第九十三夜 布の端
第九十三夜 布の端
翌朝、貸与邸の卓上端末に学院長府からの連絡が届いた。
朝食の卓には、まだ湯気が残っている。
セラは、温かい根菜の煮込みを静かに食べていた。
静かに、というのは音の話であって、量の話ではない。
リシアはそれを見て、今は考えないことにした。
考えるべきことは、他にある。
クラウディアが連絡文を確認し、共有表示へ回した。
文字列が、卓の中央に浮かぶ。
今ではもう、リシアもその表示に少し慣れてきた。
同じ文字を全員が見ている。
けれど、文字はそれぞれの席から正面を向いて見える。
不思議だと思う気持ちは残っている。
ただ、驚きだけで止まらなくなった。
表示された文は、短かった。
カイル・ルーヴァ、およびミレイア・セイレン両名より、ファーランド大公家関係者との限定面談申請あり。
目的は、東方情勢未確認情報に関する学生間対応文の作成相談。
戦況照会ではない。
本人同意なき直接照会を避けるための学生向け文言整理。
学院長府立会い希望。
リシアは、最後の一行を見た。
戦況照会ではない。
その一文が、少しだけ胸に残った。
彼らは、国のことを聞きたいはずだ。
家族のことを知りたいはずだ。
父が何を知っていたのか、なぜ自分たちを学院へ送ったのか、確かめたいはずだ。
けれど、学院の中で求めたのは、それではなかった。
学生として、どう立つか。
誰かに何を聞かれ、何を答えずに済ませるか。
そのための文言整理。
「掴みましたわね」
アリシアが言った。
扇は閉じている。
声は穏やかだった。
「布の端を」
リシアは、小さく頷いた。
昨日のアリシアの言葉を思い出す。
紐ではない。
引けてしまうものではなく、必要なら掴めるもの。
こちらは、それを置いただけだった。
カイルとミレイアは、自分たちの手で掴んだ。
「受けましょう」
ステファニアが言った。
「ただし、条件は明確にした方がよろしいですね」
「ええ」
クラウディアが共有表示に条件案を出す。
学院長府立会い。
議題範囲は学生間対応文。
東方戦況、軍事情報、家族宛て通信内容への照会は扱わない。
記録担当は学院長府側とファーランド側で分ける。
ファーランド側記録担当、エレナ・ヴァイスベル。
エレナの手が、ほんの少し止まった。
それから、すぐに動く。
「承知しました」
声は落ち着いていた。
けれど、リシアには分かった。
緊張している。
当然だと思った。
これは、ただ紙を書く仕事ではない。
誰かが戦争の顔にされないための文を作る仕事だ。
「リシア」
アインが声をかけた。
「はい」
「お前も同席するんだ」
「私も、ですか」
「向こうはファーランドに相談している。お前がいないと、席が借り物になる」
短い言葉だった。
けれど、意味は分かった。
ファーランド大公家関係者との限定面談。
そこにリシアがいなければ、ファーランドの名だけが置かれる。
名だけを置くことの危うさを、リシアはもう知っている。
「分かりました」
リシアは答えた。
声が少し硬かった。
アリシアが、ほんの少しだけ目を細める。
「大丈夫ですわ」
「はい」
「正しいことを言おうとなさらなくて結構です。今日は、席を借り物にしないことが第一です」
リシアは、胸の奥で息を整えた。
正しいことを言う。
その誘惑は、昨日からずっとある。
けれど、今日必要なのは、多分それではない。
◇
面談は、学院本館の小貸室で行われた。
公開貸室ではない。
学院長府が管理する、限定記録用の部屋だった。
窓はある。
外の白い回廊も見える。
だが、廊下から中は見えにくい。
見せるための部屋ではなく、漏らさないための部屋。
それでも、閉じすぎてはいない。
リシアはその作りを見て、学院という場所の面倒さと、ありがたさを同時に感じた。
立会いは、学院長府の事務官一名。
ファーランド側は、リシア、アリシア、ステファニア、エレナ。
クラウディアは同席しない。
ただし、エレナの装身型端末には、低階層の補助表示だけが許可されている。
アインもいない。
これも、アリシアの判断だった。
「殿方が一人混じるだけで、頼る先の見え方が変わりますもの」
朝、アリシアはそう言った。
アインは何も言わず、茶を飲んでいた。
不満がないわけではない。
けれど、必要ならそうする。
それがアインらしかった。
カイルとミレイアは、時間通りに来た。
カイルは昨日より落ち着いて見えた。
