第11話:香りは永遠に、歴史から抹消された「無」
世界から「音」が消えたわけではない。
ただ、人々が発する「不浄な騒音」が、ノア辺境伯領から溢れ出す虹色の芳香によって、跡形もなく掻き消されただけだった。
あの日、王都と呼ばれた場所が巨大なドブの沼へと沈み、歴史の教科書からその名が掠れ落ちてから、ちょうど一年。
今や大陸全土の民は、朝目覚めると同時に北の空を仰ぎ、そこから流れてくる「清らかな空気」を肺いっぱいに吸い込むことで、自らの生存を噛み締めていた。
エルフレイデが支配する「香り」は、もはや単なる大気の成分ではない。
それは、彼女への忠誠、あるいは彼女を愛でる心を持つ者にのみ許された「生命維持装置」となっていた。
城の最上階、かつては猛吹雪しか見えなかったその場所は、今や「常春の聖域」として、地上で最も神に近い場所と化している。
エルフレイデは、純白の天蓋付きベッドの上で、静かに目を覚ました。
彼女が目を開けるよりも早く、枕元に控えていたジークフリートが、その細い指先に熱い口づけを落とした。
「……おはよう、私のエルフレイデ。……今日も、貴様は世界で一番清らかで、甘い」
ジークフリートの声は、一年前よりもさらに低く、重い執着を孕んでいた。
彼は、エルフレイデが懐妊してからというもの、彼女の護衛を誰一人として許さず、食事の用意から着替え、果ては彼女の髪を梳くことまで、すべてを自分一人の手で行っている。
大陸最強の魔術師であり、辺境の王である男が、一人の女性の「召使い」として跪く。
その光景こそが、エルフレイデが手に入れた、何物にも代えがたい勝利の象徴だった。
「……閣下、まだお腹の子が眠っておりますわ。そんなに強く抱きしめられては、この子が驚いてしまいます」
エルフレイデは、ふっくらと膨らんだ腹部を愛おしげに撫でた。
彼女の胎内に宿る命は、すでに辺境の魔力と完全に同調しており、その鼓動に合わせて、城の周囲に咲き誇る氷薔薇が、銀色の粉を振りまいて歌うように揺れる。
「構わん。この子は私の血を継ぐ者だ。……母である貴様を私が独占することを、何よりも先に学ぶべきだ」
ジークフリートは、彼女の腹部にそっと耳を当てた。
その表情は、外の者たちが見れば恐怖で失神するほど冷徹な魔王のそれだが、エルフレイデに向ける眼差しだけは、心臓を差し出すような無防備な情愛に満ちている。
彼は、エルフレイデを抱き上げ、テラスへと運んだ。
テラスの向こうには、虹色の雲が棚引き、地平線の果てまで「浄化された世界」が広がっている。
かつて彼女に石を投げた民衆も、今では彼女の残り香を求めて、辺境の壁に向かって毎日祈りを捧げている。
「……エルフレイデ。例の『ゴミ溜め』の処理が、先ほど完了した」
ジークフリートが、事も無げに告げる。
「ゴミ溜め」。それは、かつて王都が存在した、あのドブの沼のことだ。
そこでは、レオンハルト元王子やヴァルテン侯爵たちが、互いの肉を食らい、汚水を啜りながら、一年間も生かされ続けていた。
死ぬことすら許されない。エルフレイデの魔力が、彼らの命を無理やり繋ぎ止め、その痛みを数千倍に増幅させていたからだ。
だが、今朝。
エルフレイデの出産が近づき、彼女の魔力が「完全なる純潔」へと至った瞬間。
その不浄な領域は、ジークフリートの放った「概念消去」の魔法によって、原子レベルで分解され、消失した。
「……ああ。……あ……あぁ……」
消滅の瞬間、レオンハルトが最後に見たのは、自分の喉から漏れる「ドブの音」ではなく、
遥か北の空に輝く、あまりにも美しく、あまりにも遠い、エルフレイデの微笑みだった。
彼は、自分が彼女に何を言いたかったのかさえ、もう思い出せなかった。
脳が溶け、魂が磨り減り、最後に残ったのは「彼女の香りを一度でいいから、もう一度だけ吸いたい」という、叶わぬ渇望だけ。
その渇望すらも、虹色の光の中に飲み込まれ、彼は「死んだ」ことさえ記録されないまま、宇宙の塵となった。
