境界を越えて
男は森の縁で数日を過ごした。
昼は村を観察し、夜は森で眠る。
人々の暮らしを遠くから眺めるだけで、まだ接触はしていない。
服装、仕草、文化。
少しずつ、この世界の「人間らしさ」を学んでいった。
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ある朝、男は決意した。
もう十分だ。
村に入ろう。
女の姿に変わり、髪を整え、スーツの埃を払う。
深呼吸をして、草原を歩き出した。
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村への道は緩やかな坂道で、両脇には畑が広がっている。
農夫たちが働く姿が見え、挨拶の声が聞こえる。
男はゆっくりと歩きながら、周囲に注意を向けた。
誰かがこちらを見ている。
不審そうな目ではなく、ただの好奇心。
見慣れない顔だからだろう。
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村の入口に差し掛かったとき、一人の老人が声をかけてきた。
「おや、旅の方かね?」
男は一瞬戸惑ったが、すぐに頷いた。
「はい、少し道に迷ってしまって」
老人は優しく微笑んだ。
「それは大変だ。よければ、宿を紹介しようか?」
「ありがとうございます。でもお金がないのです」
「そうかそれは大変だったね……では我が家に泊まっていくといい。詳しい話は後で聞かせてもらおう」
自然な会話ができた。
人として、この世界に溶け込めている。
男の胸に、かすかな安堵が広がった。
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老人に案内されるまま、村の中へ入っていく。
木造の家々、石畳の道、井戸端で話す女性たち。
どこか懐かしい光景だった。
だが同時に、違和感もあった。
この世界は、自分が元いた場所とは違う。
電柱もない。車もない。
中世か、それに近い時代なのかもしれない。
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老人の家に案内され、部屋を借りた。
他に家族は居ないらしい。
簡素だが清潔で、窓からは村の広場が見える。
男はベッドに腰を下ろし、深く息を吐いた。
――ここまで来た。
生き延びて、森を抜けて、人の世界に戻ってきた。
だが、これで終わりではない。
この力をどう使うか。
この世界でどう生きるか。
それを、これから決めなければならない。
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窓の外を見つめながら、男は考えた。
自分は何者なのか。
電車のホームから落ちて、森で目覚めて、命を奪い、奪われそうになり――。
そして今、ここにいる。
もう元の世界には戻れないのだろう。
それなら、ここで生きるしかない。
この力を隠しながら、あるいは上手く使いながら。
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ふと、窓の外で子どもたちが遊んでいるのが見えた。
笑い声が聞こえる。
平和な光景。
だが、その裏には必ず何かがある。
争いも、飢えも、理不尽も。
それでも人は生きていく。
男も、生きていくのだ。
どんな形であれ。
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夕日が村を染め始めた。
男は立ち上がり、窓を開けた。
風が部屋に流れ込み、カーテンを揺らす。
新しい世界の匂いが、胸いっぱいに広がった。
――さあ、始めよう。
この世界で、もう一度。
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* * *
その夜、男は夢を見た。
駅のホーム。
電車が近づいてくる音。
背後から押される感覚。
だが今度は、落ちなかった。
体が宙に浮き、そのまま空へと昇っていく。
森が見える。村が見える。
遠くには山脈が連なり、その向こうには海が広がっている。
広い世界。
自由な世界。
その中で、自分はどこへでも行ける。
何にでもなれる。
夢の中で、男は笑った。
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目が覚めたとき、頬に涙の跡があった。
それが悲しみなのか、喜びなのか、自分でもわからなかった。
ただ、生きているという実感だけが、確かにそこにあった。
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朝日が窓から差し込み、新しい一日が始まる。
男は顔を洗い、服を整え、部屋を出た。
村の広場には、もう人々が集まり始めている。
その中へ、男は静かに歩み入った。
――これが、新しい始まり。
(終)
短い作品でしたが、最後までご覧いただきありがとうございました。初めての小説でしたので、なるべく形になるように、きちんと完結できるようにと思って作りました。若干思い切りが足りない部分もありましたが、それについては現在連載中の作品でタガを外していくつもりです。よろしければそちらもご覧ください。
愚者のルール 〜目が合ったら即バトル。クイズに支配された国で最強中学生やってます〜
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それではまたお会いしましょう。




