追憶:後章
「あははっ、冷たいよ」
青く光る水飛沫に笑みを溢す彼女を見つめる、波の最中。潮風に揺られる木々の葉が遠くで揺れる。脚が膝まで浸かりそうな塩水は、やがて夏の温度を攫う。
海に入りたい、なんて言い出したのは少女のほうだった。理由はわからないが、目が輝いていた。
きっと今まで経験がなかったのだろうと割り切るが、それでも振り切れないのはほんの少しの不安だった。そんな気持ちも日に焼かれ昇華してしまいそうなほど、日差しに灼かれるようだった。
「……どうしたの?」
覗き込む少女の目は、まっすぐ私を見る。その水晶体に、網膜に。彼女の世界には、きっと私だけが写っているのだと、今、感じた。
「ううん、大丈夫」
私も同じ。私には彼女しか映っていない。今も、明日も。まっすぐに少女を見つめて、そう答えた。
「私、海って入ったことなくて」
少し俯く少女がそう言う。
「だから、あなたと来られてよかった。こんなに冷たくて気持ちいいなんて知らなかった。」
海に入ったことがないなんて、都会の子はみんなこうなのだろうか。無邪気に笑う彼女はどこか、いつもの落ち着いた彼女とは違う気がした。
「海がしょっぱいって、本当なのかな」
そう言って手で海水をすくい上げる彼女は、それを不思議そうな顔で見つめる。
「あ、そんなに口に入れたら」
それを口に含んだ途端、思わず口の中の物を吐き出してしまう。
「うぇっ、こんなにしょっぱいの」
「だから言ったのに」
口の中に残る塩の味が容易に想像できる。喉の焼けるようなあの最悪の後味。
「うええ、口の中がしょっぱい……」
どこか儚い空気を纏っていた彼女の今まで見たこともないような無邪気な姿に、どこか愛しさを感じる。
「もう、ほら。一旦戻って水飲む?」
「うん……」
水の滴る細い腕を引く。思えば、彼女に触れたのは初めてだった。
真っ白で病的なほど細く、か弱い腕。静かにその腕を見つめる私は、何かを振り払うようにそのまま砂浜へ向かった。
ガコン、と音を立てる透き通った水の入ったボトルを手に取る。まだ明るい日差しはまるで人々を外から追い出すようだ。ひんやりと冷たいそれを少女に渡す。
「ん、ありがと」
何台か側を軽トラが通り過ぎる。
「あれ、何かな」
その行く先を指さす少女。
「ああ、あれはお祭りの準備かな」
「お祭り……聞いたことある」
「うん、今度花火大会があるの」
花火大会。この時期になると必ずやる、お決まりのイベントだ。
「花火って……あの、空で爆発する……?」
爆発、と聞くと間違ってはいないがなんだか物騒に聞こえる。
「あ……花火、知らない……?」
「あ、いや、知らなくはないけど……ずっと、遠くから見るしかできなかったから……」
瞳の奥が輝いている。期待の眼差しだ。
「じゃあ、近くで見たことはないんだ」
「うん」
東京は、遠くから花火を見るのだろうか。いや、そもそもあのビルだらけの場所に花火を打上げる場所があるのか?全く想像がつかない。
やはりきっと、私の知っている世界とは違うのだろう。そう割り切ることにした。
「ね、一緒に行こうね。花火、見てみたい」
期待の目を向けてくる。きっと、こっちに来てから色々な知らないものに出会ってきたのだろう。
私はそのすべての瞬間を、彼女と共有している。
「うん、行こうね。一緒に」
それはまるで甘い呪いのように。振り返ればそこには少女がいた。気付けばいつも傍にいた。共に時を過ごしていくうちに、彼女は私にとって特別な存在となったのだと、そんな気がした。
「またね」
と別れの言葉を交わすのも、何度も出会うのも。その全てが鮮明に、色濃く脳に焼き付く。
「星が綺麗に見えるね」
口を開けたまま、少女は夜空から目を離さない。この瞬間だけでも私が彼女の世界にいない、なんて、少し夜空に嫉妬してしまいそうになる。
「こんな星空、見たことないよ……すごく、綺麗」
そういえば聞いたことがある。なんでも、都会は街明かりが強すぎて夜空の星が見えないらしい。
これが本物なのだと、必死に目に焼き付けるようだった。
いつもの木陰、陽が無くともその視界は色付いていた。
何も無い、誰にも邪魔されない。私たちだけの、からっぽの月夜の下。
いつかの日に星空を見上げたその時も、私は彼女を鮮やかに描いていた。重なる手の温度を確かめながら。か弱く、白く。それでも確かに熱を帯びていた。
その煌めく横顔を見る度、どうしてか私の胸は締め付けられていた。涙が出そうなほどに呑まれていた。
