群がる煮干し
――王宮の夜会。
天井いっぱいに吊るされたシャンデリアが、残酷なほどの光でホールの中心を照らし出していた。
ファーストダンスを終えたばかりのブランネージュは、肩で小さく息をついていた。
無理に締め上げたコルセットのせいで、胸元は苦しく、呼吸のたびに柔らかな体がわずかに揺れる。
琥珀色の瞳は熱を帯び、薄桃色の唇がかすかに震えていた。
(ああ……醜い……)
胸の奥で、何度も繰り返してきた言葉が浮かぶ。
(踊るたびに、この締まりのない体が揺れて……皆に見られてしまったわ……)
扇の陰。
抑えきれない嘲笑。
ささやく声。
そのすべてが、針のように肌へ突き刺さる。
それでもブランネージュは俯かなかった。
もしここで顔を伏せれば、隣に立つ王太子の威厳まで疑われてしまう。
それだけは、絶対に嫌だった。
(殿下にだけは……恥をかかせたくない……)
そんな彼女をエスコートするイオは、相変わらず冷たい鉄面皮のままだった。
だが――その仮面の下で。
(……ブラボー)
イオの思考は、完全に別の方向へ暴走していた。
(今のターン、見たか?)
回転した瞬間、ドレスの布を押し返すように揺れた柔らかな曲線。
遠心力にすら抗う、あの豊かな重量感。
腕の中に伝わってきた感触を思い出し、イオは内心で頭を抱える。
(前世の俺が拝みたかったすべてが、今、腕の中にあるんだぞ……)
(くそ……心臓が持たん)
(今すぐ持って帰りたい)
だが問題が一つあった。
――下半身である。
ブランネージュの身体を間近で感じた瞬間から、雄としての本能が完全に目を覚ましてしまっていた。
イオは気取った動作でゆっくりと前屈みになる。
それから何事もない顔で、彼女の耳元へ口を寄せた。
「ブラン」
低く落ちた声。
「……少し休め。お前は目立ちすぎる」
「……っ、申し訳ございません、殿下」
ブランネージュは慌てて頭を下げた。
「私の……このような、見苦しい体が……」
言葉が続かない。
その時だった。
「あら、イオ殿下。素晴らしいダンスでしたわ」
氷の刃のような声が、二人の間に割り込んできた。
振り返れば、そこに立っていたのは社交界の『正解』そのもの――
公爵令嬢リシェル。
一七五センチの長身。
削ぎ落とされたモデルのような体躯。
胸元は潔いほど平坦なドレスに包まれ、青白い細い指先には肉の一片すら感じられない。
リシェルはゆっくりと扇を閉じると、隣に立つブランネージュへ視線を落とした。
その眼差しは、まるで床に落ちた塵でも見るかのようだった。
「ですが殿下、おいたわしい」
薄く笑う。
「あのような肉の塊を抱えて踊るのは、さぞ重労働だったでしょう?」
「王家の品位に関わりますわ」
青白い細い手が差し出される。
「次の一曲は、ぜひ『相応しい』私と」
その瞬間。
イオの股間に――異変が起きた。
先ほどまで、ブランネージュの肉感的な揺れを浴びて猛り狂っていたものが。
リシェルの、あまりにも起伏のない肢体を視界に入れた途端。
(……すんっ)
嘘のように萎えた。
先ほどまでの熱が、嘘のように消えていく。
(……すごいな、俺の息子)
(ここまで分かりやすく反応するとは思わなかった)
(お前、その角張った肩で俺の腕を傷つけるつもりか? 俺は人間をエスコートしたいんであって、標本を運搬したいわけじゃないんだ)
(本当に、一ミリも興味が持てん)
むしろ理解する。
もし、この女が自分の隣に立つ未来があったなら。
(……俺の夜の生活、今世も終わるな)
イオはゆっくりと隣を見る。
そこにはブランネージュがいた。
白い肌。柔らかな曲線。
呼吸に合わせてわずかに揺れる豊かな胸。
(……なるほど)
イオは悟った。
(俺の平穏は――)
(ブランの、このわがままボディに守られている)
その頃、ブランネージュは震えていた。
リシェルの完璧な体。
自分の丸い体。
あまりの差に、膝が小さく震える。
(やっぱり……)
(リシェル様のような方が、本物なのね……)
(私みたいな牛は……殿下の隣にいてはいけない……)
それでも彼女は言い返さなかった。
もしここで言い争いになれば、
王太子の名に泥を塗ることになる。
それだけは絶対に避けたかった。
だが。
イオの紫の瞳は、リシェルの差し出した手を冷たく見つめていた。
(……は?)
(重労働?最高の贅沢だろ)
(お前、そのガリガリの体でよくそんな口が叩けるな。俺から見れば、お前は骨組みだけの設計図だ)
(ブランのこの弾力、その一%でも持ってるのか?)
(ねえよな)
「……断る」
低く吐き捨てた声に、空気が凍る。
「殿下、なぜ!? あのような醜い女より――」
「黙れ」
イオは一瞥もしなかった。
「……俺の婚約者を、その汚らわしい口で語るな」
次の瞬間。
彼はブランネージュの腰を強く掴んだ。
手のひらに伝わる柔らかな弾力。
熱い体温。
それだけで、理性が軋む。
(……もう無理だ)
(ここで口を塞ぐ)
(そのコンプレックスごと、全部俺が塗り潰す)
「ブラン、来い」
「えっ……殿下……!?」
イオはそのまま歩き出した。
リシェルを置き去りにして。
背後から叫び声が飛ぶ。
だがそれは、夏の羽虫の羽音ほどの価値もなかった。
夜風が吹き抜けるバルコニー。
月光に照らされたブランネージュの瞳から、涙がこぼれる。
「殿下……もう、いいのです」
震える声。
「どうか婚約を解消してください……」
「私は、殿下の……」
言葉は続かなかった。
二人の間で、沈黙が落ちる。
イオはゆっくりと腰を折る。
その影が、彼女を覆う。
「……婚約を、解消するだと?」
王太子の声は。
これまで聞いたこともないほど
低く、獣じみた熱を帯びていた。




