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無能と捨てられた調香聖女、氷の辺境伯に拾われる〜私が王都を去った瞬間、全ての香りと味が消えたようですが、今さら戻れと言われても「腐敗臭」のする国には帰りません〜  作者: くま3
第2章:氷の領地の覚醒と、香りに跪く王都

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第5話:密輸される至福と、孤立する王子

 王都の社交界。それはかつて、最新の香油と洗練されたマナー、そして「清潔さ」という特権を競い合う華やかな戦場だった。


 だが今、その戦場には、戦慄すべき「沈黙」と、それを切り裂く「疑心暗鬼」が渦巻いている。


 豪奢なシャンデリアが輝く夜会の広間。

 着飾った貴婦人たちは、扇で執拗に口元を隠し、互いに適切な距離を保とうと必死だった。


「……ねえ、気づいて? あの侯爵夫人、今日はやけに香水を厚塗りしているわ」


「ええ、分かりますわ。あれは……隠しきれていない『獣の脂』の臭いを誤魔化そうとしているのね。不潔だわ。あんな方と同じ空気を吸わされるなんて」


 扇の陰で交わされるのは、毒を含んだ囁き。

 私が去ってから、王都の石鹸は「粘土」へと変わり、洗濯用の洗剤すら「泥水」のような洗浄力しか持たなくなった。


 結果として、どんなに高価なシルクのドレスを纏おうとも、その繊維の奥底には、落としきれない皮脂と、酸化した油の饐えた臭いが蓄積されていく。


 王都の貴族たちは今、自分たちが「浮浪者と同じ臭い」を放っているのではないかという、根源的な恐怖に支配されていた。


 そんな中、一際異彩を放つ一団がいた。


 王妃直属の女官たち数名。

 彼女たちの周囲だけは、まるで春の陽だまりのような、清冽でいて温かな「百合と雪」の香りが漂っていた。


「……信じられないわ。彼女たちの肌、あんなに白磁のように透き通って……。それにあの香り、王都のどの香料店にも存在しない、奇跡のような芳香だわ」


 周囲の視線が、羨望と、剥き出しの「飢え」に変わる。


「……あれよ。噂の『辺境の石鹸』を使っているに違いないわ」


「王子の禁令を無視して、王妃様が秘密裏に北から取り寄せたという、あの『月光の滴』……!」


 その噂が広間を駆け抜けた瞬間、社交界のパワーバランスは一変した。


 もはや、王子の「エルフレイデは無能であり、北へ追放した」という主張を信じる者は一人もいなかった。

 彼女たちの鼻が、肌が、真実を叫んでいた。


「……聖女様は、あちらにいらっしゃる。真実の幸福と美しさは、あの冷酷な辺境伯の懐にあるのだわ」


 この夜、王都の社交界は事実上、レオンハルト王子への忠誠を捨てた。

 彼女たちが求めているのは、もはや形骸化した王権ではなく、自分たちの尊厳を守ってくれる「一粒の石鹸」だったのだから。


 ――同じ頃、王宮の奥深く。


 レオンハルト王子は、暗い部屋で、自らの腕を血が滲むほどに掻きむしっていた。


「……臭う。まだ臭うぞ!! なぜだ! 部屋中の絨毯を焼き、壁を塗り替えさせたはずだ!! なのに、なぜこの『下水の臭い』が消えない!!」


 彼の傍らでは、かつて「愛らしいバラ」と称賛されたイザベラが、顔を覆って泣き崩れていた。


「お兄様、もう嫌ですわ……! 鏡を見るのが怖いの! 私の髪、どんなに洗ってもベタついて、まるでお城の厨房の雑巾みたいな臭いがするんですもの!!」


「黙れ! 泣くな!! お前のその涙すら、今はドブの臭いがする!!」


 レオンハルトの叫びは、もはや狂気に近かった。

 彼らが「聖女の調香」を単なる贅沢品だと思い込み、自分たちの内側から溢れ出る「不浄」を、彼女が身を削って浄化し続けていたことに気づかなかった報い。


 そこに、青ざめた顔の側近が駆け込んできた。


「で、殿下! 大変でございます! 北の国境付近で、騎士団の第三中隊が、装備を捨てて逃走いたしました!!」


「……何だと!? 敵襲か!? 辺境伯が攻めてきたのか!?」


「いいえ……。彼らが残した書簡には、『これ以上、自分の体が腐っていく臭いに耐えられない。北へ行き、聖女様の石鹸でこの身を清め、人間として死にたい』と記されておりました……!」


