第百六十四夜 証拠を書く手
# 第百六十四夜 証拠を書く手
届いた返答は、薄い紙だった。
けれど、その薄さは弱さではなかった。
翌朝、貸与邸の作業室には、同じ番号を持つ紙が三方向から集められていた。
王政府文書受領窓口。
学院神殿部。
聖王国封印部。
それぞれの封蝋は違う。
使われた紙も、押された確認印も違う。
だが、中央に置かれた細い番号だけは一致している。
教皇庁正規監査室番号。
受領棚番号。
返答欄番号。
そして、停止語照合番号。
四つの番号が、同じ線で繋がっていた。
「これで、中央だけでは消せません」
クラウディアが言った。
机の上には、アークライト側で作った外部監査票の写しがある。
その横に、聖王国側の返答がある。
さらにその横に、学院神殿部から届いた別紙が置かれていた。
別紙の末尾には、見慣れた名がある。
エリオット・ヴァルナー。
聖務資料整理院補助生。
学院神殿部照会記録担当。
その下に、もう一行だけ、小さな文字が添えられていた。
正規監査系統予備候補生。
「予備候補生」
リシアが読み上げた。
「はい」
エレナが答える。
「学院神殿部と資料整理院では、毎年数名、正規監査系統へ進む候補生を置くそうです。表向きは資料整理、照会、閉庫手順、礼拝所記録の補助。実際には、記録がどこで曲がるかを学ばせる」
「潜入ですか」
セラが眉を寄せた。
「潜入とは少し違います」
クラウディアが答えた。
「正式に置かれた学生補助生です。見てよい棚、触れてよい紙、書いてよい注記は決まっている。違うのは、その注記が正規監査系統へ届くことです」
リシアは、エリオットの名を見た。
神殿系学生。
聖務資料整理院の補助生。
祈りは止めず、宛先だけを外すと言った人。
調査のために祈らせることはできない、と静かに拒んだ人。
その人が、最初から少しだけ違う場所へ繋がっていた。
「隠していた、ということですか」
ステファニアが尋ねる。
「隠していたというより、見せる相手を選んでいたのでしょう」
アリシア・ファーランドが答えた。
閉じた扇の先で、紙面の一行を軽く示す。
「神殿系学生であることも、資料整理院補助生であることも本当。正規監査系統の候補であることも本当。嘘はありませんわ。全部を最初から並べる義務がなかっただけです」
「便利な言い方です」
セラが言った。
「ええ。ですから、使う者の品性が問われます」
アリシア・ファーランドは、あっさり言った。
そこで扉が叩かれた。
エレナが確認し、室内へ通す。
入ってきたのは、白い上衣に淡い灰色の外套を重ねた青年だった。
エリオット・ヴァルナー。
いつもより少し顔色が悪い。
だが、姿勢は崩れていない。
「お時間をいただきます」
彼は一礼した。
「学院神殿部および聖務資料整理院の照会記録について、補足を持参しました」
「座ってください」
リシアが言うと、エリオットは一瞬だけ迷った。
それから、用意された椅子へ腰を下ろす。
「まず、謝罪します」
「何をですか」
リシアが尋ねた。
「私は、正規監査系統の予備候補生です」
エリオットは言った。
「これまで、神殿系学生、資料整理院補助生としてのみ名乗っていました」
「嘘はついていない」
アインが言った。
短い声だった。
責める声ではない。
エリオットは、ほんの少し目を上げた。
「はい。ですが、伏せていました」
「伏せる理由はあった?」
「ありました。候補生は、監査官ではありません。自分を監査官のように見せれば、見てよい範囲を越えます」
「ならいい」
アインは言った。
エリオットは、そこで初めて息を吐いた。
「ただ、おそらく私は、候補から外れます」
リシアは驚いて顔を上げた。
「なぜですか」
「目立ちすぎました」
エリオットの答えは、淡々としていた。
「今年は、腐敗側が大きく動きました。通常の実地確認では見えない棚違い、返答削除、未承認文書、名目不一致が、短期間に重なりました。私は補助生として注記しましたが、注記した範囲が候補生の実地記録としては大きすぎます」
「失格、ということですか」
「分かりません」
エリオットは、正直に答えた。
「候補として置くには、私の名が出すぎた。正式補助監査官扱いになるのか、保護対象になるのか、あるいは一度外されるのか。まだ通知はありません」
