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形なき存在

湖面を見下ろしながら、私は羽をたたんだ。

逃げられた。だが、失望よりも先に、妙な感心が胸に浮かんでいた。


――それにしても、あのうさぎの持ち札の貧弱なこと。


うさぎ、蛇、羽虫、亀。

せいぜいその程度。どれも力としては脆弱極まりない。

もっと他にも形を持っているのかもしれないが、あの状況で出し惜しみする余裕などないはずだ。

つまり、あれが限界。


そう考えると、私は少し笑った。

相手はただ生き延びてきただけ。力を誇るには、あまりにも弱い。


だが、水の中に逃げ込まれるとは思わなかった。

空の自由を得た私は、すっかり万能になった気でいたのだ。


――水。


その存在がこれほど手強いとは。

湖の下へ潜られてしまえば、私の翼も爪も無力だ。追いようがない。

かといって、むやみに同じ弱さに落とすのは愚かだ。


「......魚、か」


私は湖面を見つめながら暫く考える。

水中での優位を取るには、相応の姿を手に入れねばならない。

単なる魚ではいけない。相手を追い詰められる大きさが必要だ。


カワウソも悪くない。泳ぎも速く、陸にも上がれる。

それに、あの俊敏な目と牙なら、獲物を逃がさない。


――問題は、手に入れる命だ。


私は湖の縁を歩きながら、視線を水中に注いだ。

陽光が反射して、銀色の閃きがいくつも走る。

目を凝らすと、底の方に大きな影が動いた。


ちょうどいい。


私は翼を広げ、空気を裂いて舞い上がる。

風を掴み、高度を取り、湖面を見下ろす。

獲物の位置を定め、一気に急降下した。


影が水面近くに浮上するのとほぼ同時。

私は爪を伸ばし、狙いを外さず掴み上げた。


――重い。


だが、逃げる間もない。

水飛沫が弧を描き、巨大な魚が空へ持ち上がる。

嘴を突き立て、命の灯が消えるのを感じた瞬間、私は意識を切り替えた。


体が冷たい水に包まれる。

羽が消え、鱗が肌を覆う。

呼吸が変わり、胸の奥で水を取り込む感覚が広がる。


――これが、水の世界。


周囲の音が消え、光が淡く揺らめく。

水中では抵抗が大きく、動きは重い。だが、同時に静寂が心地よかった。

空とは違う。ここでは沈黙こそが支配者だ。


しばらく泳ぎ回り、感覚を確かめる。

尾を振るたびに水が押し返す。

筋肉の動かし方を掴み、方向転換もできるようになる。


これで――追える。


私はさらに数匹の魚を襲った。中型、小型と大きさを変えておく。

狭い場所にも潜り込めるように、状況に応じて切り替えるためだ。


「逃げ場は、もう与えない」


独りごちて、水中を見渡す。

深く沈む湖底。そこに、あのうさぎがいるのだろう。


それにしても、思い出す。

さっきの逃走劇の最後、うさぎが姿を消した場所――あれは、境界のすぐ近くだった。


つまり、やつもバリアの存在に気付いている。

そして、あの透明な檻が狭まっていることも、間違いなく察しているはずだ。


いずれ、逃げ場は消える。

森も湖も、いずれ一箇所に押し込められる。

その時、どちらかがもう一方を喰うしかない。


私は水中を漂いながら、尾を静かに揺らした。

次に会う時、あのうさぎはもう逃げ切れない。

確実に仕留めるための準備は整いつつある。


光が水面から差し込み、波紋の中に自分の影が揺れる。

それは、もはや鳥にも獣にも見えなかった。

ただ、最後に生き残ることだけを目的とした、形のない存在だった。


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