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無能と捨てられた調香聖女、氷の辺境伯に拾われる〜私が王都を去った瞬間、全ての香りと味が消えたようですが、今さら戻れと言われても「腐敗臭」のする国には帰りません〜  作者: くま3
第3章:香妃の神裁と、概念すら消滅する亡国

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第8話:帝国の朝貢と、生存を分かつ「香りの国境線」

 王都が地図から「色」を失い、ドブの臭いに沈んだ廃墟と化してから一ヶ月。


 世界はその中心を失ったのではなく、北の果て、凍てついた漆黒の城へとその「心臓」を移していた。


 今や大陸全土において、ノア辺境伯領から届けられる『浄化の香』を吸わぬ者は、自らの毛穴から溢れ出す「ごう」の臭いに耐えきれず、一週間と持たずに発狂するとさえ囁かれている。

 香りはもはや贅沢品ではない。それは、人間が「人間として呼吸し続けるための、唯一の免罪符」へと昇華されていた。


 その日の朝、辺境の城門の前には、歴史上類を見ないほどに「滑稽で、惨めな行列」ができていた。


 大陸最大の版図を誇るギルニア帝国の皇帝が、自ら黄金の馬車を連ね、雪原を埋め尽くすほどの献上品と共に跪いていたのだ。


「……ノア辺境伯夫人、エルフレイデ様に奏上いたす!

 我が帝国は、不敬にも王都の残党を匿った過去の過ちを認め、ここに帝国の国宝の半分を献上する!

 どうか……どうか、我が帝都を覆う『腐敗の雲』を払う、一滴の香料を賜りたい!!」


 皇帝の叫びは、猛吹雪にかき消されそうになりながらも、必死に城壁へと届けられた。


 私は、ジークフリート閣下の腕の中に抱かれたまま、城壁の高いバルコニーからその光景を眺めていた。


 閣下の外套は、私の肌を冷気から守るためだけに、最高級の魔獣の毛皮と彼の魔力で編み上げられている。

 彼は、私の腰を折れんばかりに強く抱きしめ、その顎を私の肩に乗せて、不機嫌そうに鼻を鳴らした。


「……目障りだな。エルフレイデ、あのような『動く肉塊』どもに、貴様の高貴な視線を一秒たりとも割く必要はない。

 今すぐ、あの黄金の馬車ごと、帝国の連中を凍土の底へ沈めてやろうか」


 ジークフリートの声は、かつての冷徹さを超え、もはや他者への「根源的な拒絶」に満ちていた。

 彼にとって、私の香りに触れる権利があるのは、この世でただ一人――自分だけでなければならない。その独占欲は、今やこの地の結界を強化し、不純な者が一歩でも踏み込めば「肺が凍りつく」ほどの殺気へと変貌している。


