エピローグ:歴史が忘却したドブと、永遠に香り続ける聖域
それは、気の遠くなるような年月が流れた後の物語。
かつて「大陸」と呼ばれた場所の大部分は、今や深い霧と、名前もなき荒野に覆い尽くされている。
歴史学者がどれほど古い文献を紐解こうとも、そこに何という国があり、どのような王が統治していたのか、その「痕跡」すらも見つけ出すことはできない。
ただ一つ、北の果てにそびえ立つ、空を突くような「純白の氷壁」だけが、この世界の唯一の真実として君臨し続けていた。
壁の向こう側は、外の世界の理が一切通用しない、文字通りの「神の箱庭」。
そこには、一人の女性がかつて放った「浄化の香り」が、魔力の粒子として大気中に固定され、吸い込む者すべてに「不老」と「無垢なる多幸感」を与え続けている。
城の深奥。
そこには、一年前と寸分違わぬ若さと、神々しいまでの美しさを保ったまま、黄金の椅子に腰掛けるエルフレイデの姿があった。
彼女の膝の上では、一人の幼い少女が眠っている。
その子は、生まれた瞬間から「世界そのもの」を香りで書き換える力を持っていた。
その子が笑えば、辺境の空に虹がかかり、その子が泣けば、外の世界のどこかで不浄な国家が一つ、音もなく崩壊する。
エルフレイデは、愛娘の銀色の髪を、慈しむように優しく撫でた。
「……いい子ね。あなたは、私があの暗い部屋で一人でいた時に、ずっと夢見ていた『答え』そのものだわ」
エルフレイデの瞳には、かつて王都で流した涙の痕跡など、微塵も残っていない。
彼女にとって、過去の出来事は、もはや自分という神話を作るための「安っぽい序章」ですらなくなっていた。
彼女は、背後に立つジークフリートを見上げた。
ジークフリートは、数百年という時を経てもなお、一分一秒たりとも彼女から目を離すことなく、その影のように寄り添い続けている。
彼の指先は、常にエルフレイデの肌のどこかに触れていなければ、その魔力が暴走して大陸全土を氷漬けにしてしまうほど、彼の「独占欲」は研ぎ澄まされ、もはや病的なまでの聖域を築いていた。
「……エルフレイデ。外の世界の人間たちが、また壁の近くまで這い寄ってきているぞ」
ジークフリートが、冷徹な声音で報告する。
外の世界では、彼女の残り香を「奇跡」として崇める新興宗教が乱立し、
人々は、彼女の影を一目見るためだけに、自分の全財産、あるいは自分の寿命そのものを捧げて、壁の外で命を落としていく。
「……どうなさいますか、お嬢様? いえ、わが女神よ」
今や城の執事という役職を超え、この神域の「管理者」となったセバスが、皮肉めいた微笑を浮かべて問いかける。
「……そうね。……彼らには、私がかつて愛用していた『失敗作の香料』を、一滴だけ風に乗せて差し上げて」
エルフレイデは、薄く微笑んだ。
「……ただし。……その香りを吸った者は、自分の犯した『傲慢』な記憶がすべて『ドブの臭い』に変わり、一生、その臭いから逃れられないという呪いをかけて」
「畏まりました。……相変わらず、お嬢様の慈悲は、刃よりも鋭く、そして美しい」
セバスは深く一礼し、闇の中へと消えていった。
しばらくして、壁の外からは、歓喜の叫びが、一瞬にして「絶望の咆哮」へと変わる気配が漂ってきた。
自分たちが「聖なる香り」だと思って必死に求めたものが、
吸い込んだ瞬間に、自分の醜悪な過去を炙り出す「腐敗の鏡」へと変わる。
人々は、自分の衣服を掻きむしり、自分の肌を削ぎ落としながら、
「臭い! 私はこんなに臭くないはずだ!」と叫び、互いを引き裂き合う。
かつてレオンハルト王子が味わった地獄が、今、世界中の「傲慢な者たち」へと伝播していく。
それを聞きながら、エルフレイデは、ジークフリートが用意した、
世界で最も清らかな「朝露の紅茶」を、ゆっくりと口に含んだ。
「……閣下。……私、幸せですわ」
「……そうか。ならば、私も幸せだ」
ジークフリートは、彼女を包み込むように抱きしめ、その首筋に顔を埋めた。
「……貴様が望むなら、私はこの世界を、永遠にこの瞬間のまま止めておこう。
……太陽が昇ることも、星が流れることも、貴様の許可なくしては許さない。
……この城の中にある『呼吸』だけが、宇宙のすべてだ」
「……ええ。……それでいいのですわ」
エルフレイデは、目を閉じた。
彼女の意識は、もはやこの現実の空間すらも超え、
自分の香りが、大陸の隅々、土の奥深く、そして海の下までをも支配し、
すべての不浄を「無」へと還していく心地よさに浸っていた。
かつて、自分を「無能」と呼び、石を投げたあの男たち。
彼らが最後に吐き出した、あの「ドブの音」のような呻き声すら、
今では、自分の幸福を彩るための、小さな、小さな、砂粒のような記憶でしかない。
彼らは死んだのではない。
彼らは、エルフレイデの「完璧な世界」を構成するための、肥料にすらなれなかった。
ただ、彼女が微笑むたびに、
彼らの魂は、永遠に「自分の醜さ」という檻の中で、
一滴の香りを求めて、届かぬ手を伸ばし続ける。
それこそが、彼女が創り上げた、世界で最も美しい「復讐」の完成形だった。
氷の城のバルコニー。
虹色の空から、銀色の光の粒子が、雪のように静かに降り積もる。
それは、彼女の愛の証であり、
同時に、彼女に逆らう者すべてに対する、終わりなき「神罰」の予兆。
香りは永遠に。
愛は極北の地に。
そして、彼女を捨てた者たちの名前は――
……。
……おや。
……何ということでしょう。
今の私には、もう、どうしても思い出せませんわ。
あんなにも、汚くて、
あんなにも、取るに足らないゴミのような名前なんて。
私は、愛する人の腕の中で、
新しい命の産声を聞きながら、
世界で一番甘い香りに包まれて、
永遠に、微笑み続けるのですから。
―― 完全完結 ――




