追走
ふと、背筋に冷たいものが走った。
気配だ。
森のざわめきとは違う、ただの獣の臭いでもない。胸の奥をざわつかせる、特別な気配。
――あの、うさぎ。
間違えようがなかった。殺しかけ、そしていつの間にか姿を消したはずの存在。だが今、確かに近くにいる。
私は鼻先を低くし、匂いをたどった。
草の間をくぐり抜け、風下を取る。
鼻腔を満たすのは小さな命の匂い――ネズミやリス、ただの小動物ばかりだ。
だが違う。あれは、ただの獣ではない。
気配が近付いた瞬間、私は地を蹴った。
草むらを割り、勢いよく飛び出す。
「――!」
相手も気付いた。
見えたのは小さな影。だが次の刹那、その体はぐにゃりと歪み、毛皮が伸び、耳が立ち上がった。
うさぎ。
間違いない。
やはり生きていた。
本能が叫んでいた。
――逃がすな。
――あれだけは、この手で仕留めろ。
私は駆け出した。脚が土を蹴り、体が矢のように伸びる。
距離が詰まる。もう少しで背に牙が届く――そう思った瞬間。
うさぎの姿が一瞬で解け、代わりにぬめる鱗が現れた。
蛇。
するすると幹を登り始める。
「......同じだ」
私は理解した。
やはりあいつは私と同じ能力を持っている。死と引き換えに姿を変える力。
わずか数秒の逡巡ののち、私は大きく吠えた。
巨躯が盛り上がり、爪が伸び、毛並みが荒く広がる。
クマの姿に変わり、木を揺らしながら登る。
蛇の体でできることは限られている。飛び降りるか、幹に巻き付くか。どちらにせよ、私の手に落ちるはずだ。
勝利の手応えを掴みかけた、その時。
幹の上で蛇の姿がふっと解け、光を反射する小さな翅が現れた。
小さな虫だ。
「なに......!」
そのまま羽音を立てて飛び立った。
私は慌てて木を降り、再び意識を切り替える。
体が軽くなり、翼が広がる。
ワシとなり、大気を裂いた。
虫の小さな影を追う。
木々の枝が行く手を邪魔するが、速度はこちらが圧倒的だ。
少しずつ、確実に距離を詰めていく。
やがて木々が途切れ、視界が開けた。
目の前には湖が広がる。
水面に光がきらめき、風が波を揺らしている。
虫の影が湖の上空でふらりと揺れた。
その瞬間――。
小さな翅は消え、代わりに甲羅を背負った姿が現れた。
亀。
くちばしが殻をかすめた。
きぃん、と甲羅が鳴り、そのまま水面を割って沈んだ。
私は水中まで追おうとする。だが水の抵抗が翼を裂き、脚を濡らすだけだった。
湖に潜った獲物を追う術は、私にはない。
羽音を止めて湖面を見下ろす。波紋が広がり、やがて何も残らなくなった。
「......くそっ」
悔しさが喉を焼く。
私の持つ変身では、これ以上の追跡は不可能だった。
湖の深みへと沈んでいった影は、もう二度と捕らえられないかもしれない。
だが、確信は得た。
あのうさぎは生きていた。そして私と同じ力を持ち、なお生き延び続けている。
本能が囁く。
――あれを倒さなければならない。
湖面に映る自分の影を見下ろしながら、私は深く息を吐いた。