私は、この気持ちに名前を付けられなかった。
――
昼下がりの坂道、力いっぱいにペダルを漕ぐ。いつも通りのあの道。いつものように彼女が待っているあの木の下へと向かう。
「ね、あのね。さっき、すごいところ見つけて」
開口一番に彼女は目を輝かせながら言う。
「ついてきて!」
妙に高まったテンションの彼女の後を追いかけて着いたのは、一面に広がる向日葵畑。黄色く広がるその花たちは、一斉に太陽の方を向いている。
青空を反射するかのような花たちは青く輝くようだった。青い向日葵、本当にあるのか、私にはわからない。ただ、彼女に似合うだろうなと、そんな幻想を抱くだけだった。
「ここ、見つけたの?」
そう彼女に聞く。
「うん、朝にね、家から遠くに見えたの」
そう自慢げに話し、背の高い向日葵に隠れるように彼女は走り回る。ぜぇぜぇと息を荒くしながらも、彼女は私に笑いかける。彼女がこんなに動き回っているのは見たことがない。
きっと、こんな景色も見たことがないのだろう。少し苦しそうにする彼女を心配しながらも、その笑顔を見て私は確信を持った。と、いうよりも、自分に正直になる覚悟ができた。
向日葵の森を抜け日が照りつける道へと出る。汗で輝く彼女にタオルを渡し、持ってきたスポーツドリンクを渡す。
「……ありがと、いいの?」
もともと自分のために持ってきたが、あまりに汗をかきすぎている彼女が心配になってしまった。
「うん。もちろん」
水滴が滴るペットボトルの口を捻る。半透明を覗いた先で、夏と目が合った気がした。
私はその風に乗せられるまま、気付けば心の内を口にしていた。
「あのね。やっぱり音楽、やってみようと思う」
その私の言葉に、彼女は嬉しそうに言う。
「……そっか、よかった。またあなたの曲、聞かせてね。沢山」
優しく微笑む彼女の顔に、決心がついてよかった、と思える。
いつか、もっとたくさん聞かせてあげたいな、なんて。それは自分ではなく彼女のためなのだが。
それでも喜んでくれる人がいるというのは嬉しいもので、それが続ける理由になってくれたのだ。
「うん、君は私のファン、第一号だからね」
「なにそれ、ふふ」
なんて彼女が笑い出す。
決心して少し晴れが差し掛かった心、そこにはまだ何かがあった。
私はそれを見ようとはせず、閉じ込めておくことにした。
きっといつか、失くしてしまうように。そう願った。それが良いのだと知った。
向日葵の葉を伝う水滴が地面に落ちる。日に照らされたそれは輝き、私たちを見つめる。未だ乾ききらない昨日の雨が、空気を少し湿らせる。
まるで晴れ切らない私の心みたいだ、なんて考えてしまう。
天気と心がリンクする、というような小説をどこかで読んだ気がする。世界はそういうものなのだろうか。誰かを中心に回っているのだろうか。動き続ける空、真っ白く静止した入道雲を眺める。
きっと、世界は自然に回り続ける。時は残酷に、平等に私たちを取り巻く。それでも、少なくとも私の世界は違った。彼女という特別な存在が真ん中に置かれている。ただその中に、私だけが生きているのだ。
強く手を握る彼女をどこまでも追いかける。土を踏みしめる足が沈み込むのを引き上げるように、少し軽くなった足取りで。それでも、小さな背中は私を不安にさせる。
彼女を失いたくないと、願ってしまっていた。
それは微かに、失ってしまうと思っているから。
私はそれが、怖くて仕方なかった。でも、この不安はどうすることもできない。
だからせめて、終わるそのときまで少女の傍にいたいと思う。
離さないように、その手を強く握る。
その温度は、微笑んだ彼女の顔を見て確かなものとなった。
どうかこのままでいさせてと、そう願いながら。汗の滲む手の境界線を引いた。
――
カレンダーが一枚消え、夏休みに入った。例年よりも暑い世界に、まだ夏休みじゃなかったのか、なんて疑問さえ浮かんでしまう。
ギターを抱え、ノートを凝視する。新しい歌を。彼女への歌を。また聞かせてあげたい。それは、今の私の"夢"だった。ど
うして夢、なんて遠い存在に考えてしまうのか、私には理解できなかった。
大学の入試案内が広がる机、まだ共通テスト対策には入っていないらしい。
音楽を続ける、と決めたはいいもののただ惰性で続けるようになってしまっては困るし、最低限の学歴は欲しい。なので適当に、文学部で絞り込んだ。
