水底の決着
――男の視点
狭い水路の奥を、銀の影が走った。
細い流れを縫うように一匹の小魚が飛び出す。
その瞬間、蛇の体をした男が水を割った。
しなやかな胴がうねり、口が的確に獲物を捉える。
鋭い牙が小魚の体を深く貫いた。
かすかな震えのあと、動きが止まる。
水に散る気泡が消えるのを見届けながら、男はじっと噛み締めた。
命が途絶えたことが、驚くほどはっきりと伝わってくる。
水の流れの中で、世界が一瞬だけ静まったようだった。
――勝った。
胸の奥に、小さな熱が灯る。
生き延びたという確かな実感。
それと同時に、重い何かが胸を圧した。
初めて、人を殺した。
いや、正確には「人だったもの」を。
この小魚の中には、確かに人間の意識があった。
自分と同じように、必死に生き延びようとしていた誰かが。
男は目を閉じた。
後悔か、罪悪感か、それとも安堵か。
胸の内で渦巻く感情に名前をつけることはできなかった。
ただ一つだけ確かなのは――
やらなければ、やられていた。
この森では、それが唯一のルールだった。
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男は体をくねらせ、ぬめる岩肌を伝って地上へと這い上がった。
冷たい空気を吸い込み、泥を押しのけて身を起こす。
その瞬間、体の奥で何かが動き出した。
骨が軋み、筋がねじれ、皮膚の感覚が変わっていく。
世界が引き上げられるように広がった。
視界が高い。足元には草が揺れている。
――立っている。
自分の両手が目の前にあった。
白く細い指。女のものだった。
足元には黒いパンプス。
低いヒールが地面をしっかりと踏んでいる。
黒のパンツスーツ、白いブラウス。
湿った髪が頬に貼りつき、湖の風がそれを揺らした。
湖面に近づき、覗き込む。
そこに映っていたのは、見知らぬ若い女だった。
肩までの髪。整った顔立ち。
その瞳の奥には、金の光が微かに残っている。
――あれは。
息が止まった。
この姿を得たのは、あの小魚を喰った直後。
つまり、魚の中にいたのはこの女。
そしてこの女こそが、相手の本質だったのだ。
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男はゆっくりと目を閉じた。
意識を沈める。体が柔らかく縮み、毛が生え、耳が伸びる。
視界が低くなり、再びうさぎの姿へと戻った。
変身の力は失われていない。
けれど、あいつの持っていたクマやオオカミになろうとしても、できない。
自分の中にあるのは、ただこの「女の姿」だけだ。
ならば、自分が得たこの形こそ、相手のすべて。
胸の奥で何かが静かに沈んだ。
人を殺したのだという現実が、ようやく重みを持ちはじめる。
だが同時に、それを拒む感情も薄い。
やらなければ、やられていた。
あの牙が自分の喉を噛んでいたかもしれない。
そう思えば、これはただの順番にすぎない。
生きるために奪い、奪われぬために変わる。
それが今の自分だ。
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湖のほとりに立ち、風を受けた。
水面は静かに波打ち、そこに映る自分の白い毛が揺れている。
黒いオオカミの影はもうない。
けれど、その瞳にあった金の光だけが、まだ体の奥に残っている気がした。
男は耳を伏せ、短く息を吐いた。
もう戻れない。
それでも進むしかない。
この世界の理の中で、生き残るために。