王家という血筋。
侯爵家という名誉。
エルフレイデを虐げ、利用したすべての悪意。
それらは今、世界中の人々の脳内からも、歴史書の紙面からも、まるで最初から存在しなかった「空白」のように消え去ったのである。
「無」になったのだ。
復讐が終わったのではない。
復讐の対象すら、エルフレイデの人生から完全に「除菌」されたのである。
「……そうですか。……もう、何も聞こえなくなりましたわね」
エルフレイデは、南の空を見つめ、静かに呟いた。
彼女の心には、怒りも、悲しみも、憐れみすらもない。
ただ、洗いたてのシーツに身を沈めた時のような、清々しい「静寂」だけがそこにあった。
「セバス。……準備はよろしいかしら?」
背後に控えていたセバスが、優雅に一礼する。
「はい、お嬢様。……世界中の王族、教皇、そして賢者たちが、城門の前の雪原で、三日前から跪いてお待ちです。
皆様、お嬢様が調合された『新生の香』を一嗅ぎする権利を得るために、自国の主権を差し出す準備を整えております」
「ふふ……。なら、一息だけ、お裾分けして差し上げましょう。
……この子が産まれてくる世界が、これ以上汚れないように」
エルフレイデが、懐から小さな、けれど太陽のように輝く香水瓶を取り出した。
それは、彼女が一年かけて、自分の愛と、ジークフリートの魔力を結晶化させた究極の逸品。
彼女がその栓を、ゆっくりと抜いた。
――瞬間。
辺境の城を中心に、直径数千キロメートルに及ぶ「香りの爆発」が起きた。
それは、物理的な爆発ではない。
全人類の脳に直接届く、圧倒的な「多幸感」と「浄化」の津波。
雪原に跪いていた皇帝たちは、その香りを一口吸った瞬間、あまりの喜悦に涙を流し、赤子のように泣きじゃくった。
彼らの体内に溜まっていた病、老い、そして邪な考えが、その一呼吸で霧散し、彼らは「エルフレイデの家畜」として生きることに、至上の喜びを感じるようになった。
世界は今、一人の女性を頂点とした、完璧な「香りの帝国」へと生まれ変わったのだ。
夕刻。
ジークフリートは、エルフレイデをベッドに横たわらせ、彼女の額に優しく口づけをした。
「……エルフレイデ。もう、世界に貴様を邪魔するものは何一ついない。
……貴様は、ただ、私の腕の中で愛されていればいい」
「……ええ。……でも、閣下。
……一つだけ、お願いがありますの」
「何だ? 世界の半分が欲しいと言えば、今すぐ切り取ってこよう」
「……いいえ。……これから産まれてくるこの子に、お話ししてあげたいのです。
……昔々、あるところに、とても醜くて、とても臭い、愚かな人たちがいました、と」
エルフレイデは、悪戯っぽく微笑んだ。
「……そして、その人たちは、一人の少女の『香り』に気づかなかったばかりに、
……自分たちの名前も、自分たちの国も、すべてドブの中に忘れて消えてしまいました。
……そして少女は、世界で一番強くて、世界で一番自分を愛してくれる騎士様と出会い、
……永遠に続く、虹色の空の下で、幸せに暮らしました、と」
ジークフリートは、その残酷で美しい「おとぎ話」を聞き、満足げに目を細めた。
「……ああ。……それは、素晴らしい物語だ。
……だが、その騎士は、少女を愛しすぎるあまり、
……最後には、少女という名の香りに溶けて、自分自身も消えてしまった……という結末を付け加えよう」
ジークフリートは、エルフレイデの唇を奪った。
その接吻は、甘く、深く、そして逃げ場のないほどに重い。
外では、永久凍土の壁が、世界を二度と混じり合わぬよう、より高く、より美しくそびえ立っている。
かつての「聖女」は、もうどこにもいない。
ここにいるのは、
自分を捨てた世界を「概念」ごと焼き払い、
愛する男を「奴隷」のように飼い慣らし、
新しい命とともに、永遠の楽園を統べる――
『真実の香妃』。
彼女が放つ香りは、これからも永遠に、
この世界を、彼女という名の「甘い檻」の中に閉じ込め続けるだろう。
――Fin.




