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無能と捨てられた調香聖女、氷の辺境伯に拾われる〜私が王都を去った瞬間、全ての香りと味が消えたようですが、今さら戻れと言われても「腐敗臭」のする国には帰りません〜  作者: くま3
第3章:香妃の神裁と、概念すら消滅する亡国

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第10話:氷の揺りかご、神格化される「次代の香」

 ノア辺境伯領の冬は、あの日を境に、永遠の「沈黙」と「光」の中へと封じ込められた。


 エルフレイデが新しい命をその身に宿した瞬間、彼女の内側から溢れ出していた「浄化の魔力」は、もはや一人の調香師の領分を遥かに超え、この大地そのものの「魂」を書き換え始めたのである。


 城を囲む三重の永久凍土の壁は、ジークフリートの魔力と混ざり合い、ダイヤモンドよりも硬く、そして鏡のように滑らかな「純白の絶壁」へと変貌した。

 その壁の内側は、外の世界がどれほどドブの臭いと飢餓に沈もうとも、常に春の陽だまりのような温かさと、咲き誇る氷薔薇の清冽な芳香に満たされている。


 それは、選ばれた者しか踏み入ることのできない、地上に現れた唯一の「神域」であった。


 バルコニーに立つエルフレイデの姿は、今やこの地に生きる民にとって、仰ぎ見るべき太陽そのものとなっていた。

 彼女が纏うシルクのドレスは、彼女自身の魔力が具現化した「発光する糸」で編み上げられ、一歩歩くたびに足元からは黄金の粒子が舞い上がる。


 彼女の腹部には、まだ外見からは分からないほど小さな、けれど確かな「神聖な脈動」が宿っている。

 その鼓動が一つ打つたびに、辺境の空気はより澄み渡り、不純な心を抱いてこの地に近づこうとする者の肺を、鋭い氷の針で刺すような激痛で拒絶する。


「……ああ、なんと美しいのでしょう。閣下」


 エルフレイデは、隣に立つジークフリートの腕に身を寄せ、眼下に広がる虹色の森を見つめた。


 ジークフリートは、彼女の言葉を聞く間も、その視線を一刻たりとも彼女から逸らそうとはしなかった。

 彼のネイビーブルーの瞳には、もはや「世界」など映っていない。

 彼の網膜を占めているのは、愛する妻と、彼女の中に眠る自分の血を分けた命。それだけが、彼の理性を繋ぎ止める唯一のいかりだった。


「……エルフレイデ。外を見るなと言ったはずだ。

 あの壁の向こう側には、貴様の美しさを汚す腐敗と、浅ましい人間の欲望しか残っていない。

 ……貴様の瞳には、私の作るこの清らかな庭と、私だけが映っていればいい」


 ジークフリートの声は、熱を帯びた独占欲で低く震えていた。

 彼は、エルフレイデの細い肩を抱き寄せ、その首筋に自分の顔を深く埋めた。


 かつて「冷酷な辺境伯」と恐れられた男は、今や、彼女の香りが一秒でも途切れることを極端に恐れる、孤独な獣のようであった。

 彼は、彼女が呼吸する空気の成分一つ、室温の一度単位の変化すらも自らの魔力で緻密にコントロールし、彼女を「完全なる安寧」という名の檻に閉じ込めている。


 だが、エルフレイデはその檻を、これ以上ない幸福として受け入れていた。


「フフ……。わかっていますわ、閣下。

 私にとっても、あちら側の世界は……もう、思い出そうとしても霞んでしまうほど、遠い『ゴミ捨て場』のようなものですもの」


 彼女が指し示した、永久凍土の壁の遥か南。


 かつての「王国」が存在した場所は、今や地図上からも、そして人々の記憶からも、急速にその輪郭を失いつつあった。


 物理的な崩壊だけではない。

 エルフレイデが辺境で放つ「浄化の波動」が臨界点に達したことで、王都という概念そのものが、歴史の連続性から切り離され始めていたのだ。


 外の世界の人々は、ふとした瞬間に「そういえば、南に大きな国があった気がするが……名前が思い出せない」と首を傾げる。

 昨日までそこにあったはずの王宮は、人々の意識の中で「最初から存在しなかった空地」へと書き換えられ、王子たちの名前は、発音しようとした瞬間に喉が詰まる「禁忌の音」へと成り果てた。