見えただけかもしれない。
尾の動きは硬い。
ミレイアは、いつも通り静かだった。
ただ、目の下に薄い疲れがあった。
「本日は、面談申請をお受けいただき、ありがとうございます」
ミレイアが先に礼をした。
カイルも続く。
動きは少し硬いが、礼そのものは乱れていない。
「こちらこそ、正式な窓口を通してくださりありがとうございます」
リシアは答えた。
アリシアから、最初の言葉はリシアが置くようにと言われていた。
膝の上で指先が少し緊張している。
だが、声は崩れなかった。
「本日の議題は、学生間対応文の作成相談です。戦況照会ではありません」
エレナが確認する。
「はい」
ミレイアが頷いた。
「それを明記していただきたいのです」
カイルが、少しだけ苦い顔をした。
「本当は、戦況を聞きたい」
その言葉に、部屋の空気がわずかに動いた。
ミレイアは止めなかった。
カイルは続ける。
「父上が何を知っていたのかも、聞きたい。なぜ俺たちを学院へ出したのかも。だが、それをここで誰かに聞けば、俺はルーヴァ氏族の名で動いたことになる」
彼は、拳を握らなかった。
机の上に置いた手を、開いたままにしていた。
「それは、今の俺にはできない」
「できない、と言えるのは強いことです」
ステファニアが静かに言った。
カイルは意外そうに彼女を見た。
「そうなのか」
「はい。できるふりをする方が、ずっと危険です」
その言葉には、ステファニア自身の経験が混じっていた。
リシアには、それが分かった。
王子の婚約者として。
家の名を背負う者として。
できるふりをして立ち続けることが、どれほど人を削るか。
ステファニアは知っている。
ミレイアが、そっと視線を伏せた。
「私たちは、学院にいる間、連合王国の正式な外交窓口ではありません」
彼女は言った。
「ですが、周囲はそう扱いたがるでしょう。心配、興味、善意、敵意。その全てが、同じ問いの形で来ます」
「帝国は本当に攻めたのか」
カイルが吐き出すように言った。
「お前たちは知っていたのか」
ミレイアが続ける。
「お前の父は何をしたのか」
カイルの耳がわずかに伏せる。
「お前たちは、どちらの側なのか」
ミレイアの声は静かだった。
静かな分だけ、その問いの重さが分かった。
「その全てに、答えられません」
「答えなくていい」
リシアは、思わず言った。
言ってから、少しだけ息を呑む。
けれど、もう言葉は出ていた。
「答えられないことを、答えないまま置くための文を作るべきです」
ミレイアが、リシアを見る。
カイルも。
リシアは背筋を伸ばした。
「ごめんなさい。今のは、少し急ぎました」
「いいえ」
ミレイアは首を振った。
「今の言葉は、必要でした」
リシアは、少しだけ救われた気がした。
◇
エレナが、紙の上に見出しを書いた。
学生間対応文案。
その下に、四つの項目を並べる。
一、東方情勢は学院長府確認窓口を通じて扱う。
二、両名は学院生として授業出席を継続する。
三、本人同意なき直接照会には応じない。
四、心配や支援の申し出は、学院長府窓口を通す。
カイルが眉を寄せた。
「三つ目、硬すぎないか」
「硬いです」
エレナは即答した。
「硬く作っています」
「なぜ」
「柔らかくすると、相手が近づく余地を自分に都合よく解釈するからです」
カイルは少し黙った。
それから、小さく笑った。
「お前、かなりはっきり言うな」
「研修中ですので」
「研修中なら、もう少し遠慮してもいいんじゃないか」
「遠慮で危険が減る場合はします」
カイルは今度こそ、少しだけ笑った。
ミレイアの口元も、ほんのわずかに緩んだ。
リシアは、その小さな変化にほっとした。
笑う余裕が少しでもあるなら、まだ大丈夫だと思いたかった。
「ただ」
ミレイアが言った。
「三つ目は硬くてよいと思います。四つ目は、もう少し柔らかくしたいです」
「理由は」
エレナが問う。
「心配そのものを拒絶しているように見えると、別の噂になります」
エレナは頷いた。
「心配は受け取る。ただし、問いに変えない」
「はい」
ステファニアが、静かに言葉を足した。
「でしたら、こうでしょうか」
彼女は少し考え、ゆっくりと言った。
「お気遣いには感謝いたします。ただし、東方情勢に関する確認、照会、伝言は、学院長府窓口を通してください」
ミレイアの耳がわずかに動いた。
「礼を失わず、道を一本にできます」
