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追伸  作者: 咲花楓
3/5

追伸

 6畳半、抱えたままのギターの6弦が地味に音を鳴らす。

 凝視していたノートもいつしかは視界からは外れてしまっていた。

 東京、炎天下、曇りのない空。今日は七月の五の日。私は考えるのを放棄していた。

 なんとなく入った大学での成績もまちまちで、なんとかバイトをして食い繋いでいる。惰性で続けている音楽も行き詰まっている。どうしてあんなに熱くなっていたのか、今はもう思い出せない。 

 夏は嫌いだ。蝉の声が煩いから。

 聞くに耐えない夏の喧騒を窓で遮る。

 私は何をしているのだろう。一体何に突き動かされ、何をしようとしたのだろう。

 溜まった洗濯物に積み上げられた本の山、付きっぱなしのデスクトップに、午後三時半を示す時計の針。まるで怠惰の権化とも言わんばかりに気力を失った私は、何かを思い出せずにいた。必死に生きてきた今日までも、まるで切り取られたかのように。

「きっと忘れるさ」

 そう思っていたあの夏の日。もう戻ることのない、あの夏を。戻らない記憶を指でなぞる。青くて、苦しい。もう戻らない、あの続き。


 追いかけられなかった、あの背中。

 

 そうだ。少し、一人で話をしよう。もう遠くへ行ってしまった、あの続きを。

 あれは偶然だった。私は導かれるように、一人の少女と出会った。そして彼女と仲を深めた。一緒にいろんなことをした。まるで、本物の親友のように。

「夏が、過ぎて……」

 錆びついたメロディーが微かに響く。それはもう、昔の記憶。そのはずだった。

「夏の世界、で……」

 もうどうでもよかったはずの昔の記憶。ふと、その中にメロディーが流れ込んできた。

「……この曲」

 はっと、何かを思い出したかのように押し入れへ体を突っ込む。手探りのまま、暗闇の中で何かを探す。ここへ来るときに持ってきたもの。その中に何か大切なものがあったはず。

 ずっと、何かを探していた。いつかの誰かに、贈る言葉を。誰かもわからないのに、彼女が今どこにいるのかなんて、何もわかりはしないくせに。

 ありもしない希望だけを頼りに、気が付けば手を伸ばしていた。

 ふと、懐かしい感触に手を止める。そこにあったのは、文字の綴られたノート。荒んだ表紙のざらついた感触が、そっと私の心の深くに触れてくる。殴り書きみたいに描かれていたそれは、歌だった。少女が誰かへの恋心を歌った曲。

 パラパラとページを捲る。そのひとつひとつが、私の記憶にこびりついた錆を落としていく。

 そしてたどり着いたのは、まだ見えない世界。書きかけの、あの曲。

 

 思い出した。あの日と、君の全てを。忘れてしまっていた、あの夏の日のこと。

 鍵をかけるのも忘れ、無我夢中で飛び出す。吹き抜けた駅のホームの先で、三番線の電車に乗り込む。

 行く宛なら、とっくのとうに決まっている。

 まるで何かに急かされるように、足を動かす。

 あの日から会えなかったあの少女。彼女と過ごした日々を、どうして忘れてしまったのだろう。

 海へ向かう列車は、いつしか暗闇の世界を走っていた。途切れない夜の街の光を抜け、いつしか世界は眠りにつく。終点に着いた電車を降り、走る。まだ遠いけど、ここからは闇の世界。目的地へ続く列車はない。それでも私にはあの町へ、いや、彼女の元へ行く以外に道はなかった。