 これこそが、ヒロインを捨て、蔑んだ世界に対する、神の如き「概念的断罪」であった。


 そんな中、唯一「記憶を消されることすら許されず」、生きたまま地獄を味わわされている男がいた。


 城の地下、汚物の音しか出せなくなったレオンハルト元王子である。


 彼は今、牢獄の隅で、自分の指を噛みちぎらんばかりの勢いで口に含んでいた。

 飢えと渇き、そして何より、自分自身の内側から溢れ出す「蓄積された悪臭」に耐えかねて。


 彼の喉からは、絶え間なく「ぐじゅ、ぐじゅる……」という醜悪な音が漏れ出ている。

 それは、彼がかつてエルフレイデに浴びせた罵倒が、そのまま肉の腐敗音へと変換された呪い。


「……あ、……ぶ、……ぐぅぅぅぅ……っ!!」


 レオンハルトは、独房の冷たい石畳に顔を押し当てた。


 ふと、彼の鼻腔を、信じられないほど甘く、清らかな香りが掠めた。


 それは、地上でエルフレイデが「新しい命」に祝福を与えた瞬間に放たれた、神聖なる余香。


 その香りに触れた瞬間、レオンハルトの全身に、凄まじい衝撃が走った。


 不浄な魂を持つ彼にとって、その香りは「救い」などではない。

 それは、彼の全身の毛穴から「ドブのような膿」を強制的に排出させ、内臓を内側から煮沸するような、地獄の業火であった。


「……がはっ!! ……ごぼっ、……ぶちゅる……!!」


 レオンハルトは、自分の口から溢れ出す黒いヘドロのような粘液を吐き出しながら、悶絶した。


 浄化の香りが、彼の体内に溜まった「過去の悪行」を、一滴残らず搾り出そうとしている。


 かつて、エルフレイデを暗い部屋に閉じ込め、彼女の涙を「無能の証」として嘲笑った記憶。

 自分を着飾るために、彼女の魔力を極限まで搾り取った記憶。


 それら一つ一つが、鋭い針となって彼の神経を突き刺す。


 レオンハルトは、薄れゆく意識の中で、鉄格子越しに広がる「虹色の空」を幻視した。


 そこには、かつて自分の婚約者であった少女が、

 自分など足元にも及ばない強大で美しいジークフリートに抱かれ、

 神の如き慈悲深い微笑みを、自分以外のすべてに向けている姿があった。


「……ああ、……あ……」


 彼は、その光景に向かって手を伸ばそうとしたが、

 自分の指先が、すでに悪臭とともに黒く腐り落ち始めていることに気づき、絶叫した。


 死ぬことすら許されない。

 彼は、これから何百年、何千年もの間、

 エルフレイデが支配する「完璧に清浄な世界」の片隅で、

 唯一の「汚点」として、自分の醜悪さを自覚させられ続けるのだ。


 これこそが、彼女が彼に与えた、永遠の「観客席じごく」であった。


 ――地上では。


 ジークフリートは、エルフレイデをそっと横たわらせ、その白い足首に唇を寄せた。


 彼は、自らの魔力を指先に集め、彼女の肌に「見えない防壁」を幾重にも重ねていく。


「エルフレイデ。……貴様が産む子は、この世界の『法』となる。

 貴様の香りを吸わぬ者は、この地で生きる権利を失い、

 貴様の香りを愛でる者だけが、永遠の安寧を得るだろう。


 ……私は、そのための剣となり、盾となり、

 貴様の楽園を汚す全ての芽を、今のうちに摘み取っておく」


 ジークフリートの瞳に、冷酷な決意が宿る。


 彼は、城の門前で跪き続けている帝国の皇帝や、諸国の王族たちを思い浮かべた。


 彼らは今、エルフレイデの「残り香」を求めて、自国の領土の半分を割譲する書類にサインし、自分の財産をすべて辺境の門前に積み上げている。


 しかし、ジークフリートにとっては、それすらも「不浄なゴミ」でしかなかった。


「セバス。……門の前に溜まっている『亡者』どもに伝えろ。


 我が妻が、彼らの供物を見て『鼻が曲がる』と仰せだ。


 今すぐ、それらすべてを焼き払い、自国へ戻って一生をドブの中で終えるか、

 それとも、今ここで私の魔力によって、塵一つ残さず蒸発するかを選べ、とな」


 セバスは、主人のあまりの無慈悲さに、満足げな微笑を浮かべて一礼した。


「畏まりました、閣下。……お嬢様の心地よい午睡のために、速やかに『清掃』してまいります」


 城門が開かれる。


 外で待ち構えていた王族たちは、セバスから放たれた「冷徹な最後通告」を聞き、絶望に顔を歪めた。


 彼らが持ってきた金、銀、宝石。

 それらはすべて、ジークフリートの魔力による一撃で、黒い灰へと変じ、風にさらわれていった。


 世界最高の権力者たちが、雪の上に這いつくばり、

「どうか、どうか一息だけでも、あの香りを……!」と涙ながらに乞う。


 だが、城壁の向こうからは、ただ清冽な氷薔薇の香りが、

 彼らをあざ笑うかのように、静かに、冷たく漂ってくるだけだった。


 エルフレイデは、寝室の柔らかなベッドの中で、

 ジークフリートが用意した「最高級の魔力の眠り」へと落ちていく。


 彼女の夢の中には、もはや王都の影も、王子の顔も出てこない。


 そこにあるのは、虹色の空と、

 自分を愛してくれる人の温かな腕と、

 やがて産まれてくる、世界で一番甘い香りのする子供の笑い声だけ。


 世界は今、彼女という一人の女性の「呼吸」を中心に、再構築を完了した。


 明日、彼女が目覚める時。


 世界はさらに清らかになり、

 彼女を見捨てた者たちの絶叫は、より深く、誰の手も届かない奈落の底へと沈んでいくことだろう。


「聖女」は死に、「香妃」という名の神が降臨した。


 そして、その神を飼い慣らし、独占する「氷の魔王」の執着は、

 この世界が続く限り、永遠に尽きることはないのである。

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