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無能と捨てられた調香聖女、氷の辺境伯に拾われる〜私が王都を去った瞬間、全ての香りと味が消えたようですが、今さら戻れと言われても「腐敗臭」のする国には帰りません〜  作者: くま3
第3章:香妃の神裁と、概念すら消滅する亡国

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第9話:声帯を焼く偽りの香りと、獣へと堕ちた王子

 ノア辺境伯領の地下深く、そこは「光」という概念すら、エルフレイデの許可なくしては立ち入れぬ絶対の暗闇であった。


 その最深部、氷の壁に囲まれた独房の中に、かつて「王国の太陽」と讃えられた男の残骸が転がっている。


 レオンハルト元王子。

 彼は今、自分の喉を掻きむしり、氷の床をのたうち回っていた。


 彼の喉からは、もはや一文字の音節も紡ぎ出されることはない。

 エルフレイデの香料によって融解した声帯は、彼が呼吸をするたびに「ぶつ、ぶつ……」と、煮え立つドブの底からガスが漏れるような、醜悪極まりない異音を奏でる。


「……あ、……ぶ、……」


 レオンハルトは、血走った目で宙を仰ぎ、かつての自分を呼び戻そうと必死に口を動かす。

 だが、その口から溢れ出るのは、言葉ではなく、鼻を突く「饐えたアンモニアの臭い」を孕んだどす黒い粘液だけだった。


 彼は思い出す。

 かつてエルフレイデを「無能」と呼び、冷たい石畳の上に放り出したあの日、自分は「勝利」したと確信していた。

 彼女の香りが、自分たちの醜い内面を覆い隠す「ただの化粧」だと思い込んでいたのだ。


 だが、今の彼を支配しているのは、隠しようのない「真実」という名の地獄である。

 彼女の浄化を失った彼の体は、細胞の一つ一つから「傲慢」と「嫉妬」が膿となって溢れ出し、独房の中は、彼自身の放つ悪臭によって、呼吸をすることすら困難な毒溜めと化していた。