「閣下、そう焦らないで。……彼らが持ってきた『国宝』というものが、どれほど無価値なものか。教えて差し上げるのも、香妃としての慈悲ではありませんか?」


 私は微笑み、ジークフリートの冷たい指先に、自分の指を絡めた。


 私はバルコニーの縁まで歩み寄り、眼下の皇帝を見下ろした。


「皇帝陛下。……あなたが持参したその『黄金の剣』、そして『伝説の宝具』。

 ……それらは、今の私の鼻には、ただの『錆びた鉄の臭い』と、欲にまみれた『カビの臭い』しかいたしませんわ」


「な……っ!? エルフレイデ様、これは我が帝国の始祖より伝わる――」


「――お黙りなさい」


 私が指先を軽く振ると、一筋の金色の魔力が、香りの粒子となって風に乗った。


 その粒子が、皇帝の掲げる「伝説の宝具」に触れた瞬間。


 パキパキ、という乾いた音と共に、帝国の象徴であった黄金の装飾が、砂のように崩れ落ちた。

 私の香りは、不純な魔力を宿した「物質の執着」を分解する。

 王都と密約を交わし、私の価値を「価格」で測ろうとした者たちの宝物など、私の前ではただのゴミに等しい。


「ひ、ひいいぃぃ……っ!! 宝具が……我が国の誇りが、灰に……!!」


「価値のないものを私の視界に入れないで。

 今のあなたたちに、私の空気を吸う資格はありません。

 ……王都のドブ川の水を啜り、自分の内側から溢れる『裏切りの臭い』に窒息しながら、お帰りあそばせ」


 私が宣告した瞬間、城門の周囲の空気が一変した。


 ジークフリートの放った冷気が、帝国の使節団を物理的に吹き飛ばす。

 皇帝は、泥水の中に無様に転がり、かつて自分が世界を支配していると信じていた傲慢さを、雪の中に叩きつけられた。


 同時に、遠く南の空――かつての王都と密通していた小国の方角から、黒い煙が立ち昇るのが見えた。


 私の香りの供給を完全に絶たれたその国では、今まさに「生存の選別」が始まっている。


 人々は、自分の家族から漂う「腐敗臭」に耐えきれず、互いを獣のように引き裂き始めた。

 香りのない世界は、理性のない地獄。

 それを思い知らせるのが、私に泥を投げ、石を投げた世界に対する、私なりの「お返し」だった。


 バルコニーを後にしようとした私を、ジークフリートが強引に引き止める。


 彼は、私の背後から両腕を回し、私の首筋に深く顔を埋めた。


「……エルフレイデ。もういい。外を見るな。

 貴様の瞳に、あの汚らわしい皇帝が映っただけでも、私は気が狂いそうだ」


 彼の呼吸は荒く、その体温は魔力の昂ぶりによって異常なほど熱い。

 ジークフリートは、私の耳朶を甘く、けれど拒絶を許さない力強さで噛んだ。


「貴様は、この私の『氷の繭』の中にだけいればいい。

 貴様の香りは、私だけのものだ。

 貴様の吐息一つ、髪一筋すら、世界の誰にも、風にすら触れさせたくない」


「閣下……。そんなに強く抱きしめられては、私が壊れてしまいますわ」


「壊れるなら、私の腕の中で壊れろ。

 ……貴様を失うくらいなら、私はこの大陸ごと、時を止めて永久に凍らせてやる」


 ジークフリートは、私を抱き上げ、寝室へと運んでいく。


 彼の歩く床は、私の素足が汚れぬよう、瞬時に厚い魔力の絨毯で覆われる。

 壁は、外界の音を一切遮断し、ただ私と彼の「鼓動」だけが響き合う静寂の空間。


 そこは、世界で最も清らかで、そして世界で最も「狂った」愛の揺りかご。


 その頃。


 城の地下深く、光すら届かぬ「不浄の牢獄」。


 そこには、かつて「太陽の王子」と謳われた、レオンハルトの無惨な姿があった。


 彼は、エルフレイデの香りを「盗んで、再び輝きを取り戻す」という浅ましい夢に取り憑かれ、国境を越えて侵入したのだ。


 だが、彼が調香室の扉に触れた瞬間。


 エルフレイデが仕掛けた「魂の検閲」が、彼の罪深い不浄を検知した。


「……ああ……。あ……あああぁぁぁ……!!」


 レオンハルトは、自分の喉を掻きむしり、のたうち回っていた。


 彼の美しい声帯は、彼女の放った最高位香料『聖域の残滓』によって、物理的に融解していた。


 もはや、誇り高き王族の言葉を紡ぐことはできない。

 彼が口を開くたびに漏れ出るのは、

 ぐじゅぐじゅと、ドブの底で泥が弾けるような、不快で、醜悪で、粘り気のある「異音」だけ。


 さらに、彼の肌からは、どんなに洗っても消えない「肥溜めの臭い」が、煙のように絶え間なく溢れ出している。


「……見苦しいわね。レオンハルト王子」


 牢獄の格子越しに、セバスが冷ややかに見下ろした。


「お嬢様は、あなたを殺すことすらなさいません。

 不潔なものを手にかけ、ご自分の指先を汚すのを嫌われたのです。


 あなたはこれから、その『自分の内側から湧き出る汚物の音』を、一生聞き続けながら、

 誰からも名前を呼ばれず、ただの『喋る汚物』として朽ち果てるのです」


 レオンハルトは、セバスの足元に縋り付こうとしたが、

 あまりの臭さに、冷静なセバスですら、眉を潜めて彼を蹴り飛ばした。


「汚らわしい。……お嬢様の慈悲によって、息をすることだけは許されている。

 感謝して、そのドブの音で歌でも歌うがいい」


 レオンハルトは、暗闇の中で、自分の喉から漏れ出る「ぶつぶつ」という腐敗の音を聞きながら、

 かつて自分が捨てた「香りの少女」が、今、どれほどの高みで、

 どれほど甘い愛に包まれているかを想像し、発狂の淵で涙を流した。


 だが、その涙さえも、今はただ、鼻を突くアンモニアの臭いしかしない。


 ――地上では。


 ジークフリートの私室。


 私は、彼の広い胸の中に閉じ込められ、

 この世で最も贅沢な「夜の調合」に身を委ねていた。


 ジークフリートは、私の手を取り、その指先に一つずつ、

 彼自身の命を削って精製した「魔力の雫」を垂らしていく。


 それは、私の香りと混ざり合い、

 私たちの魂が、二度と分離不可能なほどに溶け合っていることを証明する儀式。


「……エルフレイデ。貴様という女は、本当に恐ろしい」


 彼は、私の鎖骨に唇を押し当て、熱く囁いた。


「……貴様の香りがなければ、私は一秒も正気でいられない。

 世界を滅ぼすか、貴様を犯して自らを滅ぼすか。

 ……今の私は、その境界線で、貴様の香りに飼い慣らされているだけの獣だ」


「フフ……。それでいいのですわ、私の閣下。


 あなたは私の騎士であり、私の奴隷。

 そして私は、あなたを『永遠の楽園』へと導く、唯一の導き手。


 ……今夜は、もっと深く、私の香りを吸い込んでくださいな。


 明日、世界がどうなろうと。

 この部屋に満ちる『私たちの呼吸』だけが、この世界の唯一の真実なのですから」


 氷の城の最上階。

 外では帝国の絶望と、王子の呻き声が、

 音もなく降り積もる雪の下へと、永遠に埋め殺されていった。


 私たちの恋は、世界の破滅を肥料にして、

 これ以上ないほどに残酷で、これ以上ないほどに美しく、咲き誇っていた。

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