目すぎるのだと笑った。


 もう、疲れた。


 莉央は送金の通知を確認すると、母にスマートフォンを見せた。


「お母さん、見て。直樹が服を買うお金をくれたの」


「五万円で足りる? 足りなかったら、お母さんも出してあげるわ」


 母は嬉しそうに笑った。莉央は二人の写真を撮り、SNSに投稿した。


 ――旅行の準備もばっちり。家族に甘やかしてもらえて幸せ!


 私は画面を閉じ、キッチンへ向かった。


 莉央は昔から、直樹を私の恋人として扱ったことがない。両親も彼の家族も、私たちはいずれ結婚するものだと思っている。それなのに莉央は、私の前でも遠慮なく直樹に甘えていた。


 父が食卓の向こうから声をかけた。


「紗季、野菜を洗って、魚も下ごしらえしてくれ。今夜は鮭と野菜の味噌鍋にしよう。莉央も好きだろう」


 幼い頃の父は、私を肩車して郊外へ連れていき、野花を摘ませてくれた。莉央が家に来てからは、父と二人で出かける機会も減った。家の中のいいものは、まず莉央に譲るのが当たり前になっていた。


「私だって、もうずっと新しい服を買ってないのに」


 つぶやくと、母はすぐに眉をひそめた。


「どうしてそうなの? 妹が旅行用の服を買うだけでしょう。そんなことまで妬むの?」


 直樹も私の背中を軽く押した。


「この前の七夕だって、五十二円送っただろ。もういいから、夕飯を作ってくれよ」


 私は野菜を洗い始めた。


 料理を並べ、箸と茶碗を用意すると、直樹が私に手招きした。


「紗季、ここに座れよ」


 彼が指さしたのは、自分と莉央の間に空いた席だった。私は少し意外に思いながらも、椅子を引いて腰を下ろそうとした。


 その瞬間、直樹が椅子を引いた。


 支えを失った私は床に尻もちをつき、テーブルの上の食器が次々と落ちて割れた。飛び散った破片が手のひらに刺さり、じわりと血がにじんだ。


「二万円! 約束どおりね!」


 莉央が歓声を上げた。


 直樹のスマートフォンから送金完了の音が鳴る。


「莉央は紗季が素直に座るほうに賭けたんだ。俺は、どうせいつもどおりキッチンで食べると思ってた。莉央の勝ちだな」


 彼は楽しそうに笑い、莉央の頭を撫でた。


 うちの食卓は五人で座るには少し狭かった。直樹が家に来る日は、私は自分から席を譲り、キッチンで食事をすることが多かった。それなのに今日は、彼に呼ばれたから何の疑いもなく座ろうとしたのだ。


 莉央はスマートフォンを構え、床に座り込んだ私を何枚も撮った。手の痛みも忘れて端末を取り返そうとすると、直樹が先に莉央をかばった。


「写真くらいで、そんなに怒るなよ」


 直後、親戚のグループLINEに通知が届いた。莉央が、血のついた手を押さえて床に座り込む私の写真を投稿したのだ。


 ――直樹と賭けをしたら、お姉ちゃんはやっぱり言われたとおりに座っちゃった。椅子を引かれて転んだのに、ほんとに素直なんだから!


 笑い顔のスタンプが次々と並んだ。叔母は笑うスタンプを送り、従兄は「紗季は直樹のことが好きすぎるんだな」と書き込んだ。母まで、莉央が二万円を勝ち取ったことを面白がっていた。