「それを、ご自分で言いに来られたのですか」
ステファニアが尋ねる。
「はい。私の注記を、個人意見として扱わせないためです」
エリオットは、持参した紙を机へ置いた。
「今回の照合で重要なのは、私ではありません。教皇庁内部で紙を置いた若い司祭でもありません。番号です」
番号。
リシアは、机の上へ視線を落とした。
同じ番号が、違う封蝋の下に残っている。
「教皇庁正規監査室の内部保全番号。受領棚番号。停止語照合番号。学院神殿部の受領時刻。王政府窓口の受領時刻。封印部の閲覧前停止申立時刻。これらが合います」
「若い司祭の名は」
クラウディアが尋ねた。
「私には届いていません」
エリオットは首を横に振った。
「届かない方がよいと判断されています。私が名を知れば、私から奪われる可能性があります」
「正しい」
クラウディアが言った。
エリオットは頷く。
「ただし、別の情報は届きました」
彼は、二枚目の紙を開いた。
そこには、清書筆跡照合、と書かれている。
リシアは、瞬きをした。
「筆跡」
「はい」
エリオットは言った。
「腐敗枢機卿側の側付きとして置かれていた若い司祭は、正規監査室側が文書経路の異常を探るために近づけた人物だったようです」
部屋の空気が、少しだけ重くなる。
エリオットは続けた。
「本人は、不正の証拠を探すために、その場にいました」
そこまでは、誰も笑わなかった。
「ですが」
エリオットが、一拍置いた。
「腐敗側は、証拠となる文書を、彼自身に清書させていました」
沈黙が落ちた。
リシアは、最初、意味が分からなかった。
証拠を探すために入った人。
その人が、証拠になる文書を書く。
書かされた。
つまり。
「証拠を……探しに行って」
リシアは、ゆっくり言った。
「証拠を、書いていたのですか」
エリオットは真顔で頷いた。
「はい」
その瞬間、マキナが机に突っ伏した。
「だめ」
小さな声だった。
「それはだめ。ちょっと待って」
肩が震えている。
クラウディアが目を閉じた。
「笑うべきではありません」
「クラウ、口元」
マキナが震える声で言った。
クラウディアは無言で口元を手で覆った。
アリシア・ファーランドは、閉じた扇を唇の前へ上げた。
音は立てない。
ただ、扇の影で肩がわずかに揺れている。
「まあ」
アリシア・ファーランドが言った。
「教育熱心な腐敗枢機卿ですこと」
ステファニアが、上品に息を吸った。
吐く前に失敗した。
「そ、それは……その……あまりにも」
「効率的です」
エリオットが真面目に言った。
ステファニアが机へ片手を置いた。
リシアは、両手で顔を覆う。
「エリオット様、今のは追い打ちです」
「追い打ち」
エリオットは少し考えた。
「失礼しました。ですが、教育課程としては非常に充実しています」
マキナが椅子から落ちかけた。
「やめて。真顔でやめて」
部屋の隅に置かれていた小さな投影盤が淡く光った。
トトの簡易表示が開く。
『状況評価。非常に効率的な証拠生成経路です』
「トトまで」
エレナが額に手を当てた。
『補足。対象司祭の筆跡は整っており、誤記修正も規定通りであるため、証拠照合に適しています』
「字まで褒められた」
マキナが呻いた。
アインは、紙を見ていた。
笑ってはいない。
けれど、目が少しだけ細い。
「向こうが育てたな」
短い一言だった。
アリシア・ファーランドの扇が、今度こそわずかに鳴った。
「先生がよろしかったのでしょう」
「言い過ぎですわ」
ステファニアが言った。
だが、その声も少し震えていた。
エリオットだけが、真面目に紙面を見ている。
「実際、腐敗側は彼に多くを見せています」
「本当に説明を続けるんだ」
マキナが呟いた。
エリオットは気づいていない顔で続けた。
「どの印を省くと正規文書に見えるか。どの欄を後から埋めるつもりか。存在しない臨時会議名をどう置くか。本人同意欄をどう避けるか。未登録組織名簿を別紙へ逃がすか。彼は側付きとして、それを見せられています」
「そして、書かされた」
クラウディアが言った。
「はい」
「清書は整っている」
「はい」
「書式も規定通り」
「はい」
「余白の取り方も」
「非常に正確です」
今度は、エレナが小さく息を漏らした。
笑いではない。
笑いかけて、飲み込んだ息だった。
聖女アリシアが、そこで静かに手を上げた。
