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終わりの瞬間

狭い水路の先に、わずかな広がりを感じた。

光が滲む。泡が抜け、圧迫されていた水の流れが急に軽くなる。


――出口だ。終点が近い。


私は尾を強く振り、勢いのままにその先へ飛び出した。


---


その瞬間、世界が暗転した。


光が消えた。

音も、流れも、存在の輪郭さえも、すべてが闇に飲み込まれる。


まるで自分の体だけが浮かび、世界から切り離されたようだった。


長い。

永遠にも思える一瞬。


---


その暗闇の中で、私は自分の心臓の音だけを聞いていた。

ドク、ドク、と、鼓膜の内側で鳴るような重い音。


そのたびに体のどこかが軋み、何かが終わっていく感覚があった。


――何だ? 何が起きた?


---


考える間もなく、鋭い衝撃が走った。

腹の奥。鋭利な何かが貫いていた。


「っ――!」


水中で声にならない叫びが漏れた。

視界が白く弾け、全身に痛みが広がる。


遅れて理解する。

これは――罠だ。


罠に掛かったのは、私の方だった。


---


息が詰まる。

体を動かそうとしても、筋肉が反応しない。


痛みが全身を支配し、思考が濁っていく。


変身しなければ――そう思っても、集中できない。

意識をひっくり返す隙間がない。


痛みが強すぎる。

それどころか、自分の体がどこまで残っているのかも分からない。


---


――油断した。


心の中で言葉が浮かび、すぐに沈んだ。


相手を「弱い」と決めつけていた。

常に自分の方が上だと思っていた。


逃げてばかりのうさぎを、ただの獲物としか見ていなかった。


だが、違った。


弱いのは、私だった。


---


相手よりも「弱い身体」を手に入れたのは自分だ。

追うという状況が、自分を盲目にしていた。


優位に立っているつもりで、実際は足元が崩れていた。


私は、力の使い方を知らないまま、力に酔っていたのだ。


---


もし――もしあのまま狼の体で戦っていれば。

水にも、空にも、逃げられなかっただろう。


なのに私は、勝つために形を変え、変えるたびに自分を小さくしていった。


気づけば、魚の姿。牙も爪もない。

ただ追うためだけに、小さく、弱く、細くなっていった。


---


「……負けたのか……」


言葉が頭の奥でこだました。

その響きが、痛みよりも重かった。


負けたという実感が、心の奥をじわじわと焼いていく。


---


――力がない時は、力のなさに絶望し、

――力を得れば、今度はその力に溺れる。


なんという愚かさだ。


---


思えば、最初からそうだった。

狼に転じた時も、熊になった時も、空を飛んだ時も。


私はいつも、誰かより強くあろうとし、

強くなるたびに何かを見失っていた。


人間の時も、同じだったのかもしれない。


「もっと頑張れば認められる」

「もっと我慢すれば報われる」


そう信じて、自分を追い詰めていた。


---


結局、私は何も変わっていなかった。

場所が変わっても、形が変わっても、同じ過ちを繰り返していただけだった。


相手は違った。

力は弱くとも、あきらめなかった。


ただ生き延びるために、どんな形にもなり、どんな恥も恐れなかった。


私はそれを「弱さ」と思い込んでいた。

だが、違う。あれこそが、生きるということだったのだ。


---


もし――もし、やり直せるなら。

あの駅のホームに戻れるなら。


今度は、自分を追い詰めたりしない。

力で押しつぶそうとしたりしない。


ただ、自分のペースで、自分らしく生きてみたい。


そんな当たり前のことが、こんなにも難しかったなんて。


---


――これでは、どこの世界に生まれ変わろうと、上手くいくはずがない。


胸の奥で何かが軋んだ。

痛みが波のように押し寄せ、意識が薄れていく。


目の前の闇が、より深く、より静かに広がっていく。


---


嫌だ。

まだ終わりたくない。

まだ死にたくない。


爪を動かそうとする。

尾を打とうとする。


だが、体はもう反応しない。


---


暗闇の中で、自分という存在が小さく削られていくのを感じた。


思考の残りかすが、かすかに囁く。


――生きたい。

――もう一度。

――やり直せるなら。


その声が泡のように浮かび、静かに弾けた。


---


痛みが薄れていく。

恐怖も、焦りも、消えていく。


最後に残ったのは、ほんのわずかな光だった。


それが、世界なのか、記憶なのか、自分の命の最後の灯か、もう分からなかった。


ただ、心の奥で誰かが言った気がする。


――それでも、生きようとしたのは確かだ。



黄金の檻、あるいは最後の晩餐


朝の目覚ましが鳴るたびに 胸の奥に沈んでいた小さな石

事務机に張り付き、ただ呼吸を繰り返していたあの頃

私はとっくに 死んでいたのかもしれない


だけど見て、今の私の血はこんなに熱い

黄金の瞳に映る景色は、壊れるほどに鮮やかだ

奪い、喰らい、繋いできた 他者の命の継ぎ接ぎで

私はようやく 「生きた獣」になれたのだ


逃げ続けたあいつ(うさぎ)が、今は私の喉元に牙を立てる

奪う側から奪われる側へ この痛みこそが世界のことわり


さあ、召し上がれ 奪うことで手に入れた私の力を

私の肉を、骨を、この黄金の輝きを あなたの糧に変えて


駅のホームの冷たさよりも この水底の闇は心地いい

私は、私のまま消えるのではない


お前の一部として 永遠に生き続けるのだから


## 【幕間2】


――時は巻き戻る。

あの水路で、二つの命が交わった瞬間へ。

追われる者の視点から、追う者の視点へ。

今一度、その結末を確かめよう。



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