第3話:跪く使者と、氷の主による「宣戦布告」
王都を去ってから、十日が過ぎた。
かつて私が「聖女」として暮らし、慈しんだあの華やかな都は、今や目に見えぬ「腐敗の霧」に沈んでいる。
私が最後に残した「お口の臭い、もう手遅れかもしれませんが」という忠告は、今やレオンハルト王子にとって、鏡を見るたびに、呼吸をするたびに突きつけられる、逃れることのできない生理的な呪縛となっていた。
一方、私の新生活の拠点となったノア辺境伯領の城は、驚くべき「覚醒」を遂げ始めていた。
「……信じられん。これが、あの死を待つばかりの黒い石の城か?」
朝の回廊。
酷寒の中、過酷な訓練を終えたばかりの騎士たちが、呆然と立ち尽くしていた。
彼らの視線の先、かつては冷たく無機質な風が吹き抜けるだけだった城の廊下には、私が昨夜密かに焚き込めた「微睡みの銀犀」の香りが、薄い金色のベールのように漂っている。
それは、ただの芳香ではない。
私が一滴ずつ魔力を編み込み、辺境の厳しい冷気と「共鳴」するように調合した、目に見えない精神の防壁――『アロマ・シールド』。
「……ああ。いつもなら、訓練の後は筋肉が悲鳴を上げて、喉が焼けるような苛立ちに支配されるのに。今日は……どういうことだ。心の中が、凪いだ海のように静かだ」
一人の若き騎士が、自分の胸に手を当てて呟いた。
「香り……。あの王都から来た『調香師』様が、城の結界を貼り直したという噂は本当だったんだな。吸い込むだけで、体の芯から熱が湧いてくる。……ああ、早く、明日も守りたい。この城を、あの御方を」
騎士たちの表情から、鋭利で刺々しい殺気が消え、代わりに柔らかな、けれど鋼のように強固な「忠誠心」が宿る。
私が施したのは、香りの形を借りた『精神の再構築』。
王都の人々が今まさに失いつつある「理性」と「団結」を、私はこの極寒の地で、香りの一滴によって繋ぎ止めていた。
私は、西棟に与えられた工房の窓から、その様子を静かに見守っていた。
手元の実験机には、さらに高度な調合を必要とする「冬の琥珀」の精油が並んでいる。
銀のピンセットで、氷晶石の粉末を微量ずつ、琥珀色の液体に溶け込ませていく。
チリ、チリ、と小さな火花が散るたび、工房内には「陽だまりの干し草」と「深い夜の海」が混ざり合ったような、圧倒的な充足の香りが満ちた。
「お嬢様、失礼いたします」
セバスが扉を開けて入ってきた。
その表情は、いつになく厳格でありながら、どこか誇らしげだ。
「……王都より、特使が到着いたしました。レオンハルト王子が放った、直系の使者でございます」
私は、ピンセットを置くことなく、静かに微笑んだ。
「あら、思っていたよりも早かったわね。一ヶ月は持つと思っていたけれど。
……彼ら、そんなに『砂の味』が我慢できなかったのかしら?」
「左様でございます。使者は門前で、お嬢様に直接拝謁し、王子殿下からの『寛大なる特赦』を伝えると言い張っております。……現在、辺境伯閣下が謁見の間で対応されておりますが」
「……ふふ、閣下が? それは楽しみだわ。
彼、あまりにも無礼な客人は、そのまま凍土の肥やしにしてしまいそうだもの」
私は白衣を脱ぎ、調香師としての「矜持」を纏うべく、深い紫色のドレスへと着替えた。
それは、ジークフリート閣下の瞳の色に近い、夜の色彩。
謁見の間に続く大扉の前に立つと、中から不快な怒号が漏れ聞こえてきた。
「……いい加減にしろ! 我々は王子の慈悲を持って、あの女を呼び戻しに来たのだ!