「……ああ、……ぐ、……」


 レオンハルトは、独房の隅に置かれた、一杯の水に縋り付いた。

 それは、エルフレイデが「慈悲」として与えた、辺境の聖なる湧き水。

 だが、今の彼にとって、その清らかな水は、不浄な喉を焼き焦がす「硫酸」に等しい。


 一口含めば、喉の奥から煙が立ち昇り、激痛が脳を突き抜ける。


 『清らかなものは、不浄なものを拒絶する』。


 それは、彼女が大陸全土に刻みつけた、新しい世界のことわりであった。


 そんな彼の前に、カチ、カチと、氷を刻むような美しい足音が近づいてきた。


「……まだ、息をしていますのね。レオンハルト様」


 鈴の音のように透き通った声。

 エルフレイデだ。


 彼女は、ジークフリートの魔力で編み上げられた「光の繭」に包まれ、不浄な空気の一片すら触れさせぬ完璧な聖域を纏って、そこに立っていた。


 レオンハルトは、その眩しさに目を細め、無様に床を這いずりながら彼女の足元へ手を伸ばした。

 助けてくれ。許してくれ。かつての愛を思い出してくれ。

 伝えたい言葉は山ほどあった。


 だが、彼の喉から出たのは――「ぐじゅ、ぐじゅる……」という、腐った肉を捏ね回すような音だけだった。


「……おやめなさい。その『音』が、今のあなたの真実の姿なのですから」


 エルフレイデは、蔑みすら抱かぬ、透明な眼差しで彼を見下ろした。


「あなたが盗もうとした私の香料は、心に闇を持つ者にとっては、ただの猛毒。

 あなたがかつて私に与えた『無能』という言葉、それをそのまま、あなたの人生としてお返しいたしましたの。

 ……言葉を失い、誰にも顧みられず、自分の放つ悪臭の中で、自分の醜さとだけ向き合い続ける。

 それが、私を捨てたあなたが選んだ、王としての結末ですわ」


 レオンハルトは、絶望のあまり自分の顔を氷の床に打ち付けた。


 エルフレイデは、そんな彼に最後の一撃を与えるように、小さく、けれど残酷なほど幸せそうに微笑んだ。


「……ああ、そう。一つだけ、あなたに教えて差し上げますわ。


 私、新しい命を授かりましたの。


 ジークフリート閣下との間に宿った、この世で最も清らかで、最も尊い、愛の結晶を」


 ――瞬間。


 レオンハルトの瞳から、光が完全に消え去った。


 自分が手にするはずだった「聖女の愛」も、その血脈がもたらす「永遠の繁栄」も、

 すべては今、自分が「野蛮な北の悪魔」と蔑んだ、あのジークフリートの手の中にある。


 自分はドブの中で腐り果て、彼女は氷の楽園で、愛する人の子を抱き、永遠の春を生きる。


 これ以上の敗北が、これ以上の地獄が、この世にあるだろうか。


 レオンハルトは、血の涙を流しながら、言葉にならない絶叫を、ドブの煮える音として吐き出し続けた。


 ――地上へ。


 地下の濁った空気とは無縁の、虹色のオーロラが揺れる最上階。


 ジークフリート閣下は、狂気的なまでの速度で、城の改装を命じていた。


「……甘い。まだ温度が一定ではない。

 エルフレイデの肌が、一分でも乾燥するようなことがあれば、この城の工匠全員の首を撥ねるぞ」


 彼の独占欲は、彼女の懐妊を知った瞬間から、文字通り「暴走」していた。


 彼は、エルフレイデを椅子に座らせることすら危ぶみ、

 自らの膝を椅子とし、自らの腕を揺りかごとして、片時も彼女を離そうとしなかった。


「閣下……。そんなに殺気立っていては、お腹の子が驚いてしまいますわ」


「……。すまない」


 ジークフリートは、彼女の言葉にだけは、従順な獣のように従った。

 彼は、エルフレイデの平らな腹部に、そっと、壊れ物を扱うような手つきで大きな掌を当てた。


「……信じられん。この中に、貴様と私の血を継ぐ命があるなど。


 エルフレイデ。……貴様を、もう一歩も外へは出さん。

 この城の周りに、私の魔力をすべて注ぎ込んだ、三重の永久凍土の壁を築く。


 外の世界など、滅びればいい。

 王都の残党が、私の香りを求めて飢え死にしようが、帝国が腐敗に沈もうが、知ったことか。


 私の世界のすべては、今、この腕の中にしかないのだから」


 ジークフリートは、彼女の腹部に顔を寄せ、深く、深く、その「聖なる香り」を吸い込んだ。


 懐妊したエルフレイデの香りは、これまでの清冽さに加え、

 すべてを包み込み、再生させるような、圧倒的な「母性の神気」を帯び始めていた。


 その香りに触れるだけで、ジークフリートの狂気的な破壊衝動は、

 彼女を守るための「絶対的な守護の意志」へと昇華されていく。


「……ええ、閣下。私も、あなたとこの子がいれば、他に何もいりませんわ。


 私たちの愛を汚そうとした者たちは、もう名前すら思い出せません。


 彼らは、歴史の塵として、私たちが放つ香りの彼方へ消えていくのですから」


 エルフレイデは、ジークフリートの銀色の髪を優しく撫でた。


 窓の外、はるか遠く、南の方角。

 かつての王国があった場所には、今や「ドブの臭いを発する巨大な沼」だけが広がり、

 そこに生きる人々は、一滴の香水を巡って殺し合い、互いの肉を食らい合う、獣以下の地獄に堕ちていた。


 だが、その悲鳴も、その腐臭も、

 辺境に咲き誇る氷の薔薇の香りが、すべてを無慈悲に、美しく、かき消していく。


 救いなど、どこにもない。


 ただ、彼女を愛した者には「永遠の春」を。

 彼女を捨てた者には「永遠の腐敗」を。


 世界は、彼女の指先一つで、そう完全に二分されたのであった。

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