部屋の笑いが、すっと浅くなる。
「笑ってよいのは、仕組みです」
聖女アリシアは言った。
「あの方の恐れではありません」
マキナが、顔を上げた。
「うん」
軽い声ではなかった。
「そこは分ける」
聖女アリシアは頷いた。
「証拠を書く手にされたことは、可笑しいことではありません。けれど、その手を使わせた方々が、自らの罪を読みやすく整えた。その仕組みは、笑ってもよいのでしょう」
「はい」
リシアは答えた。
胸の奥に残っていた笑いの熱が、少し形を変える。
若い司祭は、きっと怖かった。
筆を置けない場で、書かされる。
書けば、自分の筆跡が残る。
書かなければ、別の者が書く。
そのどちらも、怖い。
それでも、彼は欄を空けなかった。
それを笑ってはいけない。
笑うべきなのは、その構造を作った側の愚かさだった。
「彼一人の証拠にしてはいけません」
クラウディアが言った。
もう笑っていない。
「筆跡だけなら、彼を潰せば終わります」
「はい」
エリオットが紙をめくる。
「正規監査室側も同じ判断です。筆跡照合は、証拠の中心に置きません。紙質、墨の調達記録、書式集の版、差戻し印、受領棚番号、同席者名、修正前後の余白、封緘時刻、返答削除の跡。すべてを並べます」
「一人の勇気にしない」
アインが言った。
「はい」
エリオットは頷いた。
「若い司祭を英雄にしない。殉教者にもしない。正規の記録に従った者として保護する。それが正規監査室の方針です」
聖女アリシアが、胸元の聖印へ指を添えた。
祈りではない。
また、名を物語にしないための所作だった。
「その方針なら、私は立てます」
「聖女アリシア様の確認として、記録します」
エレナが筆を取った。
リシアは、エリオットを見る。
「エリオット様は、それでよいのですか」
「何がでしょう」
「候補から外れるかもしれないことです」
エリオットは、少しだけ目を伏せた。
「怖くないと言えば、嘘になります」
その言葉は、今までの説明より少しだけ柔らかかった。
「私は、監査官になりたいと思っていました。信仰を守るために、記録を守る者になりたいと」
「今も」
「今もです」
エリオットは顔を上げる。
「ですが、候補であることを守るために記録を曲げるなら、候補でいる意味がありません」
リシアは、何も言えなかった。
強い言葉ではない。
けれど、動かなかった。
彼の中で、もう順番が決まっている。
「候補から外されるなら、従います」
エリオットは言った。
「候補のまま置けないと言われるなら、理由を聞きます。正式補助監査官扱いになるなら、できる範囲を確認します。保護対象になるなら、保護される理由を記録します」
「徹底していますわね」
ステファニアが言う。
「教わりましたので」
「どなたに」
エリオットは、ほんの少しだけ困った顔をした。
「腐敗側ではありません」
その返答で、また室内に笑いが戻りかけた。
だが、今度は全員が堪えた。
聖女アリシアの一言が、まだ部屋に残っていたからだ。
◇
同じ頃、教皇庁正規監査室の奥では、若い司祭が椅子に座っていた。
座っている、というより、座らされている。
目の前には、年嵩の監査官がいる。
机の上には、彼が清書した文書の写しが並んでいた。
三通の未承認司牧文書。
三方面から戻った返書。
聖女帰還勧告の草稿。
古い典礼補助書庫の写本状態確認申請。
聖歌保存調査会名義の音韻補修申請。
どれも、見覚えがあった。
見覚えがありすぎた。
「私は」
若い司祭は言った。
「証拠を探すために、あの場へ置かれたのですよね」
「そうだ」
年嵩の監査官は答えた。
「では、なぜ」
若い司祭の視線が、紙の束へ落ちる。
「なぜ、私の字ばかりなのですか」
監査官は、少しだけ沈黙した。
それから、率直に言った。
「彼らが、君の字を気に入ったからだ」
若い司祭は、顔を上げた。
「そこですか」
「そこだ」
監査官の声は、疲れていた。
だが、わずかに苦いものが混じっている。
「君の清書は、読みやすい。書式を外さない。余白を詰めない。後から連署欄を埋める時も、どこを空けたか分かる。差戻し印の位置も正しい」
「褒められている気がしません」
「褒めてはいない」
若い司祭は、両手を膝の上で握った。
「私は、証拠を探しに行って、証拠を書かされていたのですか」
