気紛れの空
倒れ伏したワシの亡骸を見下ろしながら、私は深く息をついた。
翼。空を切り裂く力。
これを手に入れたのだ。
恐る恐る意識を切り替える。骨が軽くなり、毛が羽毛に変わり、両腕が広がって翼となる。
体が縮み、代わりに空気が体を押し上げる感覚が全身を包んだ。
――飛べるかな?
試しに大きく翼を広げた。風が流れ、羽が震える。地面を蹴ると、体がふわりと浮き上がった。
思ったよりも簡単だった。数歩で地面が遠ざかり、枝の上を越えていく。
最初は不安定で、羽ばたきの角度を誤るとすぐに傾きそうになる。墜落すればただでは済まない。
だが、それも長くは続かなかった。筋肉と羽の動かし方が体に馴染み、旋回できるようになる。
――飛んでいる。
森を覆う緑の海を見下ろし、私は思わず喉を鳴らした。
数十メートルの高さを円を描くように旋回する。
けれど、感覚はもっと高く飛べと背中を押していた。百メートル、いや数百メートルの高さでも、きっと大丈夫だ。
いったん降下して地面に戻る。翼を畳み、体をうねらせる。再び骨が軋み、獣の四肢が戻る。
オオカミの姿だ。
鼻を使い、草むらを探る。すぐにネズミの気配を嗅ぎつけ、飛びかかって押さえ込んだ。
小さな心臓が暴れる。私はためらいなく噛み締めた。
巣へ向かう。
木々をよじ登る必要はなかった。今や私は翼を持っている。巣の縁にとまると、雛が二羽、黄色い嘴を大きく開けて鳴いた。
その声に、胸の奥がざわめいた。
私はネズミの亡骸をそっと置いた。
罪滅ぼし――そんな言葉が頭をよぎる。意味はない。ただの気紛れに過ぎない。
けれど、生き残れるか分からない身でも、時折はこうして餌を運んでも良いだろう。そう思った。
翼を広げて空へ舞い上がった。
羽ばたくたびに体は軽く、森の上を滑るように進む。枝葉の影は足元に広がり、風が羽毛を押し上げる。
――これが、空を持つということか。
速度を上げて、森の端へと向かった。
地上を走るよりも圧倒的に速い。視界は広く、どこまでも見渡せる。遠くには村の屋根も小さく光っていた。
自由の感覚が胸を満たす。地上で怯えていた日々が幻のようだ。
だが。
そろそろ壁だ。前触れもなく、空気が硬くなった。
体が前へ進むのを拒まれる。
「――っ!」
次の瞬間、透明な壁に叩きつけられる。
ガツンと衝撃が翼に走り、羽がばらけ、体勢を崩した。
あらかじめ想定していなければ、そのまま墜落していたに違いない。
羽ばたきを必死に整え、急降下して地面に降り立つ。
心臓が荒く打ち、脚の震えが収まらない。
――やはり、空も覆われている。
以前は地上でのみ感じた透明の膜。だが今、確かに空にも同じものが存在していることを知った。
この壁は、森を丸ごと覆っているのだ。
私は翼を畳み、呼吸を整えると意識を切り替えた。
骨格が軋み、体毛がざらつき、牙が口に戻る。
オオカミの姿へと変わる。
爪を立て、地面を掘り返した。
土が飛び散り、湿った匂いが鼻に広がる。
だが――。
土の奥にも、やはりあった。
目には見えないが、確かにそこに壁がある。爪先が進めなくなり、じり、と嫌な抵抗を感じる。
「……地中もか」
森の下からも、空からも、外には出られない。
私は掘った穴から這い出て、振り返った。土の奥に潜むはずの自由は、どこにもなかった。
風が吹き、木々がざわめく。
まるで森そのものが、閉じ込めているかのようだった。
――また、檻か。
思わず、声にならない笑いが漏れた。
人間の世界でも、檻の中にいた。
見えない壁に囲まれて、逃げ場のない日々。
「辞められない」「他に行けない」「これしかない」
そう思い込んで、自分で自分を閉じ込めていた。
やっと自由になれたと思ったのに。
強くなれたと思ったのに。
また、誰かに閉じ込められている。
力を得ても、結局は何も変わらないのか。
胸の奥に、冷たいものが広がった。
それは怒りでも悲しみでもない。
もっと深い、諦めに似た感情だった。
だが――。
爪を握りしめる。
歯を食いしばる。
――いや、まだだ。
今度こそ、本当の自由を手に入れる。
この檻を破って、外へ出る。
そのために、あのうさぎを倒す。
それが、この檻から出る鍵なのだ。
そう信じなければ、もう何も残らない。




