第9話:声帯を焼く偽りの香りと、獣へと堕ちた王子
ノア辺境伯領の地下深く、そこは「光」という概念すら、エルフレイデの許可なくしては立ち入れぬ絶対の暗闇であった。
その最深部、氷の壁に囲まれた独房の中に、かつて「王国の太陽」と讃えられた男の残骸が転がっている。
レオンハルト元王子。
彼は今、自分の喉を掻きむしり、氷の床をのたうち回っていた。
彼の喉からは、もはや一文字の音節も紡ぎ出されることはない。
エルフレイデの香料によって融解した声帯は、彼が呼吸をするたびに「ぶつ、ぶつ……」と、煮え立つドブの底からガスが漏れるような、醜悪極まりない異音を奏でる。
「……あ、……ぶ、……」
レオンハルトは、血走った目で宙を仰ぎ、かつての自分を呼び戻そうと必死に口を動かす。
だが、その口から溢れ出るのは、言葉ではなく、鼻を突く「饐えたアンモニアの臭い」を孕んだどす黒い粘液だけだった。
彼は思い出す。
かつてエルフレイデを「無能」と呼び、冷たい石畳の上に放り出したあの日、自分は「勝利」したと確信していた。
彼女の香りが、自分たちの醜い内面を覆い隠す「ただの化粧」だと思い込んでいたのだ。
だが、今の彼を支配しているのは、隠しようのない「真実」という名の地獄である。
彼女の浄化を失った彼の体は、細胞の一つ一つから「傲慢」と「嫉妬」が膿となって溢れ出し、独房の中は、彼自身の放つ悪臭によって、呼吸をすることすら困難な毒溜めと化していた。
「……ああ、……ぐ、……」
レオンハルトは、独房の隅に置かれた、一杯の水に縋り付いた。
それは、エルフレイデが「慈悲」として与えた、辺境の聖なる湧き水。
だが、今の彼にとって、その清らかな水は、不浄な喉を焼き焦がす「硫酸」に等しい。
一口含めば、喉の奥から煙が立ち昇り、激痛が脳を突き抜ける。
『清らかなものは、不浄なものを拒絶する』。
それは、彼女が大陸全土に刻みつけた、新しい世界の理であった。
そんな彼の前に、カチ、カチと、氷を刻むような美しい足音が近づいてきた。
「……まだ、息をしていますのね。レオンハルト様」
鈴の音のように透き通った声。
エルフレイデだ。
彼女は、ジークフリートの魔力で編み上げられた「光の繭」に包まれ、不浄な空気の一片すら触れさせぬ完璧な聖域を纏って、そこに立っていた。
レオンハルトは、その眩しさに目を細め、無様に床を這いずりながら彼女の足元へ手を伸ばした。
助けてくれ。許してくれ。かつての愛を思い出してくれ。
伝えたい言葉は山ほどあった。
だが、彼の喉から出たのは――「ぐじゅ、ぐじゅる……」という、腐った肉を捏ね回すような音だけだった。
「……おやめなさい。その『音』が、今のあなたの真実の姿なのですから」
エルフレイデは、蔑みすら抱かぬ、透明な眼差しで彼を見下ろした。
「あなたが盗もうとした私の香料は、心に闇を持つ者にとっては、ただの猛毒。
あなたがかつて私に与えた『無能』という言葉、それをそのまま、あなたの人生としてお返しいたしましたの。
……言葉を失い、誰にも顧みられず、自分の放つ悪臭の中で、自分の醜さとだけ向き合い続ける。
それが、私を捨てたあなたが選んだ、王としての結末ですわ」
レオンハルトは、絶望のあまり自分の顔を氷の床に打ち付けた。
エルフレイデは、そんな彼に最後の一撃を与えるように、小さく、けれど残酷なほど幸せそうに微笑んだ。
「……ああ、そう。一つだけ、あなたに教えて差し上げますわ。
私、新しい命を授かりましたの。
ジークフリート閣下との間に宿った、この世で最も清らかで、最も尊い、愛の結晶を」
――瞬間。
レオンハルトの瞳から、光が完全に消え去った。
自分が手にするはずだった「聖女の愛」も、その血脈がもたらす「永遠の繁栄」も、
すべては今、自分が「野蛮な北の悪魔」と蔑んだ、あのジークフリートの手の中にある。
自分はドブの中で腐り果て、彼女は氷の楽園で、愛する人の子を抱き、永遠の春を生きる。
これ以上の敗北が、これ以上の地獄が、この世にあるだろうか。
レオンハルトは、血の涙を流しながら、言葉にならない絶叫を、ドブの煮える音として吐き出し続けた。
――地上へ。
地下の濁った空気とは無縁の、虹色のオーロラが揺れる最上階。
ジークフリート閣下は、狂気的なまでの速度で、城の改装を命じていた。
「……甘い。まだ温度が一定ではない。
エルフレイデの肌が、一分でも乾燥するようなことがあれば、この城の工匠全員の首を撥ねるぞ」
彼の独占欲は、彼女の懐妊を知った瞬間から、文字通り「暴走」していた。
彼は、エルフレイデを椅子に座らせることすら危ぶみ、
自らの膝を椅子とし、自らの腕を揺りかごとして、片時も彼女を離そうとしなかった。
「閣下……。そんなに殺気立っていては、お腹の子が驚いてしまいますわ」
「……。すまない」
ジークフリートは、彼女の言葉にだけは、従順な獣のように従った。
彼は、エルフレイデの平らな腹部に、そっと、壊れ物を扱うような手つきで大きな掌を当てた。
「……信じられん。この中に、貴様と私の血を継ぐ命があるなど。
エルフレイデ。……貴様を、もう一歩も外へは出さん。
この城の周りに、私の魔力をすべて注ぎ込んだ、三重の永久凍土の壁を築く。
外の世界など、滅びればいい。
王都の残党が、私の香りを求めて飢え死にしようが、帝国が腐敗に沈もうが、知ったことか。
私の世界のすべては、今、この腕の中にしかないのだから」
ジークフリートは、彼女の腹部に顔を寄せ、深く、深く、その「聖なる香り」を吸い込んだ。
懐妊したエルフレイデの香りは、これまでの清冽さに加え、
すべてを包み込み、再生させるような、圧倒的な「母性の神気」を帯び始めていた。
その香りに触れるだけで、ジークフリートの狂気的な破壊衝動は、
彼女を守るための「絶対的な守護の意志」へと昇華されていく。
「……ええ、閣下。私も、あなたとこの子がいれば、他に何もいりませんわ。
私たちの愛を汚そうとした者たちは、もう名前すら思い出せません。
彼らは、歴史の塵として、私たちが放つ香りの彼方へ消えていくのですから」
エルフレイデは、ジークフリートの銀色の髪を優しく撫でた。
窓の外、はるか遠く、南の方角。
かつての王国があった場所には、今や「ドブの臭いを発する巨大な沼」だけが広がり、
そこに生きる人々は、一滴の香水を巡って殺し合い、互いの肉を食らい合う、獣以下の地獄に堕ちていた。
だが、その悲鳴も、その腐臭も、
辺境に咲き誇る氷の薔薇の香りが、すべてを無慈悲に、美しく、かき消していく。
救いなど、どこにもない。
ただ、彼女を愛した者には「永遠の春」を。
彼女を捨てた者には「永遠の腐敗」を。
世界は、彼女の指先一つで、そう完全に二分されたのであった。