「削除して」


 莉央は直樹の後ろから顔を出した。


「嫌よ。親戚のグループに送っただけじゃない。ネットに公開したわけでもないんだから、みんなで笑ったっていいでしょう?」


 父が箸を食卓に置いた。


「いい加減にしろ。食事をするのか、しないのか、どっちなんだ?」


 床に座り込んだ私を見下ろし、さらに言った。


「妹とふざけていて転んだだけだろう。家族全員を不愉快にさせるほどのことか?」


 私は立ち上がり、救急箱を取り出した。手のひらに刺さった破片を、消毒したピンセットで慎重に取り除く。傷が深く、少し動かすだけでも痛んだ。


 父はそれを横目で見ながら言った。


「明日は莉央の服を買いに行くんだ。直樹もお金を渡したんだから、お前も姉として少しは出してやれ」


「ありがとう、お姉ちゃん」


 莉央はすぐに笑顔になった。


 直樹が近づいてきて、私の手をのぞき込んだ。


「まだ手当てしてるのか? 床に破片が残ってると、莉央が踏んだら危ないじゃないか」


 私は彼の手を避けた。


「そこまで避けなくてもいいだろ。お前は昔から堅苦しいんだよ。冗談も通じないし」


 直樹はそう言い残し、莉央の茶碗に魚を取り分けた。


「莉央、早く食べな。誰かさんがまた怒り出したら、俺が機嫌を取らなきゃいけなくなる」


「だったら、直樹の腕の見せどころじゃない?」


 二人は顔を見合わせて笑った。


 私は傷の手当てを済ませ、床を片づけてから自分の部屋へ戻った。


 会社の上司からメッセージが届いていた。


 先月、私が担当したプロジェクトは大きな利益をもたらした。その実績を評価され、澄野市支社の責任者に就くか、成果報酬を受け取るか、選択肢を提示されていた。上司は私を責任者にしたいと考え、返事を待ってくれていたのだ。


 私は直樹との結婚を考え、遠距離になるのを避けようと、これまで何度も断ってきた。


 上司から、もう一通メッセージが届いた。


「大きなチャンスだから、もう一度考えてみないか。今夜十一時までなら、まだ間に合う」


 リビングから、莉央が私の転び方を真似して笑う声が聞こえた。直樹も一緒になって笑っている。母は私が昔からぼんやりしているから、あれくらいでは痛くなかったのだろうと言い、父は子どもの頃のほうがかわいげがあったと笑った。


 そして直樹が言った。


「やっぱり莉央のほうがかわいいよな。一緒にいて楽しいし」


 私はスマートフォンを握りしめた。上司への返信欄に、短く打ち込む。


「お受けします」



2



 翌朝、私は早めに出社し、上司に異動を正式に受けると伝えた。そのあと、旅行会社へ連絡して予約を取り消した。


「水野様、本当にキャンセルでよろしいでしょうか。秋の連休は予約が取りにくく、今回のプランはかなりお得になっておりますが……」


「はい。お願いします」


 契約上、予約金は返金されず、残りの金額だけが口座へ戻されるという。電話を切ったあと、私はしばらくスマートフォンを握っていた。


 今回の旅行は、ずっと楽しみにしていたものだった。就職したばかりの頃は給料も少なく、自分の生活費を払うだけで精いっぱいだった。それでも莉央が欲しがるものを買ったり、家の急な出費を負担したりすることが多かった。


 いちばん苦しかった時期、直樹はよく言っていた。


「お金が貯まったら結婚しよう。それまで一緒に頑張ろうな」


 私はその言葉を信じていた。結婚する日を楽しみに、少しでも貯金を増やそうと節約を続けた。友人から食事や遊びに誘われても、できるだけ断った。夏の暑い日もアイスクリームを買うのを我慢して、会社の休憩スペースにある無料のコーヒーで済ませた。


 いつか結婚する前に、家族みんなで旅行に行きたかった。楽しい思い出を作っておきたかったのだ。


 返金の通知を確認し、私は異動の手続きを進めた。必要な書類に署名し、五日後の着任に向けて準備を始める。


 帰宅すると、家には誰もいなかった。電話をかけようとしたところで、莉央のSNSが更新されたことに気づいた。


 服を試着する写真が何枚も並んでいる。父は店のソファに座り、母と直樹は莉央のために服を選んでいた。一枚には、直樹が選んだワンピースを着た莉央が、彼の隣で笑っている姿が写っていた。


 投稿には、こんな言葉が添えられていた。


 ――家族みんなでお買い物。新しい服を買ってもらっちゃった!