「ええ」
ステファニアは頷く。
「礼は残します。けれど、問いの入口は閉じます」
「閉じるのではなく」
アリシアが口を開いた。
全員の視線が向く。
「別の扉へ案内するのですわ」
リシアは、その言葉を聞いて、昨日の布を思い出した。
引く紐ではない。
掴める布。
そして今日の扉。
相手を拒絶するのではなく、入ってはいけない扉から、入るべき扉へ案内する。
「その方が、角が立ちません」
アリシアは微笑んだ。
「角が立たないからといって、弱いわけではありませんわ。よく磨かれた壁は、静かに人を止めますもの」
カイルが、少し不思議そうな顔をした。
「壁なのか、扉なのか、布なのか」
「全部ですわ」
アリシアは当然のように言った。
「相手が何をしようとしているかで、必要なものが変わります」
カイルはミレイアを見た。
「お前、分かるか」
「分かります」
「そうか」
「カイルは、後で説明します」
「頼む」
そのやり取りに、リシアは少しだけ笑ってしまった。
部屋の空気が、少しだけ軽くなる。
それでも、話題が軽くなったわけではない。
エレナは、修正文を書き始めた。
◇
草案は、三度書き直された。
一度目は硬すぎた。
二度目は柔らかすぎた。
三度目で、ようやく全員が黙って読める形になった。
学院長府立会いのもと、カイル・ルーヴァおよびミレイア・セイレンは、東方情勢に関する未確認情報について、学院長府確認窓口を通じて扱うことを希望する。
両名は学院生として授業出席を継続する。
東方情勢、家族、氏族、連合王国に関する確認、照会、伝言は、本人へ直接行わず学院長府窓口を通すこと。
お気遣いは感謝して受け取る。
ただし、心配を問いに変えないこと。
リシアは、その最後の一文を見た。
心配を問いに変えないこと。
それは、とても難しい。
けれど、とても必要な言葉だった。
「これでよい」
カイルが言った。
声は低かった。
だが、さっきよりも少しだけ通っていた。
「俺が怒鳴らずに済む」
「怒鳴らないでください」
ミレイアが即座に言う。
「努力する」
「努力ではなく、方針にしてください」
「……方針にする」
カイルは渋々言った。
そのやり取りを、エレナが記録しようとして、手を止めた。
リシアは気づいた。
エレナが、記録しない判断をしている。
その代わり、別の欄に短く書いた。
本人間の私的応答。公開記録へ転記しない。
リシアは、その一行を見て、少しだけ胸が温かくなった。
記録しない。
けれど、なかったことにもしない。
置き場所を変える。
エレナの手は、昨日より慎重で、昨日より確かだった。
◇
面談終了後、学院長府事務官が草案を預かった。
文面は学院長府が整え、両名の確認後、公開連絡板へ掲示する。
掲示範囲は共同基礎講義受講者と、関係する学生会窓口。
学院全体へ広げるかは、状況を見て判断。
その線引きも、エレナは記録した。
部屋を出る前、カイルが立ち止まった。
リシアたちの方を見て、少しだけ迷う。
それから、頭を下げた。
「助かった」
短い言葉だった。
礼法としては足りないかもしれない。
けれど、今の彼には、それ以上の言葉を整える余裕はないのだと思った。
「こちらこそ」
リシアは答えた。
何に対する礼なのか、自分でも少し分からなかった。
けれど、返したかった。
ミレイアが、静かに礼をする。
「布の端を、ありがとうございました」
リシアは目を見開いた。
アリシアを見る。
アリシアは、涼しい顔をしていた。
「あら」
扇の要を指先で押さえながら、彼女は微笑む。
「掴む手があって、よろしゅうございました」
ミレイアは、ほんの少しだけ笑った。
狐の耳が、柔らかく揺れる。
カイルは何のことか分からない顔をしていた。
けれど、ミレイアが笑ったので、それ以上は聞かなかった。
二人が部屋を出ていく。
扉が閉まる。
リシアは、しばらくその扉を見ていた。
「布を置く、というのは」
ステファニアが言った。
「思っていたより、難しいですね」
「ええ」
アリシアは頷いた。
「置き方を間違えると、紐になりますもの」
リシアは、今日の草案を思い出した。
心配を問いに変えないこと。
あの一文は、多分、布だった。
引くためではなく、掴むためのもの。
遠い戦火は、まだ止まらない。
けれど、白い学院の中で、誰かを戦争の顔にしないための布の端が、一つ置かれた。
リシアはそう思った。




