第7話:王都崩壊のカウントダウンと、跪く父
王都崩壊の日。
それは、空から「色」が失われたかのような、灰色の一日から始まった。
私が去り、そして王子の金貨が「臭う鉄屑」へと成り果てたことで、王都の経済は完全に停止した。
店からは品物が消え、清潔な水さえもが贅沢品となり、人々は互いの発する「飢え」と「不潔」の臭いに、獣のような殺意を剥き出しにしていた。
「聖女を……エルフレイデ様を返せ!!」
「王子を、あのドブ臭い無能を差し出せ! そうすれば、この呪いは解けるはずだ!!」
王宮を包囲したのは、かつて私を「無能の聖女」と蔑み、石を投げた民衆たちだった。
彼らは今、自分たちが踏みにじった花の香りを、命を懸けて求めていた。
その混乱の中、一台のボロボロになった馬車が、北の国境――ノア辺境伯領の巨大な黒い門へと辿り着いた。
馬車から這い出してきたのは、高級なはずのシルクが泥に汚れ、かつての威厳など微塵も感じられない老人。
私の実の父親、ヴァルテン侯爵だった。
「……エルフレイデ。そこに、そこにいるのだろう!? 出てきなさい! この、親不孝者が!!」
門前で叫ぶ父の声は、枯れ果て、惨めに震えていた。
私は、ジークフリート閣下と共に、城壁の上からその様子を冷ややかに見下ろした。
閣下は、私の肩を力強く抱き寄せ、その冷徹な眼差しを父へと向けた。
「……あれが貴様を売った男か。今すぐ、あの汚らわしい舌ごと、氷の底へ沈めてやろうか」
「いいえ、閣下。……私に、最後のお別れをさせてください。
あの方が一番大切にしていたものを、私自身の手で終わらせたいのです」
私は、城壁の階段をゆっくりと降り、門の隙間から、父の前に姿を現した。
「――お久しぶりですわ、お父様。
そのお姿……まるで、王宮の下水掃除人でもなさったのかしら?」
父は、私を見た瞬間に目を見開いた。
かつて彼が「利用価値のない道具」として捨てた娘は、今や、吹雪の中でも凛として輝く、この世のものとは思えないほど美しい「香りの女神」となっていた。
「エルフレイデ……っ! ああ、良かった!
さあ、今すぐ王都へ戻るのだ! 王子殿下も、お前の大切さをようやく理解された。
侯爵家も、お前の調合する香水があれば、再び王国の頂点に立てる!
……いいか、これは父親としての命令だ。今すぐ、その汚らわしい野蛮な男から離れて、私について来い!」
父は、私の腕を掴もうと、震える手を伸ばした。
だが。
「……おやめなさい。その手で、私に触れないで」
私が冷たく告げた瞬間、父の動きが止まった。
父の周囲に漂っていた、侯爵家代々の「伝統」という名の重苦しい香料の臭いが、
私の魔力が放った一筋の波動に触れた瞬間、
耐え難い「墓場の腐臭」へと変質したのだ。
「……う、うわぁぁっ!? なんだ、この臭いは!! 鼻が……鼻が腐る!!」
父は自分の服を掻きむしり、その場に転げ回った。
「お父様。あなたが誇りに思っていた『侯爵家の血筋』。
それは、私の浄化の加護があって初めて、『高貴な香り』として成立していたのです。
私がそれを否定した今、あなたの血には、
何代にもわたって蓄積されてきた、どす黒い『強欲』と『傲慢』の臭いしか残っていません。
あなたは、死ぬまでその腐臭を纏い、誰からも愛されず、誰からも顧みられず、
自分自身の醜さに窒息しながら生きていくのです」
「ま、待て! 許してくれ! お前は、私の娘だろう!?
この通りだ、跪く! 何でもする! だから、その香りを……その浄化の魔法を、私に、私にだけは与えてくれ!!」
侯爵は、泥水に頭を擦り付け、私の足元に縋り付いた。
かつて、幼い私を暗い部屋に閉じ込め、
「香水が作れないなら死ね」と罵ったあの男が、
今は私の足元の、雪に汚れた靴を舐めるようにして懇願している。
私は、その惨めな姿を、何の感情も抱かずに見つめた。
「……残念ですが、お父様。
私の香りは、もう『商品』でも『奉仕』でもありませんわ。
これは、私を愛し、私を唯一の存在として守ってくださる、
この方のためだけの……愛の証なのです」
背後から、ジークフリート閣下が私の腰を力強く引き寄せた。
彼は、父という「ゴミ」を見ることすら拒むように、
私の首筋に鼻を寄せ、深く、深く、私の香りを吸い込んだ。
「聞いたか、亡者よ。
……彼女は、私の命だ。
貴様のような腐った肉の塊に、彼女の一言すら与えるのは、この地の空気を汚すことに他ならない」
ジークフリートが、片手を空に掲げた。
刹那、辺境の全域を覆う魔力の結界が、激しく、神々しく発光した。
「冬の時代」は、終わった。
私の香りと、彼の魔力が完全に融合した結果、
ノア辺境伯領の城を中心に、凍てついた大地から、
虹色に輝く「氷の薔薇」が次々と咲き乱れていく。
それは、極寒の地でありながら、世界で最も甘く、最も清らかな「楽園」への変貌。
「……消えろ。二度と、私の視界に入るな」
ジークフリートが放った突風が、父を、そして王都から来た絶望の残滓を、
国境の向こう側へと、容赦なく吹き飛ばした。
門が、重厚な音を立てて閉ざされる。
静寂。
温室のような熱気に包まれた城内で、私はジークフリートを見上げた。
「……いいのですか、閣下。これで、王都との繋がりは完全に断たれました。
明日から、あの国は地図から消えるかもしれませんわ」
「……構わない。世界が滅ぼうとも、私は貴様の香るこの地を、守り続けるだけだ。
エルフレイデ。
いや――私の、唯一の光」
ジークフリートは、私の手を取り、その薬指に、
万年雪の結晶から作られた、青く輝く指輪を嵌めた。
それは、辺境伯夫人としての証。
そして、この世界で最も強く、最も不器用な男が捧げた、永遠の服従の誓い。
「……貴様がいない世界なら、私は、この手で全てを凍らせて終わらせていた。
貴様が、私を人間に変えたのだ」
私は、指輪の輝きを瞳に映しながら、彼に優しく口づけをした。
「ふふ……。なら、責任をとって、一生私を離さないでくださいね。
あなたの肌が、私の香りでいっぱいになるまで……。
いいえ、心臓の鼓動一つ一つが、私の名前を呼ぶようになるまで」
私たちは、咲き誇る氷の薔薇の中、ゆっくりと城へと戻っていった。
王都の方角からは、断末魔のような叫びと、
自分たちの醜悪さに耐えきれなくなった人々が、互いを引き裂く阿鼻叫喚の気配が漂ってくる。
だが、今の私には、それは遠い異国の、
出来の悪い、けれど滑稽な物語のようにしか聞こえなかった。
私は今、この世で最も温かな腕の中で、
最高の香りに包まれて、
新しい、真実の人生を歩み始めたのだから。
――第2章、完。