この不毛の地で朽ち果てる前に、聖女としての地位を戻してやろうという、最大限の譲歩だぞ!!」
叫んでいたのは、かつて王宮で私を「香水遊びの無能」と笑っていた、恰幅の良い文官だった。
彼の顔は、王都での『嗅覚障害』と『精神衰弱』の影響か、どす黒い土色に変色し、首筋からはひどく酸っぱい、脂の腐った臭いが漂っている。
対するジークフリート閣下は、高い玉座に深く背を預け、頬杖をついていた。
その姿は、彫刻よりも美しく、そして猛吹雪よりも冷酷だった。
「……譲歩、だと?」
ジークフリートの低く冷徹な声が、広い空間を震わせる。
「貴様らが泥を啜り、互いの体臭に耐えきれず、狂乱の淵に立たされているという報告は受けている。……その『生ゴミの山』のような都へ、私の専属調香師を戻せと言うのか?」
「専属、だと……!? 戯言を! 彼女は王都の所有物だ!
殿下は仰せられた。『エルフレイデが跪いて許しを乞い、二度と香りを絶やさないと誓うならば、あの不快な悪臭を消す仕事だけはさせてやろう』とな! 幸運と思え!!」
文官の言葉に、私は思わず扉の影で噴き出しそうになった。
まだ気づいていないのだ。
私が跪かなければならない状況ではなく、彼らが、私の放つ一滴の香りがなければ「人間としての尊厳」すら保てず、自らの悪臭に窒息しようとしている状況にあるということに。
私は、ゆっくりと扉を開けた。
「――お呼びでしょうか、閣下」
全ての視線が私に集まる。
文官の男が、私を見た瞬間に目を見開いた。
王都で疲れ果てていた頃の私とは違う。
ここでは、良質な眠りと、真実の尊敬、そして辺境伯が与えてくれる「熱」によって、私の肌は真珠のような輝きを取り戻していた。
「エルフレイデ! 貴様、こんなところで何を……!
見ろ、その汚らわしい身なりを……いや、待て、その手にあるのは何だ!?」
彼は私が手に持っていた、試作中の「浄化の香香」を見つめた。
「エルフレイデ、今すぐ私と共に王都へ戻れ!
殿下はお怒りだ。だが、お前が今すぐその香りで王宮を浄化し、王子の不快感を拭い去れば、命だけは助けてやると仰せだ!」
私は、文官の三歩手前で足を止めた。
……臭う。
彼の服の繊維の隙間から、彼自身の「焦燥」と「強欲」が混ざり合った、饐えたチーズのような不快な臭いが、ドロドロと溢れ出している。
私はそっと、レースのハンカチで鼻を覆った。
「失礼ですが、閣下の領地を『汚らわしい』と仰る方の言葉は、私の耳には届きません。
それに……王都の異変? 私は何もしておりませんわ。
私はただ、私が十年間休まずに提供し続けていた『無償の奉仕』を、止めただけ。
あなたたちが今味わっているのは、呪いではなく、あなたたちの『本来の姿』。
……鏡をご覧になってはいかが? そのドブネズミのような顔色と、自分自身から漂う腐敗臭。それが、あなたたちの本性ですわ」
「な、何だと……っ! この、思い上がった無能がぁ!!」
文官が逆上し、私に手を上げようとした。
その汚れた指先が、私の視界に迫る。
だが、彼の手が私の髪一筋にでも触れるよりも早く。
キン、という鋭利な金属音が、謁見の間の空気を切り裂いた。
気づけば、ジークフリート閣下が私の前に立っていた。
いつの間に玉座を降りたのか、その速さは人の域を超えている。
彼の腰に佩いた漆黒の魔剣が、鞘の中でわずかに鳴り、
文官の喉元には、目に見えぬ「絶望」という名の刃が突きつけられていた。
「……私の女に、その汚らわしい指先を近づけるな」
ジークフリートの声は、もはや人間のそれではなく、深淵に棲む魔王の宣告だった。
彼の周囲の魔力が爆発的に膨れ上がり、