 私は画面を閉じた。何年も同じ服を着続けていても、誰も気に留めなかったのに。


 三十分ほどして、家族が帰ってきた。莉央は大量の紙袋を抱えて玄関に入るなり、私を見て目を丸くした。


「えっ、なんで家にいるの?」


 母も後ろから入ってきて、怪訝そうに私を見た。


「今日は仕事じゃなかったの? いつまでも家でのんびりしていないで、ちゃんと働きなさいよ」


 私は紙袋に目を向けた。


「買い物に行ってたの?」


「昨日から約束していたのよ。莉央は旅行の準備がいろいろあるんだから、先に服を買っておかなくちゃ」


 父も靴を脱ぎながら口を挟んだ。


「妹が何着か服を買ったくらいで、いちいち大げさにするなよ」


 莉央は私の返事を待たず、自分の部屋へ向かった。すぐに戻ってきた彼女の首には、小さなクマのペンダントが揺れていた。


 去年の誕生日に、直樹が私へ贈ってくれたものだった。


「それ、私の。返して」


「知ってるよ。新しいワンピースに合うから、二日くらい借りるだけ。お姉ちゃんは旅行にも行かないんでしょ? 引き出しにしまっておくよりいいじゃない」


 私は彼女に近づいた。


「返してって言ってるの」


 莉央の顔から笑みが消えた。母がすぐに間へ入ってくる。


「何をするの? 莉央はちょっと借りるだけでしょう。どうしてそんなに意地悪なの?」


 父も不機嫌そうに言った。


「たかがネックレスだろ。そんなものまで妹と取り合うのか?」


 私は直樹を見た。せめて彼だけは、自分が贈ったものだと覚えていると思っていた。


 しかし、彼は首をかしげた。


「何のネックレス?」


 胸の中が冷たくなった。


「去年の私の誕生日に、あなたがくれたものよ」


「ああ、あれか。だったら、莉央に貸してやればいいじゃないか」


 直樹は悪びれもせずに言った。


「ほら、直樹もいいって言ってるよ」


 莉央は得意げに首を振った。私はもう、取り返そうとする気にもなれなかった。


 その夜、会社から着任に関する案内が届いた。私は書類と移動の予定を確認し、荷造りを続けた。


 母が部屋に入ってきたのは、そのときだった。床に置かれたスーツケースを見るなり、不思議そうに尋ねた。


「旅行にも行かないのに、何をそんなに荷造りしているの?」


 母はすぐに思い当たったらしい。


「ああ、そうか。もうすぐ婚約するんだものね。直樹のところへ引っ越すなら、この部屋は莉央のクローゼットにできるわね」


 そう言って、私のクローゼットからキャメル色のカシミヤコートを取り出した。


「これ、まだきれいじゃない。置いていきなさいよ。莉央がこの色のコートを欲しがっていたの」


「いいよ」


 母は満足そうに笑った。


「そう、それでいいの。お姉ちゃんなんだから、いつまでも妹と張り合わないこと」


 母はコートを持って部屋を出ていった。


 スーツケースに入っているのは、身分証明書や仕事の書類、契約書など、必要なものばかりだった。母はそれに気づきもしなかった。



3



 翌朝、直樹が朝食を買って訪ねてきた。私は使っていない小物を整理していた。彼はドアにもたれ、しばらく私の様子を眺めてから口を開いた。


「まだ怒ってるのか? そんなに根に持つなよ。莉央が昨日、お前にびっくりしたって言ってたぞ」


「私が何をしたっていうの?」


「いきなり手を伸ばして、ネックレスを取り返そうとしただろ。あの子は借りるだけだったのに。お前は姉なんだから、もう少し譲ってやれないのか?」


 私は返事をせず、最後に残っていた小さな置物をゴミ袋に入れた。直樹と初めてデートした日に、ゲームセンターで取ったものだった。


 彼は私の顔をのぞき込み、ふと思い出したように言った。


「最近、また痩せた?」


「そう?」


「うちの母さんも言ってたよ。女の子は痩せすぎるとよくないって。莉央のほうが健康的に見えるし、性格も明るいってさ」


 私は差し出された朝食を受け取らなかった。


「直樹のお母さんがそう言ったの?」


「ああ。別に隠すようなことでもないだろ」


 私は直樹の目を見た。


「じゃあ、あの日、椅子を引いたのも莉央のためだったの? 私が旅行の予約を譲るって、すぐに答えなかったから?」


 直樹の表情がわずかに変わった。


「何の話だよ」


「莉央と賭けをしたんでしょう。私が何でもあなたの言うとおりにするかどうか」


 彼は少し黙ったあと、気まずそうに笑った。


「莉央が試してみたいって言うから、ちょっと付き合っただけだよ。まさか本当に座るとは思わなかった」


 私は拳を握りしめた。


「私が旅行を楽しみにしていたことも、知っていたよね?」


「もちろん知ってるよ。でも、お前ってつまらないだろ。仕事のことばかり考えてるし、一緒にいるとみんな気を遣うんだよ」


 直樹は悪びれもせずに言った。あの日のことを思い出したのか、また笑い始める。


「そんな顔するなよ。あの日、お前が尻もちをついたときの顔、本当におかしかったんだから」


 私は彼を見つめたまま、何も言わなかった。


 ちょうどそのとき、莉央が帰ってきた。最後の言葉を聞いた彼女は、嬉しそうに直樹の腕に絡みついた。


「ほらね! 直樹はお姉ちゃんのああいう堅苦しいところが嫌いなんだよ」


 莉央は私に顔を向け、得意げに笑った。


「そういえば、お姉ちゃん、去年の七夕に映画を見に行ったこと、覚えてる?」


 私は直樹を振り返った。彼の顔から笑みが消えた。


「おい、何で今その話をするんだよ」


「だって、直樹が言ったんじゃない。お姉ちゃんは自分の言うことなら何でも聞くから、映画館の前で待ってろって言えば、ずっと待ってるって。私、そんなわけないと思ったのに、本当に映画が終わるまで待ってたんだもん」