 暗闇の中を、ただひたすらに走る。走る。転んでも、止まらなかった。止まれなかった。


 気づくと辺りは明るくなっていた。

 午前七時を指すスマホの画面には、朝日が映っている。

 道の途中で眠ってしまっていた。知らぬ間に座っていたベンチから立ち上がる。

 もう知っている場所まで来ている。もうすぐそこにあるはずだ。私の生まれ育った場所。

 あの夏を過ごした、あの場所が。

 ――

 響く風の音。鳴る蝉の声。目に染みる汗と、痛いくらい眩しい日の光。聞こえない波の音を聞きながら、ただ足を動かす。

 今はもう聞こえないタイヤの音も、故障した自転車で落ちたことも、何故だか懐かしく感じる。帰ってきたのだ。あの場所へ。

 懐かしい校舎を横目に、坂を下る。角を曲がり、海岸線と合流する。打ち付ける波の音を聞きながら、風と暑さに揺られていた。

 ふと、堤防の上に少女がいた。そんな気がした。

 可愛らしい顔に大きな帽子、華奢な体にワンピースがよく似合う。そんな美少女が、そこにいた気がした。

 あのときのように堤防へ上る。手に触れるコンクリートが熱い。そんな灼けるような感覚を以てしても、そこに彼女はいない。それでもなんとか、話す言葉を探す。

「夢、叶えられた?」

 そんな声が聞こえた気がして、俯いていた顔を上げた。

 確かに聞こえたはずのその声に、私は少しずつ返事になる言葉を連ねていく。

「まだ……かも。何も……わからなくて」

 自分の中の答えも、この先に待つ答えも、探すとどこか不安になっていく。

 期待もしなくなっていく自分の人生、それでも彼女がくれた希望をいつだって信じていたのかもしれない。

「あなたはもっと、自信を持つべきだよ」

 そんな言葉が、聞こえた気がした。いつか彼女が私に話したこと。

 そうだよね。帰ってきて最初にこんな話、聞きたくないよね。

「こんな話じゃつまんないね。じゃあ、もっと楽しい話をしよう」

 なんて言ってみる。この言葉は、彼女に届いているだろうか。


 潮風に揺られる長い髪を、真っ白なワンピースを。体温を、匂いを思い出していた。

 相も変わらず痛くて恥ずかしいほど青い空。入道雲の隙間から差し込む光は、何処かで私たちのことを照らしている。

 ふと、すぐそこに置かれたペットボトルを見つめる。何か、懐かしい気がするラベル。あのとき、彼女に手渡したものと同じだ。

 半分ほど入った水が反射する世界は、いつだって私たちを映し出していた。

 この景色は、いつだってあの時の事を鮮明に思い出させる。止まっていた秒針が、少しづつ動き出すのを感じた。

「違う、のかな」

 少しの心残りを置いて立ち上がり、堤防から降りる。コンクリートの熱がまだ手に残っている。その手を強く握りしめて、空の向こうを見つめた。

 遠く離れていた彼女は確かにそこにいたと、そう思わせてくれるようだった。


 私にはまだ、行くべき場所がある。何度も彼女と出会ったあの場所。

 あの日と同じように、彼女に会いに行く。待っていなくても、たとえ君がいなくても。

「ここで待ってる。いつでも」

 

 言葉通り、いつでも優しい笑顔が待っている気がした。

 

 分かりきってはいた。彼女はいなかった。木陰に座る彼女も、私を覗き込む彼女も、どこにも。

 跡形もなく消え去ってしまった彼女が、幻だったのではとさえ感じてしまう。

 幻想なら、夢ならそれで構わない。どうかもう一度思い出させてほしい。

 

 いつもの木の下、彼女が座っていたあの場所に、未だ彼女の熱が残っている気がした。毎日のように、この木陰で話していたあの時を思い出す。

 彼女の笑顔も、優しさも、全部思い出した。

 そっと、地面に触れる。他の場所とは少し違う、盛り上がった部分があった。何を感じ取ったかはわからない、ただ直観に従うまま、私はその土を手でどけた。今まで自分で閉ざしてきた、たくさんの扉を開け放つように。いくら汚れたって、私の手は止まることを知らなかった。

 コツン、と何かが手に当たる。それはお菓子の箱のような物だった。よく見る、銀色のもの。

 蓋を開ける。失くしてしまった日々を取り戻すように。その中には、何枚かの紙が入っていた。

 その一番上。素朴で静かな、無地の紙の上。

 