謁見の間の重厚な石床が、パキパキと音を立てて白く凍りついていく。
文官は、その圧倒的な威圧感――「死」そのものの香りに耐えきれず、
ガクガクと膝を震わせ、その場に無様に、汚物のように崩れ落ちた。
「ひ、ひいぃ……っ! た、助け……っ!」
「戻って、あの無能な王子に伝えろ」
ジークフリートは、私の腰を片手で力強く、強引なまでに引き寄せた。
厚い軍服越しに伝わる、彼の強靭な体温。
そして、私の調香によって「静寂」を手に入れたはずの彼が、今、私に触れることで激しく脈打たせている情熱。
「エルフレイデは、もはや貴様らの聖女ではない。
彼女は私の唯一の調香師であり、
そして――このノア辺境伯領の、『新たな主』として迎える女だ」
ジークフリートは、冷徹な瞳で、失禁しそうな文官を見下ろした。
「貴様らが泥を啜ろうが、自らの臭いに狂おうが、我々の知ったことではない。
彼女の一滴の香水も、一言の祈りも、
貴様らのような『腐敗した亡者』に与えるつもりは毛頭ない。
次にこの領地に足を踏み入れた使者は、生きたままバラバラにして、王都の門に飾り付けてやろう」
ジークフリートは、氷のような魔力で文官を部屋の外へと吹き飛ばした。
文官は、返事をする余裕すらなく、這うようにして謁見の間を逃げ出していった。
扉が大きな音を立てて閉まり、再び静寂が戻る。
けれど、部屋の空気は、先ほどまでの冷徹な殺気から、
どこか「濃密」で、肌を焼くような熱を帯びたものへと変わっていた。
私は、自分の腰を抱く彼の腕に、そっと指先を滑らせた。
「……『新たな主』だなんて。驚きましたわ、閣下。
私、そんな身分を望んだ覚えはありませんけれど?」
「……方便だと言っただろう。貴様を奪いに来る羽虫どもを、一撃で絶望させるためにな」
ジークフリートは、ぶっきらぼうにそう言って私を放した。
だが、彼の耳朶がかすかに赤らんでいるのを、私は見逃さない。
そして何より。
彼の手首からは、今、激しく揺れ動く「独占欲」と「切実な渇望」の香りが、
隠しきれないほど甘く、それでいて暴力的なほど熱く、立ち昇っていた。
「方便、ですか。……残念だわ。私は、少し本気にしてもよろしいかと思っていましたのに」
私が悪戯っぽく、彼の胸元に指を置いて見上げると、ジークフリートは逃げるように視線を逸らした。
「……口の減らない女だ。
それよりも、エルフレイデ。
貴様の香りが、城の者たちを変えたことは認めてやる。
……だが、私への『鎮魂香』が、昨夜は少し……足りなかった。
今夜は私の寝室で、直接調合しろ。一秒たりとも、私の側を離れるな」
それは、辺境伯としての絶対命令。
けれど、その奥に潜む「彼自身の、幼子のような渇望」が、私には手に取るように分かる。
「喜んで。閣下の夜が、世界で一番甘く、深い香りに満たされるように、
この身を捧げて仕上げさせていただきますわ」
私は、かつて王都で味わった「搾取」とは真逆の、
「必要とされる悦び」を、甘い毒のように噛み締めていた。
その頃、王都では。
逃げ帰った使者の無惨な報告を聞いたレオンハルト王子が、
自分が愛用していたはずの「黄金の椅子」にまで、
消えないドブの臭いを見出し、狂ったように叫び声を上げていることなど、
もう今の私の関心の外だった。
私は、ジークフリートの背を追い、
冷たくも愛おしい氷の城の中へと、軽やかな足取りで進んでいった。
新しい香りの着想が、次々と脳裏に浮かぶ。
次は、あの不器用な閣下の理性を、
もっと激しく、もっと残酷に溶かしてしまうような、
「禁断の恋」の香りを、一滴。
――私の物語は、まだ始まったばかりだ。