「もういい、黙れよ」


 直樹は莉央の腕を振りほどいた。


 去年の七夕、直樹から映画に誘われた日のことがよみがえった。彼は先にチケットを受け取ってくると言い、私を映画館の入口で待たせた。しばらく待っても戻ってこないのでメッセージを送ると、売り場が混んでいるから、もう少し待ってほしいと返事が来た。


 私はその言葉を信じ、入口で待ち続けた。映画が終わり、観客が出てきても直樹は現れなかった。ようやく彼を見つけたとき、直樹は莉央と並んで、楽しそうに笑いながら歩いてきた。


 私が声をかけると、彼は笑って言った。


「莉央がお前のことを試したかったんだよ。俺の言うことをどこまで聞くのかって。まさか、本当にずっと待ってるとは思わなかったけどな」


 あのときも、私は彼を信じていた。


 直樹も当時のことを思い出したのだろう。目をそらしたあと、強い口調になった。


「いつの話だよ。ただ映画を一本見ただけだろ。いつまで昔のことを持ち出すんだ?」


 莉央も横から口を挟んだ。


「そうだよ。お姉ちゃんって、本当に心が狭いよね」


 私は思わず笑ってしまった。


 二人は驚いたように黙った。


「何でもない」


 私が首を振ると、直樹はほっとしたように息をついた。彼はなだめるような口調で言った。


「お前は姉なんだから、莉央に少しくらい譲ってやれよ。旅行から帰ってきたら、婚約写真を撮りに行こう。そうすれば、もう何も問題ないだろ?」


 私はスーツケースに目を落とした。


「うん、分かった」


 午後、私は両家の顔合わせを予定していたレストランに電話をかけ、予約を取り消した。キャンセル料を差し引いた残りの金額は、私の口座に返金された。


 そのあと、直樹からもらったものを一つずつ紙袋にまとめた。婚約指輪も、ネックレスも、手元に置いておく理由はなかった。


 部屋の外から、莉央の声が聞こえてきた。


「お姉ちゃん、今夜はお母さんが鮭の味噌鍋を作るって。鶏肉ときのこの煮物もあるよ。お姉ちゃんの好きなものばっかり!」


 私はスーツケースのファスナーを閉めた。


「そう。楽しみだね」


 莉央は、私の部屋が空っぽになっていることに気づかなかった。



4



 家を出る日、朝から家の中はにぎやかだった。莉央は旅行の荷物をまとめ、母は果物を切り、父はソファで動画を見ていた。


 私が廊下を通ると、莉央は慌ててスーツケースの蓋を閉めた。


「これは私の服とアクセサリーだからね」


 母が果物を載せた皿を持ってやってきて、莉央をたしなめた。


「もう少し気をつけなさい。お姉ちゃんのものを勝手に使うと、また揉めるでしょう」


 莉央は悪びれずに笑った。


「大丈夫だって。直樹がいるんだから。お姉ちゃんは直樹の言うことなら何でも聞くもん」


 父は動画から目を離さず、笑い声を漏らした。


「紗季は昔からそうだよ。おままごとでも、直樹に言われた役をそのままやってたからな」


 直樹は食卓にもたれてお茶を飲んでいた。話を聞くと、彼も笑った。


「今だって同じだろ。旅行の予約を譲ってくれって頼めば、どうせそのとおりにするさ」


 私はその会話を聞きながら、玄関へ向かった。


 何を言っても、最後には私が折れる。家族はそう思い込んでいた。


 母は私のスーツケースを見て、何気なく尋ねた。


「今日から引っ越すの?」


 莉央がすぐに笑った。


「お姉ちゃん、気が早いね。婚約もまだなのに、もう直樹のところに行くの?」


 直樹は一瞬きょとんとしたが、すぐに笑顔に戻った。


「ほら、やっぱり怒ってないじゃないか」


 彼が荷物を持とうとしたので、私は横に避けた。


「自分で持つから」