『あなたへ』


 宛てられた先は、もうすでにわかっていた。


『そういえば、まだ名前も聞いていなくて。こんな書き出しになっちゃってごめんね。』

 そこにあったのは、おそらく、いや、きっと彼女の文字。

 何もわからぬままに読み進める。彼女に掛けられた、私が彼女に掛けていた鍵をひとつづつ取り去りながら。

『私は、重い病気にかかっていた』

 そこに在ったのは、まだ私の知らない文字だった。

『お母さんもお医者さんも治るって言ってたけど、きっともう治らないとわかってた。だから私には、生きる意味が分からなかった。このまま真っ暗な世界で終わりを待つのを、受け入れていた。お母さんが引っ越そうと言った時も、私はどうでもいいと思っていた。眺めていた海に飛び込んで、そのまま戻れなくなったらいいのに、なんて考えてた』


『でも、そんなときにあなたに出会った。話しかけてくれたあの日のことも、その次の日のことも憶えてる。いつでも私と笑ってくれた。毎日が楽しくて、あなたのために生きたい、なんて思えた』


『それでも、終わりが近付いているのはわかってた。毎日たくさんの薬を飲んで、あなたと笑っていた。それでもだんだん苦しくなってきて、ひどくなってきて。いつか急に会えなくなるんじゃないかって、毎日が怖かった』


 あの不安は、苦しみは。私だけのものじゃなかった。

 

『あなたともっと笑いたかった。歩きたかった。隣にいたかった。あなたの隣で、ずっと生きていたかった』


『私は、あなたが好きだった』


 その一文字一文字が、嫌と言うほど頭の中で響く。

 一緒にいたかったのは、あの子も同じだったのに。あのときの私は、彼女を拒んでしまった。


『声も、笑った顔も、ギターの音色も。そのすべてが輝いて見えて、私の人生を照らしてくれた。だから、死にたくなかった。もっと一緒にいたかった。でも、もうだめなこともわかってた』


「私は……私は……」

 

 苦しかった。消えゆくその文字を追いかけるのが。その先にある結末を、望みたくなかったから。

 誰も救えやしないのに、ちっぽけな粒が頬を伝っていくのを感じた。

 

『きっとこの想いは伝えられないかもしれない。あなたはきっと、忘れてしまうかもしれない。でも、忘れたらそれでいい。あの日と私の全てを。あなたには笑っていてほしいから。』


「嫌だ」


『あなたの夢が叶うように願っています。』


「行かないで」


『こんな書き方になっちゃってごめんね。伝えたいこと、ちゃんと伝わってるかな』


「ごめんね、私がもっと、」

 

『少し照れくさいけど、これだけ言わせてね』



 

「愛してるよ」



 

 行かないで、なんて。今になってそんなことを言ってしまっても。その別れを拒んでしまっても。もう何も、起きやしないのに。

 「大嫌い」なんて、そんなことも言えるはずなくて。


 

 

 ぼやける視界に溜まる水を腕で拭う。溢れ出す感情を堪え、続きを読もうとする。零れ落ちた涙で滲む紙面の上では、それでも彼女の言葉がまだ生きている。

 炎天下、快晴の下。ずっと霧がかかっていた私の心は、どこか青く澄み渡っていた。

 悲しみも苦しみも全部受け入れて、受け入れたつもりになって、絞り出した声を空へと届ける。

 もうこの言葉が、届かないとしても。

 

「私はまた、あの夏と出会えたよ。全部思い出した。あの日と君の全てを。忘れるなんて、んなわけないじゃん」

 

 そう呟く私は走り出す。

 何故か、笑っていた。


 波打つ海岸、いつかの様子で、裸足で飛び跳ねる君の姿が見えた。

 私はそこに、青の幻を視ていた。


「私も、君が好きだよ。愛してる」


 そして握った手紙へ目をやる。

 目に映るのは、彼女の生命。

 そこに綴られていたのは、二文字と、それに続く言の葉。


「追伸、

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