「そうなる」
ひどい答えだった。
けれど、嘘ではなかった。
若い司祭は、しばらく黙った。
それから、小さく笑った。
笑ったというより、息が抜けただけだった。
「私は、間抜けですね」
「違う」
監査官の声が、すぐに返った。
「間抜けなのは、君を側に置き、君に教え、君に書かせ、君の書いたものを正規の形に整えた者達だ」
「ですが、私の筆跡です」
「だから、筆跡を中心に置かない」
監査官は、一枚ずつ紙を示した。
「この紙は、教皇庁購買部のものだ。墨は会議棟補給係から出ている。書式集は今年の改訂版。差戻し印は東方教区司教の副印。封緘時刻は夜明け前。臨時会議名は登録簿にない。本人同意欄は存在しない。未登録巡礼守護会名簿は別紙へ逃がされた」
若い司祭は、紙を見た。
自分の字がある。
だが、自分だけではない。
紙がある。
墨がある。
印がある。
時刻がある。
空欄がある。
消された欄がある。
「君は、これを書いた」
監査官は言った。
「だが、これを命じた者、これを直した者、これを使おうとした者、これを消そうとした者は別にいる」
「私は、守られるのですか」
若い司祭は尋ねた。
その声は、情けないほど小さかった。
けれど、聞かずにはいられなかった。
「守る」
監査官は答えた。
「ただし、君を英雄にはしない」
若い司祭は瞬きをした。
「英雄」
「英雄にすれば、君一人を祭り上げれば終わる。殉教者にすれば、君が消えた後の紙が読まれなくなる。君は、正規の手続きに従って紙を置いた者として残す」
「それで、足りますか」
「足りるようにする」
監査官は、机の端にある封筒へ手を置いた。
「君の受付時刻と、私の受領時刻を並べた。王政府、学院神殿部、封印部にも同じ番号が出ている。君の名を知らない者達が、同じ紙を支えている」
若い司祭は、目を閉じた。
知らない者達。
顔も知らない。
名も知らない。
けれど、同じ番号を見ている。
「私は」
彼は言った。
「まだ、あの側付きに戻るのですか」
監査官は、すぐには答えなかった。
「戻すなら、理由を記録する」
それが答えだった。
「戻さないなら、理由を記録する。移すなら、移した時刻を記録する。君が勝手に逃げたことにはしない」
若い司祭は、深く息を吐いた。
「分かりました」
それから、少しだけ眉を寄せる。
「……候補からは、外れますか」
監査官は、初めて少しだけ目を細めた。
「候補のまま置くには、君は働きすぎた」
若い司祭は、沈黙した。
「それは、失格ですか」
「違う」
監査官は言った。
「候補で済ませるには、もう足りないということだ」
若い司祭は、膝の上で握っていた手を、ゆっくり解いた。
◇
夕方、貸与邸へ二通目の追記が届いた。
エレナが封を開け、クラウディアへ渡す。
クラウディアは目を通し、机へ置いた。
「若い司祭は、正規監査室の保護下へ一時移管。名は非開示。移管時刻、受領者、理由、持ち出し文書目録は番号付きで記録済み」
リシアは、知らずに胸元へ手を当てた。
「助かったのですか」
「一段階は」
アインが答えた。
それ以上は言わない。
だが、否定でもなかった。
「腐敗側は」
ステファニアが尋ねる。
クラウディアは、別紙を開く。
「聖歌保存調査会名義の申請が正規監査室番号で戻ったことに気づき始めています」
「どのように」
「記録されています」
クラウディアは読み上げた。
「なぜ、あの若造の清書が、正規監査室番号で戻っている」
部屋に、再び妙な沈黙が落ちた。
今度は、誰も笑わなかった。
笑いの後に来る危険を、全員が分かっていた。
「気づいたか」
アインが言った。
「はい」
クラウディアが答える。
「次は、若い司祭ではなく、棚そのものを動かそうとする可能性があります」
「棚を守る」
アインの判断は、短かった。
「承知しました」
クラウディアが筆を取る。
リシアは、机の上の番号を見た。
薄い紙。
小さな印。
整いすぎた清書。
笑ってしまうほど愚かな構造。
笑えないほど怖い手。
その全部が、同じ棚へ並び始めていた。
証拠を書く手は、もう一人の手ではなかった。
紙を置いた者。
番号を合わせた者。
祈りと命令を分けた者。
笑う場所を間違えなかった者。
それぞれの手が、同じ薄い紙の端を持っている。
だから、まだ破れない。
少なくとも、今は。