 直樹は呆れたように息をついた。


「何を格好つけてるんだよ。どうせ俺の家に引っ越すんだろ?」


 母は二人の間に入るように言った。


「まあまあ。もうすぐ婚約するんだから、お互いに思いやりを持ちなさい」


 私は返事をせず、玄関を出る前に部屋を見回した。忘れ物がないことを確かめ、スーツケースの持ち手を握り直す。


 リビングのテレビ台には、昔の家族写真が飾られていた。


 父、母、莉央。


 私の姿はなかった。


 十歳を過ぎてから、家族写真に私が写ることはほとんどなくなった。母は以前、写真を撮るたびに私が端のほうへ引っ込んでしまうと、小言を言っていた。


「紗季はどうしていつも隅っこにいるの? もっと真ん中に来なさいよ」


 写真の前を通り過ぎ、玄関へ向かった。莉央が後ろから追いかけてくる。


「お姉ちゃん、夜は早く帰ってきてね! 旅行の予約書類も忘れないでよ。旅行保険もお願いね!」


 父もすかさず付け加えた。


「交通費もいるだろう。現金を用意しておけよ。予備のカードも置いていってくれ」


 ドアを閉める直前、直樹の声が聞こえた。


「心配するな。紗季は俺の言うことを聞くから」


 私は玄関の外で、小さく笑った。


 両親が莉央を優先しても、直樹が私を後回しにしても、私は彼らの気持ちを考え、理由を探してきた。両親は莉央に寂しい思いをさせたくないだけ。莉央は養女だから不安なのだ。直樹だって、私のために莉央を気遣っているのだろう。


 そうやって一人ひとりの事情を考えているうちに、自分がどれほど傷ついているのか、考えなくなっていた。


 タクシーが到着し、運転手がスーツケースをトランクに積み込んでくれた。


 車が走り出すと、上司から連絡が入った。澄野市支社の受け入れ準備は整っており、あとは私が到着するのを待つだけだという。


 その直後、母からメッセージが届いた。


 ――帰りに乾燥わかめを買ってきて。夜は魚の鍋にするから、莉央が好きなのよ。


 数分後には、莉央からも連絡が来た。


 ――お姉ちゃん、旅行で使う小銭も用意しておいてね。


 私は返事をせず、二人のトークを通知オフにした。


 空港が近づいた頃、直樹から電話がかかってきた。


「まだ帰ってこないのか?」


 電話の向こうから、換気扇の音と、莉央が甘えた声を出すのが聞こえた。


「何か用?」


 直樹は小さく笑った。


「いつまで意地を張るんだよ。買い物が済んだら、早く帰ってこいよ。莉央がお前の作った料理を待ってるんだから」


 私は短く告げた。


「直樹、さようなら」


 彼が何か言う前に電話を切り、その番号を着信拒否にした。


 飛行機が離陸すると、窓の下に広がる街並みが少しずつ小さくなっていった。やがて道路も建物も見えなくなり、雲だけが窓の向こうを流れていく。


 私は座席に身を預けた。


 もう、振り返らなくていい。



5 直樹



 午後八時を過ぎても、紗季は帰ってこなかった。


 水野家の食卓には、鮭と野菜の味噌鍋が並んでいた。莉央はスマートフォンを手に、時計と玄関を交互に見ている。


「直樹、私の勝ちだよね? お姉ちゃんは何でも言うことを聞くって言ってたのに、まだ帰ってこないじゃない」


「慌てるなよ。紗季は最後にはいつも俺の言うことを聞くんだ。帰ってきたら、お前の好きなようにすればいい」


 父もグラスを置いた。


「そうだ。直樹と婚約するんだから、こんな時にどこかへ行くわけがない」


 莉央は隣の椅子をちらちらと見ていた。座面には強力な接着剤が塗られ、椅子の下には小さなスピーカーが隠されている。紗季が座れば、ズボンが椅子にくっつき、わざとらしい放屁の音が鳴る仕掛けだった。