ただ、あらゆる学問の中で一番向いていると感じたのが文学だったというだけの話だ。作詞などにも繋げられるかもしれないし、と自分を納得させるまでに、そう時間はかからなかった。
蒸し暑い部屋の中、こうしてギターを抱えている間だけ、私は生き返る。まるでこれが生命維持装置であるように。
彼女は毎日、笑顔を絶やさなかった。でもその度に、あの時の疑念が脳裏を過ぎる。考えすぎだろうか。
ありもしない結末を、未来を頭の片隅に置き、忘れようとしていた。でも忘れちゃいけない気がして、忘れられずにいる。
それを振り払おうと、私は必死に頭を動かした。手を動かした。何も考えずに、ただひたすらに。言葉を綴った。想いを綴った。
それが届くはずないなんて、恐ろしくて考えたくなかった。
花火大会の日、少女はまたあの向日葵畑に行きたいと言い出した。
太陽の宗教。今日もまた花たちの讃歌が聞こえる。そんな情景をも無視して、彼女は畑の奥、森の中へと足を運ぶ。時刻はもう七時が近い。
「ねえ、そろそろ戻ったほうがいいんじゃない?」
そう聞く私に、彼女は何も答えない。おかしい。何かが。まるでいつもの彼女じゃない。
「ねぇ、大丈夫?」
そんな私の声も無視して、彼女は歩く。
まるで、私を引き離すように。
嫌だ。行かないで。私を置いていかないで。
そんな叫びが喉のすぐそこまで迫っていた。
まるで彼女に縋るように、私はひたすら彼女に着いていく。
薄暗い木々の隙間を縫うように、その背中を追いかけた。
そしてやがて視界は開ける。その先には空が見えていた。相も変わらず、星明かりが照らしている。
そんな星々を、闇を照らすように、大きな花が咲いた。
その重い音は私の心を震わせる。熱い温度さえも伝わってくる。
「花火……」
開けた神社、山の上のそこは、花火を見るのに絶好の場所だった。空に映るその花は、まるで私たちに用意されたように咲く。
「もしかして、これを知ってて、」
「ここなら花火、よく見えそうだな、って」
微笑む彼女が答える。一緒に視界に収めたいと、そう願ってくれたのだろうか。
赤、緑、紫とカラフルに彩られるその空は、まるで夢のような景色で。彼女と見るそれはいつも眺めていたものとは違う、鮮やかな色で世界を彩っていた。
花に見惚れるその横顔が美しくて、何故だか緊張してしまう。
「綺麗……」
そう声を漏らす彼女に応える。
「うん。すごく綺麗」
その言葉は花火よりも彼女に向けたものだった。
ヒュー、と音を立てて光が空へと上がる。きっと大きい花火だ。
空が光り、また花が咲く。その一瞬、世界が色付く。
薄暗く響く爆発音も、するはずのない火薬の匂いも。すぐそばの、彼女との距離に色を付けた。
握られた手は強く、そして優しく包み込む。この時間がずっと続けばいいのに、そう願った。
それは淡く、希薄な夢だった。
行く当てのないその夢を、忘れてしまわないように。私はそれを永遠にしようとした。
その瞬間、奪われる唇。感じたことのない感触、でも確かに何かわかる感触。
閉じた目を見開いたその前には、他の誰でもない、彼女がいた。
「え、あ、」
身体が動かない。動けない。
どっ、どっ、どっ、と。心臓が大きく動く。
胸が苦しい。息が震える。
破裂音すら掻き消してしまうほど、鼓動がうるさく鳴り響く。
目の前のその少女は、顔を赤らめて視線を逸らす。そうして私の手を強く引き、山をどんどんと降りていった。ただ離れないように、その手を握る。それだけが精一杯。
突然の出来事に、私は何も考えられずにいる。
本当に一瞬の、刹那の出来事だった。でもそれは確かにあった。
心臓の音が鳴り止まない。苦しいくらいに、私の中で暴れる。
火花の残り香の下、たくさんの屋台が夜の中で煌めいていた。
花火はもう上がらないのか、空に花は咲かなかった。
灯るたくさんの光、照らされる闇の中、そっと私を見つめる。その顔は美しくて、儚くて。涙混じりに綴られた言葉も、掠れて消えてしまいそうで。
「もう、行かなきゃ」
いやだ、行かないで。
声は出なかった。
その手が離れる。距離が、震えていた。
「いつか、あなたが大人になっても」
「忘れないで」
言葉を遺して、どうしてか彼女は走り去ってしまう。
きっと追いつけたのに、追いかけられなかった。
追いかけちゃいけないって、どこかわかっていたのかもしれない。
こんなに急なお別れが、最後のお別れになるなんて、
考えもしなかったし、考えたくもなかった。