 レオンハルトは、衝撃のあまり椅子から転げ落ちた。


 武力でも、政治でもない。

「清潔さ」という、最も根源的な欲求によって、彼の軍隊は足元から崩壊を始めていた。


「……エルフレイデ。あの、生意気な小娘が……!!」


 彼は血走った目で、闇の向こうを睨みつけた。


「絶対に許さん……。連れ戻せ! どんな手を使っても、あの女の首に鎖を繋いで、私の足元で一生、この臭いを消すための道具として使ってやる!!」


 王子の咆哮が、無人の回廊に虚しく響いた。

 だが、その声を聞く者は、もはや王宮にはほとんど残っていなかった。


 ――その頃。


 ノア辺境伯領の城、最上階にあるジークフリートの私室。


 外は、天を裂くような猛吹雪が吹き荒れている。

 だが、この部屋の中だけは、信じられないほどの静寂と、濃密な「熱」に支配されていた。


 私は、ジークフリートの背後に立ち、彼の広い肩に手を置いていた。


 机の上には、私が特別に調合した「夜の深淵」という名のオイル。


「……閣下。少し、力を抜いてください。

 そんなに強張っていては、せっかくのオイルが芯まで届きませんわ」


 私は、彼の耳朶に触れるか触れないかの距離で囁いた。


 ジークフリートの体が一際大きく震え、軍服越しでも分かるほど、その筋肉が鉄のように硬くなる。


「……エルフレイデ。貴様、分かってやっているだろう」


 彼の声は、熱に浮かされたように低く、掠れていた。


「何を、でしょうか?」


「私の理性が、もう限界だと言っている。

 貴様がこの部屋に入るたび、私の魔力は制御を失い、貴様をこのまま……」


 彼は言葉を飲み込み、私の手首を掴んで、強引に自分の前へと引き寄せた。


 バランスを崩した私は、彼の膝の上に倒れ込む。


 目の前には、ネイビーブルーの瞳。

 そこには、王都の王子が浮かべていたような醜い怒りは微塵もなく、ただ、一人の女性に対する「剥き出しの飢え」だけが、深い青の炎となって燃えていた。


「……見てください、閣下。私の手首。

 あなたが昨夜つけた『指の跡』が、まだ薄く残っていますわ」


 私は、彼に掴まれたままの手首を、わざと彼の唇の前に差し出した。


 ジークフリートは、自分のつけた痕跡を忌々しげに見つめた後、

 吸い寄せられるように、その白い肌に唇を寄せた。


「……貴様の香りが、私の毒だ。

 一度味わえば、二度と王都の空気など吸えなくなる。

 ……あそこの連中が、貴様を求めて狂い始めているという報告を聞くたび、私は彼らを皆殺しにしたくなる」


 彼の舌先が、私の手首の脈打つ場所に、熱く、湿った感触を残す。


 それは、聖女への拝礼などではない。

 自分だけのものにしたいという、一匹の雄としての本能的な「刻印マーキング」。


「……それでよろしいのです。

 あなたは私だけの騎士シュバリエ

 そして私は、あなただけの調香師。


 世界がどうなろうと、私のこの香りは、あなたの肌の上でしか完成しませんわ」


 私は、空いた方の手で、彼の襟元を緩めた。


 そこから漏れ出る、彼の力強い魔力の臭い。

 それは、私の香水と混ざり合うことで、これまで知らなかった「官能的」な和音を奏で始める。


「閣下、今夜の調合は……少し、時間をかけましょうか。

 あなたの体温で、このオイルがどう変化するか……。

 私、最後まで見届けたいのです」


 ジークフリートの瞳が、獣のように細まった。


 彼は私を抱き上げ、大きな寝台へと運んでいく。

 外の吹雪の音は、もう聞こえない。


 部屋に満ちる、甘く、痺れるような、禁断の香り。


 それは、王都の人々がどれほど金貨を積み、

 どれほど涙を流して乞うたとしても、

 二度と彼らが手にすることのできない、「至高の浄化」という名の愛の結晶だった。


 翌朝。


 私は、閣下の腕の中で目を覚ました。

 窓の外は相変わらずの雪景色だが、私の心はこれまでにないほど澄み渡っていた。


 セバスが、扉の外から控えめに声をかける。


「お嬢様、閣下。王都より、緊急の親書が届いております。

 ……今度は使者ではなく、エルフレイデお嬢様の実家、侯爵家からの『泣きつき』でございます」


 私は、ジークフリートの胸に顔を寄せたまま、小さく笑った。


「あら……。お父様も、ようやく自分の屋敷がドブの臭いに包まれていることに耐えかねたのかしら」


 ジークフリートは、私の髪を慈しむように撫でながら、氷のように冷たい声で答えた。


「……返事は不要だ、セバス。


 その親書を、城の広場の暖炉にくべろ。


 彼らが吸うべきは、紙が燃える煤の臭いだけだ。


 エルフレイデの香りは、一滴たりとも、国境を越えさせはしない」


 その言葉は、王都への最後通告だった。


 私を「ゴミ」のように捨てた国が、

 私という「唯一の輝き」を失い、自らの醜悪な臭いに窒息して滅んでいく。


 その様子を、私はこの暖かい城の中から、

 愛する人の香りに包まれながら、優雅に見届けることにしよう。

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