 莉央は、その様子を動画に撮ってSNSに投稿するつもりだった。


 午後九時になっても、紗季は帰ってこなかった。


 母が電話をかけたが、つながらない。父が試しても同じだった。


「買い物に行っただけなのに、どこまで行ってるのかしら」


 莉央は鼻で笑った。


「着信拒否? そんなことしたって、こっちは困らないから」


 直樹もLINEを送った。ところが、画面には送信できなかったことを示す表示が出た。


 彼はスマートフォンを見つめた。


「……俺のこと、ブロックしたのか?」


 莉央は肩をすくめた。


「じゃあ、もう一つアクセサリーをもらおうっと。あのブレスレット、前から欲しかったんだよね」


 彼女は紗季の部屋へ向かった。ところが、クローゼットを開けた瞬間、足が止まった。


 中は空っぽだった。


 母も後から部屋に入ってきて、入り口で立ち尽くした。ベッドの上に置かれていたぬいぐるみも、引き出しにしまってあった小物もない。


 机の上には、透明な袋が一つ置かれていた。


 直樹が紗季に贈ったアクセサリーや、彼に関係する品物が、まとめて入れられている。直樹は袋を手に取り、中を確かめた。


 ネクタイピン、鍵、カードキー。


 婚約指輪も、ブレスレットも、ネックレスも、全部そこに入っていた。


 袋の下には、旅行会社の返金書類と、レストランの予約取消書が挟まれていた。


 直樹は書類の日付を見た。


「昨日……?」


 父が書類を取り上げ、目を通した。秋の連休に予定していた旅行も、両家の顔合わせも、すでに取り消されている。


 紗季が床に倒れ、手のひらを切って血を流した日。家族が笑い、旅行の予約を譲るよう迫った日。その時点で、彼女はすでに動き始めていたのだ。


 母の顔から血の気が引いた。


「紗季、本当に出ていったの……?」


「どこへ行ったんだ? 直樹と婚約するんだぞ。まさか、本当に家を出るつもりなのか?」


 父の声が上ずった。


 直樹は車の鍵をつかんだ。


「会社へ行ってくる」


「こんな時間に行っても、もう誰もいないだろう。明日にしろ」


 父が引き止めたが、直樹は玄関のドアを開けた。


「紗季は退職したんじゃない。澄野市支社の責任者に異動するんだ」


 以前、上司から届いたメッセージを見たことがあった。直樹は、結婚するのだから紗季が本当に離れていくことはないと、勝手に決めつけていた。


 彼女が異動を受け入れたのは、あの日だった。


 椅子を引いて転ばせた日。手を切った彼女を笑った日。旅行の予約を譲れと言い、婚約の話を後回しにした日。


 直樹は車に乗り込み、会社へ向かった。


 しかし、ビルに着いたときには、ほとんどのフロアが暗くなっていた。警備員に入館を断られたため、人事部へ電話をかけ、紗季のことを尋ねた。


「水野紗季さんですか? 昨日、異動の書類に署名していますよ」


 電話口の担当者は、何を聞かれているのか分からないという様子だった。


「いつから決まっていたんですか?」


「以前から異動の候補でした。担当プロジェクトの実績がいいので、上司もかなり前から期待していましたよ。本人がずっと断っていたんですが、一昨日の夜に正式に受けると返事があったんです」


 直樹はスマートフォンを握りしめた。


「ほかに、何か言っていましたか?」


「特には。ほかにご用件はありますか?」


「いえ、ありがとうございました」


 電話が切れた。


 直樹はビルの前に立ったまま、しばらく動けなかった。


 紗季は以前から異動を勧められていた。それを何度も断っていたのは、彼との結婚を考えていたからだ。直樹はそのことを知っていた。それでも、紗季が自分のそばを離れることはないと思い込んでいた。


 彼女は本当に、いなくなったのだ。



6



 澄野市の空港に到着すると、会社が手配してくれた同僚が迎えに来ていた。私は荷物を預け、用意されたマンションまで案内してもらった。


「水野さんのお名前は、こちらでもよく聞いています。担当されていたプロジェクトは社内の目標になっているんですよ」


 同僚は親しげに話しかけてきた。


「ぜひ同じチームで働きたいという人も多いんです」


「そうなんですか? 私は、堅苦しくて融通が利かないと思われているのかと」


 思わずそう返すと、彼女は笑った。


「そんなことありませんよ。仕事ができるし、誰に対しても公平だから、みんな信頼しているんです。仕事の割り振りもきちんとしているでしょう?」


 私は曖昧に笑った。


 家ではずっと、堅苦しい、面白みがないと言われてきた。直樹も同じことを言っていた。何度も聞かされるうちに、自分には人を楽しませるところがないのかもしれないと思うようになっていた。


 マンションに着いて荷物を置き、スマートフォンを開くと、着信履歴が何十件も並んでいた。父、母、莉央からの着信が続き、直樹からも何度も電話がかかってきていた。


 彼から届いていたメッセージは、たった一行だった。


 ――紗季、もう意地を張るなよ。


 私はそれを読み、削除した。


 謝罪の言葉はなかった。直樹はまだ、私が腹を立てて家を出ただけだと思っているのだろう。少し機嫌を取れば、いつものように戻ってくると考えているのかもしれない。


 翌朝、私は新しい職場へ出勤した。打ち合わせや引き継ぎが続き、昼休みにようやくスマートフォンを確認すると、母からメッセージが届いていた。


 ――朝ごはん、今日は誰も買ってこなかったのね。


 私は画面を見つめた。


 以前は、家族が起きる前に家を出て、それぞれの好みに合わせて朝食を買っていた。父にはおにぎり、母には温かいミルクティー、莉央には近所の店の卵焼きサンド、直樹にはハンバーガーとブラックコーヒー。


 何軒も回って買いそろえ、みんなが起きる頃には帰宅する。そんな朝を、私は何年も繰り返していた。


 続けて、莉央からもメッセージが来た。


 ――ねえ、お姉ちゃん。私のスマホに登録していた支払い方法、解除した? 昨日、買い物しようとしたら使えなかったんだけど。


 莉央は以前から、私名義のクレジットカードをスマートフォンの決済サービスに登録し、買い物に使っていた。請求が届くたびに私が支払っていたため、それが当たり前になっていたのだ。


 私は返事をせず、スマートフォンを伏せた。


 仕事を終えて新しいマンションに戻り、必要な生活用品を買いそろえた。夕食は、自分の好きなものを作った。


 食卓に一人分の料理を並べ、椅子に座る。


 静かな部屋で食べる夕飯は、思っていたよりずっと落ち着いた。



7



 一週間後、両親が澄野市支社まで私を訪ねてきた。


 昼の会議が終わったばかりの頃、受付から内線が入った。来客があるという。エントランスへ下りていくと、待合スペースに両親が並んで座っていた。二人とも、以前よりずっと疲れた顔をしていた。


 母は私を見つけると、すぐに立ち上がった。


「紗季、電話にも出ないから、仕方なく会社まで来たのよ」


「何の用?」


 母は一瞬言葉に詰まり、父が代わりに口を開いた。


「家に帰って話そう」


「それは無理。話があるなら、ここで聞くよ」


 父は周囲を気にしながら、声を落とした。


「何だ、その言い方は。会社の人もいるんだぞ」


 私は父を見つめた。


 子どもの頃、莉央が私のおもちゃを取っても、両親は私に譲れと言った。直樹と莉央が一緒になって私をからかっても、両親は笑って済ませた。何度傷ついても、私が我慢すればそれで終わりだった。


 母は涙を浮かべた。


「今回は莉央が悪かったわ。お父さんも、あの子を叱ったのよ。写真も投稿も全部消したから。あなたが傷ついたのは分かってる。でも、本当に帰ってこないつもりなの?」


 母は少し間を置いてから、直樹の話を持ち出した。


「直樹だって、悪気があったわけじゃないでしょう。あなたたちは小さい頃から一緒だったし、もうすぐ婚約するはずだったのに。どうして、そこまでして婚約を取り消すの?」


「私が家を出たのは、椅子を引かれて転んだからだと思ってるの?」


 両親は黙った。


 私はこれまでの出来事を、一つずつ話した。


「十歳のとき、莉央が私の制服に落書きしたでしょう。みんなに笑われても、お母さんたちは、あの子はまだ子どもだからって言った。成人式のときもそう。振袖の小物を隠されて、出かける直前に困ったのに、たいしたことじゃないって言ったよね」


 母は目を伏せた。


「大学の卒業前だって、莉央が私の論文を勝手に書き換えたせいで、発表の場で恥をかいた。それでも、お父さんたちは、卒業できるならいいじゃないって言った」


 父も何も言わない。


「今回、私は床に倒れて、手から血を流していた。それなのに、みんなが心配したのは莉央のことだった。私がどう感じているかなんて、誰も気にしなかった」


 私は両親を見た。


「じゃあ、何が起きたら大事なの? 私はずっと莉央に譲り続けて、両親も、恋人も、自分の人生まで譲らなきゃいけないの?」


 母の目から涙がこぼれた。父はうつむき、何か言おうとして口を開いたが、言葉が続かなかった。


「そんなに莉央が大事なら、これからは莉央に面倒を見てもらって。私はもう、両親も恋人もいらない。これからは自分の人生を生きるから」


 父は何か言いかけたものの、結局何も言えなかった。母の腕を引き、二人はうなだれたまま出口へ向かった。


 私はその背中を見送り、オフィスへ戻った。



8



 両親が帰ったあと、直樹が会社にやってきた。


 彼はひどく疲れた顔をしていた。手には、私が家に置いてきた紙袋を持っている。私の前に立つと、しばらく迷ったあと、ようやく口を開いた。


「紗季、少し話せないか?」


 私は腕時計に目を落とした。


「五分だけ」


 直樹は自嘲するように笑った。


「今は五分しかもらえないんだな」


 私は返事をせず、話すよう促した。


 直樹はうつむいた。


「椅子を引いたのは、俺が悪かった。ネックレスを莉央に貸してやれって言ったのも、よくなかった。だけど、紗季。俺が好きなのはずっとお前だよ」


 彼は一度言葉を切り、私の顔をうかがった。


「映画館のことだって、あんなつもりじゃなかったんだ。昔から、俺たちはああいう冗談を言い合ってただろ。お前だって、今までは本気で怒ったりしなかったから……」


 私は黙って聞いていた。


「だったら、戻ってきてくれよ。婚約はそのままでいいだろ? 欲しいものがあるなら言ってくれ。何でもするから」


「直樹、どうして私が婚約を取り消したのか、本当に分かってる?」


 彼は喉を鳴らした。


「椅子を引いたことが、そんなに嫌だったのか?」


 私は首を振った。


「あなたは、私がどれだけ傷ついても気にしなかった。私があなたを好きだから、何をしても許すと思っていたんでしょう」


 直樹の顔から血の気が引いた。


「私が家族みんなで食卓を囲みたいと思っていたのを知っていたから、莉央と賭けをした。去年の七夕に、私があなたと映画を見たがっていたのも知っていたから、チケットを取りに行くと言って、ずっと待たせた」


 私は一度息をついた。


「あなたがくれたものを、私が大切にしていたことも知っていたよね。だから、莉央に渡しても、私は何も言わないと思ったんでしょう」


 直樹は目を伏せた。


「あなたにとって、私はいつも必死にあなたをつなぎ止めようとしている人だったんだと思う。私が離れていくことなんてないと決めつけていたから、私があなたを必要とするたび、簡単に手を離せたんでしょう」


 直樹は慌てて言い訳を始めた。


「俺はただ、お前に仕事ばかりじゃなくて、もっとみんなと遊んでほしかったんだ。莉央は養女だから、両親もあの子に寂しい思いをさせたくなかった。俺がお前ばかりを優先したら、みんなが嫌な思いをすると思って……」


「じゃあ、あなたは誰の恋人なの?」


 彼は口を閉じた。


「私を特別に大切にしてくれない恋人なんて、もういらない」


 直樹はしばらく黙っていた。やがて顔を上げたとき、目には涙が浮かんでいた。


「もう一度だけ、許してくれないか? やり直したいんだ。これからは莉央とも連絡を取らない。両親がどんな態度を取っても、今度こそお前の味方になるから」


 私は腕時計を見た。


「五分、過ぎたよ」


 立ち去ろうとすると、直樹が手を伸ばして私を引き止めた。


「本当に婚約を取り消すのか? 俺が悪かった。分かったから……」


 私は足を止め、彼を振り返った。


「うん。あなたがくれない特別扱いを、これ以上待ちたくないの。自分のしたことを本当に反省しているなら、これからは私の人生に関わらないで」


 直樹はその場に立ち尽くした。頬を涙が伝っていた。


 これまで、喧嘩をするたびに先に折れてきたのは私だった。直樹の言い分を聞き、彼の気持ちを考え、どうすれば関係を元に戻せるのかを必死に考えてきた。


 もう、その必要はない。


 私は背を向け、彼のもとを離れた。



9



 翌年の秋、私は澄野市支社で責任ある立場を任されるようになっていた。新しいプロジェクトは以前より厳しい条件を求められたが、私のチームに入りたいと希望する社員は増えていた。仕事の割り振りも成果の評価も公平に行う。その姿勢を信頼してくれる人が、少しずつ増えていたのだ。


 その年、私は大きなプロジェクトの成果報酬を受け取った。自分へのご褒美に、少し贅沢な旅行を計画した。休暇を取り、気に入ったホテルを選び、以前から行きたかった温泉旅館を予約した。


 自分の貯金で家も買った。ダイニングにはオーダーメイドのテーブルを置き、気に入った食器をそろえた。食事のときは好きな席に座り、食べたいものをゆっくり味わう。誰かに椅子を引かれる心配も、家族全員の好みに合わせる必要もない。


 朝食も自分のために用意する。休日は出かけたければ出かけ、家で休みたければゆっくり過ごす。以前なら誰かの都合を優先しなければできなかったことを、今は自分で決められる。


 両親からは、ときどきメッセージが届いた。仕事は忙しいのか、体調は大丈夫か、たまには家に帰ってこないか。私は返事をしなかった。しばらくすると、連絡の回数も少なくなっていった。


 直樹が私を訪ねてくることもなかった。


 あの日、私に言われたことを反省したのかもしれない。あるいは、顔を合わせる勇気がなかったのかもしれない。今となっては、どちらでもよかった。


 ふと、昔のことを思い出すことがある。


 子どもの頃は、家族みんなで食卓を囲みたかった。大人になってからは、私が傷ついたときに、直樹が一度でいいから味方になってくれることを願っていた。


 そのために、私はずいぶん頑張ってきた。彼らの気持ちを考え、何度も理由を探し、自分の望みを後回しにしてきた。


 今は、誰かが変わるのを待つ必要も、自分が愛される価値のある人間だと証明する必要もない。


 好きな時間に食事をして、好きな場所へ出かける。休日に一人で旅行してもいいし、家で静かに過ごしてもいい。


 自分の人生を、自分で決められる。


 それだけで、十分だった。





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